礼拝説教から 2021年7月25日

  • 聖書箇所 ローマ人への手紙14章1-12節
  • 説教題:私たちは主のものです

 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。↩ 「わたしは生きている—―主のことば—―。↩ すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、↩ すべての舌は、神に告白する。」↩ ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。(5-12)

 

0.

 先週に続いて、ローマ人への手紙14章1-12節を開かせていただきました。「食べる、食べない」が問題となっている所です。

 恐らくは偶像に供えられた肉などが中心になると思いますが、ローマの教会には、「食べる人」と「食べない人」がいたようです。そして、問題は、その「食べる人」と「食べない人」の間で、対立があったということです。「食べる人」は「食べない人」を見下していたのであり、「食べない人」は「食べる人」を裁いていたということです。

 先週は主に1-4節を見ましたが、今日は5節以降を見ていきたいと思います。

1.

 ローマの教会においては、「食べる、食べない」だけではなくて、日についても、考え方の違いがあったようです。そして、パウロによれば、それは、あくまでも、考え方の違いであり、信仰のスタイルの違いであって、どちらが正しい、どちらが間違っているという問題ではありません。

 パウロは、「特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます」という言い方をしています。そして、食べることについても、同じように、「食べる人は、主のために食べています」、「食べない人も主のために食べない」ということです。

 パウロは、「主のために」という言葉を繰り返しています。特定の日を尊ぶのも、食べるのも、食べないのも、それは、主のためだということです。そして、それは、自分のためではないということです。自分の満足のためでもなくて、自分の正しさを主張するためでもなくて、主イエス様のためだということです。食べるにしても、食べないにしても、主のためであることには、変わりがないということです。

 次に、パウロは、大胆に、自分自身とローマの教会の人々について、自分のために生きている人がいないと言っています。自分のために死ぬ人もいないと言っています。自分たちは、主のために生きているのであり、主のために死ぬのだと言っています。主イエス様のために、生きて死ぬということです。

 どうでしょうか。私たちは誰のために生きているでしょうか。主のためでしょうか。自分のためでしょうか。あるいは、他の誰かのため、他の何かのためでしょうか。

 社会の中においては、自分のために生きるというのは、大切なことと考えられているでしょうか。自己実現と言ってもいいのだと思います。親や周りの人々の期待に応えて生きるのではなくて、他人に振り回されて生きるのではなくて、自分自身の人生として生きるということです。そして、私たちが、自分の人生を、自分の人生として生きることができるとすれば、それは、本当に素晴らしいことではないでしょうか。

 また、誰か他の人のために生きるということも、大切なこととして考えられているでしょうか。自分のことばかりを考える人生ではなくて、誰かのために、社会のために生きる人生です。

 それでは、主のために生きるというのは、どうでしょうか。

主のために生きると言われると、私たちは、主のために何かをするということを、イメージするかも知れません。主の役に立つ何かをする、主に喜ばれる何かをするということをイメージするかも知れません。また、主のために死ぬと言われると、すぐに殉教をイメージすることになるかも知れません。いずれにしろ、主のために何かをする、主のために死ぬというのは、クリスチャンであるならば、誰もが素晴らしいと考えることになるのかも知れません。

 どうでしょうか。私たちは、主のために何かをすることができているでしょうか。主の役に立つ何か、主に喜ばれる何かをすることができているでしょうか。もしかしたら、必ずしも、そうではないと言わなければならないのかも知れません。

 忙しさの中で、主のことを忘れて、主と関係なく生きることがあるでしょうか。反対に、時間があったらあったで、時間を持て余すばかりになっていることはないでしょうか。また、主のために生きることを切に願っているのに、例えば、年を取って、病気になって、あるいは、様々な事情の中で、何もできなくなるようなことも、あったりするでしょうか。そして、いずれにしろ、主のためになる何かができていないのであるならば、それは、主のために生きていないということになるのでしょうか。殉教の死を遂げるのでなければ、主のために死んだのではないということになるのでしょうか。そうであるならば、それは、結局の所、人間的な行いに目を向けているだけのことと言ってもいいのかも知れません。そして、主のために生きることのできない私たちには、何の望みのないことになってしまうのかも知れません。

 主のために生きる、それは、より根本的には、主のものとして生きるということではないでしょうか。主イエス様のものにされた者として生きるということです。あるいは、主のために生きることは、主のものにされた者であることを覚えることから始まると言ってもいいのかも知れません。そして、それは、主イエス様の十字架の前で、自分の罪を知り、同時に、その罪人の自分を赦してくださった神様の一方的な恵みの中に生きるということです。罪人の自分を愛するが故に、十字架にかかって死んで復活してくださった主イエス・キリストの恵みの中に生きるということです。無条件に愛されている罪人として生きるということです。そして、だからこそ、その神様の一方的な恵みに応えて、無条件の愛に応えて生きるということです。そして、それは、本当の意味で、自分を大切にする生き方であり、同時に、隣人を愛する生き方です。

 パウロによれば、ローマの教会の人々は、主のために生きていました。主のものとして生きていました。自分のことばかりを考えてではなくて、主の愛を覚えて、その愛に応えて、主のために生きていました。だからこそ、そこには、感謝がありました。しかし、そうであるにもかかわらず、彼らは同時に、自分の兄弟姉妹を裁いたり見下したりしていたということです。

 10節冒頭の「それなのに」というのは、「主のために生きているはずなのに」ということになるでしょうか。そして、その上で、「どうして」と問いかけています。主イエス様のために生きているはずなのに、どうして自分の兄弟姉妹を裁くのか、どうして自分の兄弟姉妹を見下すのかということです。

 どういうことでしょうか。それは、主のために生きているならば、自分の兄弟姉妹を裁いたり見下したりするようなことを、決してしないはずだということではないでしょうか。そして、それは、逆に言うと、ローマの教会の人々が、主のために生きているつもりでいて、自分のために生きることがあったということを意味しているのではないでしょうか。主のために生きているつもりでいて、自分のために生きることがあったのであり、だからこそ、兄弟姉妹を裁いたり見下したりするようなことがあったということではないでしょうか。そして、それは、自分が主のものであることを忘れることがあったということではないでしょうか。罪人でありながら、赦されて、主のものとされている恵みを忘れることがあったということではないでしょうか。

 残念なことにと言えばいいでしょうか。私たちは、自分が主イエス様のものであることを忘れてしまうことがあります。罪人でありながら、赦されて、主のものとされた恵みを忘れて、驕り高ぶってしまうことがあります。そして、主のために生きているつもりでいて、他の兄弟姉妹を裁いたり見下したりすることがあります。反対に、赦されているにもかかわらず、受け入れられているにもかかわらず、自分で自分を赦すことができない、自分で自分を受け入れることができないことがあります。そして、自分で自分を傷つけてしまったりします。

 大切なことは何でしょうか。それは、自分が主イエス様のものであることを覚え続けることです。罪人でありながら、神様から無条件に愛されている恵みを覚え続けることです。そして、そのために、神様は、私たち一人一人を礼拝に招いてくださっています。罪人でありながら、神様から愛されている恵みを覚えることができるように、主のものとされている恵みを覚えることができるように、私たちは神様ご自身から礼拝に招かれているということです。あるいは、礼拝というのは、自分が主のものとされている恵みを味わう場であり、その恵みに感謝して、その恵みに応えて、主のために生きる新しい歩みへと遣わされていく場と言えるでしょうか。そして、その主のために生きる新しい歩みは、神様の裁きの座を覚えて生きることでもあるでしょう。

 神様の裁きの座というのは、終わりの日のことです。終わりの日に、私たちは神様の裁きの座に立つことになるということです。そして、その神様の裁きの座で、私たちは自分自身について、神様に申し開きをすることになります。申し開きというのは、言い訳、弁明ということです。自分の潔白を主張することです。

 どうでしょうか。私たちは神様の裁きの座でどのような申し開きをすることになるでしょうか。そこには、誰かを裁いた、見下したというようなことも含まれてくるでしょうか。そして、神様はその申し開きを聞いてくださるでしょうか。

 人の前では、私たちは申し開きをすることができるかも知れません。上手に弁解をして、納得してもらうことができるかも知れません。しかし、神様の前では、決して通用しません。私たちの心の隅々までご存知の神様の前では、私たちのどのような言い訳も通用しません。私たちは神様の前で言い訳をすることができないということです。

 神様の裁きの座で私たちができること、それは、言い訳をすることではありません。そうではなくて、それは、自分の罪を告白することです。自分のありのままの姿を告白することです。罪深い自分のありのままを神様に委ねることです。そして、神様は、その私たちを受け入れてくださいます。なぜなら、私たちは主イエス・キリストのものだからです。私たちが正しく生きたからではなく、私たちの言い訳が上手だったからではなくて、私たちが主イエス・キリストのものとされているからです。あるいは、私たちが神様の裁きの座で申し開きをするというのは、自分の罪を認めながら、その自分が赦されるために死んで復活してくださった主イエス・キリストをほめたたえることと言ってもいいのかも知れません。罪人でありながら、赦されて、主のものとされた恵みを喜び感謝することです。そして、それは、私たちが、毎週の礼拝で行っていることでもあります。私たちは、終わりの日に、神様の裁きの座で受け取る恵みを、毎週の礼拝で、共に味わっているということです。私たちは、毎週の礼拝を通して、罪人でありながら、主イエス・キリストのものとされた恵みを覚えながら、共に神様の裁きの座に立つ者として整えられているということです。そして、それは、私たちが、赦されて、主のものとされた者であり、決して互いに裁いたり見下したりすることのできない者であることを覚えるということです。

 神様の前に立つ、それは、終わりの日の裁きにおいてだけではありません。私たちは、毎週の礼拝において、神様の前に立たせていただいています。罪人でありながら、赦されて、主のものとされた者として、神様の前に立つ恵みをいただいています。そして、主のために生きる者として、互いに愛し合って生きる者として、招かれています。

 ローマの教会の人々は、主のために生きている一方で、いつのまにか互いに裁いたり見下したりしていることがありました。

 私たちはどうでしょうか。

 毎週の礼拝において、まさに神様の前に立っていることを覚えたいと思います。そして、その神様の前で、「私たちは主のものです」と告白することのできる恵みを覚えて感謝したいと思います。そして、その同じ礼拝に集められた一人一人が、赦されて、主のものとされた互いであることを覚えながら、裁いたり見下したりするのではなくて、相手を優れた者として尊敬し合うことができることを、心から願います。

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