礼拝説教から 2021年7月18日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙14章1-4節
  • 説教題:主が立たせてくださる

 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(1-4)

 

0.

 ローマ人への手紙は、12章から、イエス様を信じて救われたクリスチャンの新しい生活について語られています。12-13章で語られていたのは、その新しい生活の基本とも言えるような内容でした。それは、イエス様の愛を受けた者として、自分自身を神様に献げる礼拝からスタートするものであり、イエス様を頭とする教会の交わりの中で育まれるものであり、偽りのない愛に生きることだと言えるでしょうか。

 今日の本文を含めて、14章では、教会の中の具体的な問題が取り上げられています。それは、「食べる、食べない」という問題です。

1.

 パウロは、信仰の弱い人を受け入れなさいと勧めています。信仰の弱い人を受け入れるというのは、大切なことでしょう。

 同じようにイエス様を信じて救われたクリスチャンと言っても、そこにはいろいろな人がいて当然です。信仰のフラフラしている人がいるでしょうか。反対に、堅い信仰を持って、奉仕や伝道に生きる人がいるでしょうか。そして、そうであるならば、信仰のしっかりしている人が、信仰の弱い人を受け入れるというのは、大切なことになってくるでしょう。簡単に、その意見を裁くのではなくて、信仰の成長のために支えていくことは、とても大切なことです。しかし、次の2-3節を見ると、「信仰の弱い人」という言葉には、ちょっと注意しなければならないことが分かります。

 パウロは、何を食べてもよいと信じている人がいる一方で、野菜しか食べない人がいて、その野菜しかたべない人のことを、「信仰の弱い人」と呼んでいるようです。パウロが「信仰の弱い人」と呼んでいるのは、野菜しか食べない人のことになりそうです。そして、パウロが、何でも食べる人について、何を食べてもよいと信じていると言っていることからすると、野菜しか食べない人も、野菜しか食べてはいけないと信じているのであり、野菜しか食べてはいけないと信じているからこそ、野菜しか食べないのだということになるでしょう。つまり、信仰によって、野菜しか食べないのだということです。そして、そうであるならば、それは、信仰が弱い、信仰がフラフラしているとは決して言えないでしょう。むしろ、その反対に、とても堅い信仰に基づいて、野菜しか食べないのだと言ってもいいのではないでしょうか。

 今から20年前ぐらいになるでしょうか。私が韓国で大学の寄宿舎に入っていた時、二人のインド人とルームメイトになったことがあります。一人はヒンドゥー教徒、一人はイスラム教徒でした。そして、そのイスラム教徒のルームメイトだったでしょうか。彼は、豚肉を食べていなかったように思います。それは、当然のことながら、宗教的な理由です。自分の信仰に基づいて、豚肉を食べていなかったということです。

 ちなみに、インターネットで確認をしてみると、ヒンドゥー教にも様々な食事の制限があるようですが、私の曖昧な記憶では、ヒンドゥー教徒のルームメイトは、何でも食べていたように思います。彼は信仰がいい加減だったということでしょうか。あるいは、単なる私の記憶違いでしょうか。

 正確なことは分かりませんが、いずれにしろ、今日の本文の中で、野菜しか食べない人というのは、信仰がフラフラしているということではありません。野菜しか食べないのは、確かな信仰に基づいているということです。もちろん、何でも食べる人も同じです。確かな信仰に基づいて、何でも自由に食べているということです。つまり、いずれにしろ、確かな信仰に基づいて、ある人は「食べる」のであり、ある人は「食べない」のだということです。そして、問題は、その食べる人と食べない人の間で、対立が起こっていたということです。パウロの言葉によれば、食べる人が食べない人を見下していたということであり、食べない人も食べる人を裁いていたということです。

 どういうことでしょうか。

 パウロの書いた別の手紙、コリント人への手紙を見ると、コリントの教会では、外国の神々である偶像に供えられた肉が、町の市場で売り出されていて、その肉を「食べるか食べないか」ということが、大きな問題になっていたようです。

 ユダヤ人でクリスチャンになった人々が中心になるでしょうか。彼らは、偶像に供えられた肉は汚れていて、決して食べるべきではないと考えていました。しかし、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々は、違ったようです。彼らは、「偶像なんて、実際には、ただの木や石に過ぎない、その偶像に供えられたからと言って、汚れるわけでも何でもない、食べても問題ない」と考えたわけです。彼らは真の神様の前で、自由な信仰生活を送っていたと言ってもいいのかも知れません。

 ローマの教会とコリントの教会が同じ状況にあったかどうかは、正確には分かりません。しかし、完全に同じではないとしても、状況はよく似ていたと言ってもいいのだと思います。

 食べる人が食べない人のことを見下したというのは、「奴らはイエス様によってもたらされた自由がぜんぜん分かっていない」ということになるでしょうか。反対に、食べない人が食べる人のことを裁いたというのは、「奴らは信仰が堕落している」ということになるでしょうか。いずれにしろ、どちらも、自分たちの確信によって、自分たちこそが正しいと考えて、相手側を批判していたということです。

 パウロは、そんなローマの教会の人々に対して、食べる人が食べない人を見下してはいけない、食べない人も食べる人を裁いてはいけないということを言っています。

 どうしてでしょうか。それは、神様が両方の人を受け入れてくださっているからではないでしょうか。神様は、食べる人も、食べない人も、同じように受け入れてくださっているということです。

 どういうことでしょうか。それは、「食べる、食べない」が、「どちらが正しい、どちらが間違っている」という問題ではないということではないでしょうか。「食べる、食べない」は、考え方の違い、信仰のスタイルの違いであって、「どちらが正しい、どちらが間違っている」と言わなければならないほどの問題ではないということです。「食べる、食べない」は、イエス様を信じて救われた新しい生活において、根本的な問題にはならないということです。あくまでも、「違い」として受け止めることのできる問題だということです。あるいは、本当の問題は、その違いが、違いとして受け止められていないことと言ってもいいのかも知れません。

 皆さんは、間違い探しをすることがあるでしょうか。二つのよく似た絵があって、でも、よく見ると、何か所か違っている所があって、その違っている所を探すゲームです。

 間違い探しというのは、違っている所を探すゲームです。決して、間違っている所を探すゲームではありません。よく似た二つの絵は、「どちらが正しい、どちらが間違っている」ということではないわけです。いくつかの違いがあるというだけのことです。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちは、その違いを探すはずのゲームを、ずっと「間違い探し」と呼んできました。「違い探し」ではなくて、「間違い探し」です。

 どういうことでしょうか。私たちには、何か、「違い」を「間違い」と考えてしまう所があるということでしょうか。私たちは、何か、自分の考えややり方と「違っている」人を見ると、「間違っている」と考えたくなるものなのでしょうか。正確なことは分かりませんが、いずれにしろ、パウロが、今日の本文の中で触れている食べ物の例は、他でもなく、「違い」として認めるべきことを、「間違い」として批判している所に、問題があると言ってもいいのかも知れません。「違い」と「間違い」が、ごちゃまぜになってしまっているということです。そして、パウロは、そんなローマの教会の人々に、「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか」と問いかけています。

 パウロは、ローマの教会の一人一人に、「あなた」と呼びかけています。それは、「食べる人を裁く」「食べない人」だけではなくて、「食べない人を見下す」「食べる人」も含まれているでしょう。パウロは、「食べる人」にも、「食べない人」にも、「あなた」と呼びかけているということです。そして、その「あなた」は、他人の僕を裁いていると言っています。「食べる人」と「食べない人」が互いに批判をしているのは、他人の僕を裁くことだということです。

 どういうことでしょうか。

 他人の僕というのは、ローマの教会の人々のことであり、イエス様を信じて救われたクリスチャンたちです。「自分は主イエス様の僕である」ことを認めるクリスチャンたちです。「食べる人」の側から見れば、「食べない人」のことであり、「食べない人」の側から見れば、「食べる人」のことです。そして、「他人」というのは、主イエス様のことです。ローマの教会の人々は、すべてのクリスチャンは、「食べる人」であれ、「食べない人」であれ、いずれにしろ、イエス様の僕だということです。そして、それは、「あなた」の僕ではないということです。イエス様を信じて共に生きる兄弟姉妹は、イエス様の僕であって、「あなた」の僕ではないということです。そして、それは、私たちには、イエス様の僕である互いを、裁き合う権利がないということです。逆に言うと、イエス様の僕である兄弟姉妹を裁くことがあるとするならば、それは、その兄弟姉妹を自分の僕にしようとしているということを意味しているでしょう。自分が兄弟姉妹の主人になろうとしているということです。そして、裁くというのは、相手を自分の僕にすることです。

 誰かを裁くというのは、自分がその人の主人になることです。しかし、だからと言って、それは、その人をイジメてやろうということではないのだと思います。その人をこき使ってやろうということでもないのだと思います。私たちは、イジメてやろうと思って、こき使ってやろうと思って、誰かを裁くのではないということです。

 私たちはどうして誰かを裁いたりするのでしょうか。それは、その誰かが、正しく生きてほしいと願うからではないでしょうか。パウロの言葉を用いるなら、倒れるのではなく、立つということです。私たちが、クリスチャンとして、信仰の仲間として、誰かを裁くことがあるとするなら、それは、その人が倒れることではなく、立つことを願っているからだということです。私たちは、あくまでも自分の目にはということですが、相応しくない信仰の歩みを続けている仲間が、立つことを願うからこそ、裁くようなことにもなってしまうということです。

 パウロは、僕が倒れるか立つかという問題について、主人次第だという言い方をしています。僕が倒れるか立つかは主人次第だということです。そして、パウロは、その上で、強く断言しています。それは、僕が立つということです。僕は倒れない、立つということです。なぜなら、主イエス様がご自分の僕を立たせてくださるからだということです。誰よりも、主イエス様が、ご自分の僕が倒れることを望んでおられないということです。主イエス様こそが、ご自分の僕が立つことを願っておられるということです。実際に、そのご自分の僕を立たせてくださるということです。

 そうすると、私たちにとって、大切なことは何でしょうか。それは、他でもなく、主イエス様を信頼することではないでしょうか。主イエス様を無視して、自分が誰かの主人のなることではありません。自分が誰かの主人になって、必死にその人を立たせようとして、裁いてしまうことではありません。そうではなくて、私たち一人一人の主であり、私たち一人一人を立たせてくださる主イエス様を信頼することです。逆に言うと、イエス様こそが、私たち一人一人を立たせてくださる主であることを覚える時、私たちは、いたずらに、誰かを裁く罪から離れることができるということになるでしょう。

 パウロの時代においては、「食べる、食べない」ということが、大きな問題になっていました。

 現在の私たちは、どうでしょうか。どのようなことが信仰生活の上で問題となるでしょうか。そして、それは、救いの本質に関わってくる問題でしょうか。あるいは、違いとして受け止めるべき問題でしょうか。

 違いを違いとして受け止める知恵と信仰が与えられることを、心から願います。同時に、イエス様こそが、様々な違いのある私たち一人一人を命懸けで救ってくださった方であり、現在も立たせてくださっている主であることを覚えたいと思います。そして、その主イエス様を信頼して、イエス様によって受け入れられている互いを受け入れ合う者でありたいと思います。

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