礼拝説教から 2021年8月1日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙14章13-23節
  • 説教題:愛によって歩むための自由

 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。(13-16)

 

0.

 ローマ人への手紙は、12章から、イエス様を信じて救われたクリスチャンの新しい信仰生活について語られています。そして、その内容が踏まえられながら、14章では、具体的な問題が取り上げられています。それは、食べ物に関する問題です。

 パウロの時代の教会では、外国の神々、偶像に供えられた後、市場で売り出された肉を、「食べてよいか、食べるべきでないか」ということが問題になっていたようです。主にユダヤ人でクリスチャンになった人々は、「偶像に供えられた肉は汚れている、食べるべきではない」と考えました。一方で、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々は、「偶像なんて、木や石に過ぎない、何でも食べることができる」と考えました。問題は、その「食べる人」と「食べない人」との間で、対立が起こっていたということです。「食べる人」は「食べない人」を見下し、「食べない人」は「食べる人」を裁いたということです。そして、パウロは、その互いに裁き合うことを戒めているということです。

 今日はローマ人への手紙14章13節からの段落を見ていきますが、内容はその前の段落とつながっています。

1.

 パウロは、改めて、互いに裁き合わないようにすることを呼びかけています。そして、「いや、むしろ」と続けながら、「兄弟に対して、妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい」と命じています。

 「むしろ」というのは、「二つのことを比べて、あちらよりもこちらの方がよい」という気持ちを表す時に使われる言葉です。今日の本文で言えば、二つのことというのは、「互いに裁き合わないこと」と、「兄弟姉妹に対して、妨げになるもの、つまずきになるものを置かないと決心すること」です。つまり、パウロが強調しているのは、ただ単に、互いに裁き合わないだけではなくて、兄弟姉妹に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないと決心するということです。パウロは、互いに裁き合わないことから、もう一歩踏み込んで、兄弟姉妹に対して、妨げになるもの、つまずきになるものを置かないと決心することを求めているということです。

 どういうことでしょうか。

 パウロは、食べ物を含めて、自分の確信を語っています。それは、それ自体として、汚れているものが何一つないということです。食べ物にしろ、他の何かにしろ、それ自体として、汚れているものは何もないということです。

 パウロは、「食べる、食べない」の問題において、どちらか一方の側に立つことをしていませんでした。パウロは、神様がどちらの側も受け入れてくださっているのであり、どちらの側も、主イエス様のために、食べるのであり、食べないのだと言っていたわけです。だからこそ、互いに裁き合ってはいけないと戒めているということです。

 しかし、パウロ本人の考えとしては、「汚れているものは、何もない」ということです。そして、それは、神様に感謝して、何でも自由に食べることができるということを意味しています。パウロは、何でも自由に食べることができたということです。そして、そんなパウロや「食べる人」から見る時、食べない人というのは、「信仰の弱い人」になるということです。

 先々週になるでしょうか。パウロが言っている「信仰の弱い人」というのは、信仰がフラフラしていることではないということを分かち合いました。むしろ、彼らは、確かな信仰を持って、食べない選択をしているということです。偶像に供えられた肉を食べることによって、主イエス様のものである自分を汚してはならないという考えです。それは確かな信仰です。しかし、その確かな信仰を持った人々のことを、パウロは、「信仰の弱い人」と呼んだということです。

 どういうことでしょうか。

 「食べない人」が救われたのは、食べないことによってではありません。彼らは、食べないことによって、自分を汚れから守って、神様から認められて救われたのではありません。そうではなくて、イエス様を信じることによってです。「食べない人」もまた、罪人の自分を無条件に赦し受け入れていてくださるイエス様の愛を受け取る信仰によって、救われたということです。そして、それは、彼らが、食べないという行いによって、神様から認められようとする自分たちの教えから自由になっていたということです。しかし、そうでありながら、新しく始まった具体的な信仰生活においては、なおも、自分たちの教えや習慣に縛られている部分があったということです。そして、それは、彼らが、イエス様によって与えられた自由を、具体的な信仰生活の中で味わうことのできる自由を、十分には分かっていなかったということを示しています。だからこそ、パウロは、「食べない人」を「信仰の弱い人」と呼んだということです。しかし、パウロの考えは、その「信仰の弱い人」を受け入れなければならないということです。受け入れるのは、もちろん、「食べる人」であり、言葉にはなっていませんが、それは、「信仰の強い人」ということになるでしょう。イエス様によって与えられた恵みの中で、人間的な教えや習慣から自由になっている人々です。

 「いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい」、それは、主に、何でも自由に食べる人に対しての言葉だと言えるでしょう。「イエス様の確かな救いは、何の力もない偶像に供えられた肉を食べるようなことで、決して揺るがされたりしない、食べても問題ない」と言って食べることそのものが、「食べない人」にとっては、信仰生活の妨げ、つまずきになるということです。イエス様の確かな救いの中で与えられた自由によって、自由に何でも食べることが、「食べない人」にとっては、信仰生活の妨げ、つまずきになっているということです。だからこそ、パウロは、「食べる人」に対して、「食べない人」の信仰生活を妨げるもの、つまずかせるものを置かないと決心することを求めているということです。

 パウロは、食べ物のことで、兄弟姉妹が心を痛めているとすれば、それは、愛によって歩んではいないことになるということを言っています。

 繰り返しになりますが、パウロ本人は、何でも自由に食べることのできる人でした。それは、自分の行いによってではなくて、自分の何かによってではなくて、イエス様の一方的な恵みによって与えられた救いの確かさを信じていたからです。パウロや他の「食べる人」は、自分の行いや何かによって左右されることのない、イエス様による救いの確かさを信じていたからこそ、何でも自由に食べることができたということです。そして、それは、イエス様の無条件の愛によって救われた恵みの中でこそ、味わうことのできた自由です。パウロや「食べる人」にとって、食べることは、間違ったことでも何でもないわけです。むしろ、素晴らしいことです。

 しかし、「そうであるにもかかわらず」ということになるでしょうか。イエス様の救いの中で与えられた自由を用いて、何でも食べるによって、他の兄弟姉妹を苦しめることがあるということです。そして、その自分の自由によって、他の兄弟姉妹を苦しめているとすれば、それは、愛によって歩んではいないことになるということです。

 パウロは、他の手紙の中で、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました」ということを言っています。キリスト・イエスは、救い主であるイエス様は、自由を得させるために、私たちを解放してくださったということです。イエス様は、私たちが、人間的な教えから、劣等感から、怒りや憎しみから、決して満たされることのない欲望から、あらゆる束縛から、解放してくださったということです。イエス様が私たちに願っておられるのは、自由だということです。

 どうでしょうか。私たちは自由でしょうか。私たちが、「自分は自由だ」と思う時、その自由というのは、どのようなものでしょうか。反対に、「自分は自由ではない」と思う時、その自由とは、どのようなものでしょうか。

 自由とは、何でしょうか。それは、やりたい放題のことができるということではないでしょう。誰にも、何も、気を使わないで、自分の思いのままに行動することができるということではないでしょう。何でも好きなことを言うことができるということでもないでしょう。もし、自由の意味が、やりたい放題のことをしてもいい、何でも言いたいことを言っていいということであるなら、それは、社会を混乱させるだけのものでしかないでしょう。周りの人を傷つけるだけのものでしかないでしょう。

 繰り返しになりますが、パウロは、「食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません」と言っています。パウロは、自由に食べることを、愛と結び付けています。与えられた自由を用いることによって、兄弟姉妹を傷つけているとするなら、誰かを傷つけているとするなら、それは、愛によって歩んでいることにはならないということです。逆に言うと、私たちが愛によって歩んでいるなら、自分の自由にこだわって、兄弟姉妹を傷つけるようなことはしないということです。まさに、愛は隣人に悪を行わないということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。自由というのは、どのようなものでしょうか。それは、愛と結び付いていなければならないということではないでしょうか。兄弟姉妹を愛することが、周りの人々を愛することが、前提になっていなければならないということではないでしょうか。逆に言うと、愛することに結び付かないなら、自分の自由を手放すこともあるということではないでしょうか。自分の自由によって、誰かが傷つくようなことになるとすれば、その自由を手放すということです。あるいは、自由というのは、愛するために与えられたものと言ってもいいのかも知れません。愛によって歩むために、自由は与えられているということです。自由は、私たちが愛するために与えられているものであり、愛する人々を傷つけるために与えられているのではないということです。

 自由というのは、大切なものです。それは、クリスチャンにとってだけではなくて、ノンクリスチャンにとっても同じです。クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、自由というのは、大切なものです。なぜなら、自由があってこそ、私たちは、自分の人生を自分の人生として生きることができるからです。私たちは、自由があってこそ、誰かの期待に応えるための人生ではなく、国や社会から強制された人生でもなく、自分の人生を生きることができるということです。そして、だからこそ、自由は、「獲得する」や「守る」という言葉とくっつきやすいのかも知れません。自由というのは、獲得するものであり、守るものであるということです。獲得した自由は、手放すべきではないということです。

 しかし、パウロが、ローマの教会の人々に対して、特に「信仰の強い人」に向けて語っていることは、何でしょうか。それは、自由を手放すことと言ってもいいのではないでしょうか。パウロは、「信仰の弱い人」が守られるために、愛によって歩むために、自由を手放すことを求めているということです。自分の自由にこだわることが、兄弟姉妹を傷つけることになるなら、誰かを傷つけることになるなら、その自由を手放さなければならないということです。あるいは、自分の自由を神様に献げると言ってもいいのかも知れません。「自分の自由から自由になる」必要があると言ってもいいのかも知れません。いずれにしろ、大切なことは愛によって歩むということです。

 ちなみに、パウロ本人は、他の手紙を見ると、「食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません」と言っています。パウロは、食べる自由があることを確信しながらも、愛によって歩むために、自分の自由にこだわらなかったということです。

 私たちはどうでしょうか。イエス様の救いの中で、自由を味わっているでしょうか。自分の自由とどのように向き合っているでしょうか。

 私たちの礼拝に集まる一人一人が、イエス様の一方的な恵みによる救いの確かさの中で、あらゆる束縛から自由になることを、心から願います。優越感や劣等感から、怒りや憎しみから、人間的な教えや習慣から、罪の支配から、自由になることを心から願います。その自由を、愛によって歩むために用いることができることを、心から願います。そして、その愛による歩みが、教会の一致のために用いられることができることを、心から願います。

コメントを残す