礼拝説教から 2021年7月11日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙13章11-14節
  • 説教題:主イエス・キリストを着て

 さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。

 

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、「あなたがたは、今がどのような時であるか知っています」と言っています。

 「今がどのような時であるか」と言われると、どうでしょうか。もしかしたら、ドキッとさせられたりすることはないでしょうか。

 昔の戦時中には、ちょっと贅沢をしようものなら、「皆がお国のためにがんばっているのに、今がどういう時か、分かっているのですか」と、言われる人もいたでしょうか。現在であるならば、例えば、大事な試験を目の前に控えた受験生が、遊んでばかりいたら、親や先生からは、「今がどういう時か、分かってんのか」と言われたりするでしょうか。

 「今がどのような時であるか」という言葉を聞かされる時、私たちはちょっと緊張させられることになるのかも知れません。「今がどのような時であるか」というのは、今がどれだけ大切な時であるかに気づかせてくれる言葉と言ってもいいでしょうか。そして、いずれにしろ、どのような時であるのかを、知っているか、知っていないかによって、その時の過ごし方というのは、大きく変わってくることになるでしょうか。あるいは、大切なことは、今の時の大切さを知ることから始まると言ってもいいのかも知れません。

 パウロの言葉によれば、ローマの教会の人々は、今がどのような時であるかを知らないわけではなかったようです。パウロは、「あなたがたは知っている」と認めているわけです。あるいは、クリスチャンというのは、今がどのような時であるかを知っている人々と言ってもいいのかも知れません。

 それでは、パウロが言っている「今」というのは、どのような時なのでしょうか。パウロの言葉によれば、それは、第一に、眠りから覚めるべき時刻だということです。

 眠りから覚めると言っても、それは、布団の上で目を閉じて寝ているということではないでしょう。パウロが、眠りと言っているのは、緊張感を失って、人間的な欲望に身を委ねて生きる態度ということを意味しているようです。何か抵抗をするでもなく、ただ、自分の欲望に身を任せて、やりたいことをやっている生活ということです。さらには、その自分の生活について、良くも悪くも、何も自覚がないということです。あるいは、クリスチャンとして、霊的に眠っていると言ってもいいのかも知れません。そして、それは、パウロの言葉によれば、具体的には、「闇のわざ」であり、「遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活」ということになるでしょう。パウロは、ローマの教会の人々に対して、そんな眠りから覚めるべき時刻が来ていることを告げているということです。簡単に言えば、「いつまで寝てるんや、起きる時間や」ということです。

 どうでしょうか。私たちが「いつまで寝てるんや、起きる時間や」と言ったり言われたりする場合、そこには警告の意味が含まれていることになるでしょうか。「起きる時間や」という言葉に合わせて、すぐに起きなければ、大変なことになるということです。具体的には、学校や仕事に遅刻をするということです。日曜日であるならば、礼拝に遅刻するということもあるでしょうか。いずれにしろ、「起きる時間や」と言ったり言われたりする場合、そこには、多かれ少なかれ、警告の意味が含まれているのだと思います。

 しかし、パウロがローマの教会の人々に対して、眠りから覚めるべき時刻が来ていると言いながら、その理由として挙げていることは、何でしょうか。それは、救いの時が近づいているということではないでしょうか。今は、救いが近づいている時でもあるということです。そして、パウロは、何よりも、その救いの時が近づいているからこそ、眠りから覚めなさいと言っているということです。救いの時というのは、救いが完成する時であり、天に昇られたイエス様がもう一度来られる時であり、当然のことながら、その時には素晴らしい出来事が待っているということです。そして、その素晴らしい救いの完成の時が近づいているからこそ、目覚めようと励ましているということです。もちろん、そこに、警告の意味が含まれていないということはないでしょう。しかし、それ以上に、近づいている救いを待ち望むからこそ、救いの完成がいかに素晴らしい時であるかを知っているからこそ、目覚めようと呼びかけているということです。

 パウロは、次の12節で、夜が深まって、昼が近づいたと言っています。直前の所で、救いが近づいていると語っていましたが、その近づきつつある救いの時を言い換えているということになるでしょうか。今はまだ夜だけれども、夜明けの時は近づいているということです。そして、その夜明け前こそが、夜の闇が最も深まる時と言ってもいいのかも知れません。あるいは、その夜の闇が最も深まる時にこそ、闇のわざもまた、激しくなるのかも知れません。しかし、確実に、救いの時である昼は近づいているということです。そして、だからこそ、パウロは、闇のわざを捨てて、光りの武具を身に着けようと呼びかけているわけです。光の武具を身に着けて、昼らしい、品位のある生き方をしようと呼びかけているわけです。

 どうでしょうか。皆さんは、品位のある生き方をしておられるでしょうか。あるいは、どのような生き方をしていれば、品位があるということになるのでしょうか。私たちは、どのような人を見た時に、品位があると思うのでしょうか。

 ちなみに、品位という言葉を『広辞苑』で調べてみると、「人に自然にそなわっている人格的価値」と説明されていました。よく分からないので、『大辞林』という別の辞書を調べてみると、「見る人が自然に尊敬したくなるような気高さ」と説明されていました。何となく分かるような感じがするのではないでしょうか。何か、気高い雰囲気のある人を見て、私たちは品位があると感じるようです。

 それでは、パウロの言っている、「昼らしい、品位のある生き方というのは、どういうことでしょうか。クリスチャンの品位とは、どのようなものでしょうか。それは、遊興や泥酔、淫乱や好色、争いや妬みと反対の生き方ではないでしょうか。そして、それは、他でもなく、パウロが、12章からの所で語ってきたことではないでしょうか。

 パウロは、11章までの所で、神様の一方的な恵みによる救いについて語ってきました。私たちは、神様の教えを忠実に行って、立派な人間になって、心の中が清らかになって、神様から合格点をいただいて救われるのではなくて、イエス・キリストの十字架の死と復活によって明らかにされた神様の愛を受け入れる信仰によって救われるということです。神様を拒んだり、神様を無視したりする罪人の自分を、神様が愛していてくださることに気づかされて、その愛を信じ受け入れて救われるということです。

 そして、12章以降の所で、パウロは、その神様の愛を信じ受け入れて救われたクリスチャンの新しい生活について語ってきました。パウロが語っている品位のある生き方というのは、まさに、クリスチャンの新しい生活そのものだと言えるでしょう。それは、礼拝からスタートして、教会の交わりに加えられながら、偽りのない愛に生きることです。真実の愛に生きることです。具体的には、悪を憎んで、善から離れないようにすることであり、兄弟愛によって互いに受け入れ合い、互いに相手を優れた者として尊敬し合うことです。勤勉で怠らないで、霊に燃えて、主に仕えることです。望みを抱いて喜んで、苦難に耐え、ひたすら祈ることです。聖徒たちの必要を共に満たして、努めて人をもてなすことです。また、迫害する人々を祝福することであり、喜びや悲しみを共にすることであり、互いに一つ心になることであり、すべての人が良いと思うことを行うように心がけることであり、すべての人と平和を保つことです。また、上に立つ権威に従うことであり、社会のために仕えることであり、隣人を愛することです。

 昼らしい、品位のある生き方をする、それは、イエス様から偽りのない愛を受けた者として、偽りのない愛に生きることです。教会の中で、社会の中で、地道に隣人を愛していくことです。一人の住民として、社会の中で自分の責任を果たしながら、隣人を愛し、社会に仕えていくことです。そして、それは、決して特別なことではありません。特別な何かを成し遂げることではありません。しかし、決して簡単なことではないでしょう。昼らしい、品位のある生き方をするというのは、決して簡単なことではないということです。そこには、激しい戦いがあるということです。そして、だからこそということになるでしょうか。パウロは、闇の業を脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けようと言っています。

 救いが完成する日を待ち望みながら、昼らしい、品位のある生き方をするというのは、戦いです。そして、その戦いに必要な物は武具だということです。パウロは、丸腰でではなくて、武具を身に着けて戦うことを命じているということです。

 パウロは、エペソ人への手紙では、サタンとの戦いにおいて、「神のすべての武具を身に着けなさい」と言っています。そして、エペソ人への手紙の中で具体的に挙げられているのは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣、御霊による祈りです。しかし、今日の本文であるローマ人への手紙では、パウロはもっとシンプルな言い方をしています。それは、主イエス・キリストを着るということです。パウロが、身に着けなさいと言っている光の武具というのは、主イエス・キリストだということです。私たちが身に着けるべき光の武具というのは、主イエス・キリストに他ならないということです。

 それでは、主イエス・キリストを着るというのは、どういうことでしょうか。それは、イエス様と一つになるということであり、イエス様の支配を受け入れるということであり、イエス様の愛に満たされるということではないでしょうか。

 パウロは、主イエス・キリストを着なさいと命じながら、欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけないということを言っています。欲望を満たそうとしてはいけないと言っています。

 欲望というのは、人間であれば、必ず持っているものです。欲望のない人間というのは、どこにもいません。そして、だからこそ、大切なことは、その欲望を適切にコントロールすることです。欲望から自由になることです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは自分の欲望をコントロールすることができているでしょうか。むしろ、自分の欲望に支配されていることはないでしょうか。欲望の奴隷になっていることはないでしょうか。決して満たされない欲望に苦しめられていることはないでしょうか。あるいは、パウロが闇の業の例として挙げた遊興や泥酔、淫乱や好色、争いや妬みというのは、すべて自分の欲望と関係があるといってもいいのかも知れません。自分の欲望を満たそうとして、反対に、自分の欲望を満たすことができなくて、遊興や泥酔、淫乱や好色、争いや妬みの生活へと向かっていくのではないでしょうか。

 私たちは、この世界の何によっても、自分の欲望を満たすことができません。この世界の何かによって、自分の欲望を満たそうとするなら、私たちは、逆に、その自分の欲望に支配されてしまいます。

 しかし、主イエス・キリストを着る時、私たちは、自分の欲望から自由になることができます。なぜなら、イエス様は、その偽りのない愛によって、私たちを満たしてくださるからです。この世界の何によっても満たされることのできなかった私たちを、イエス様は、その偽りのない愛によって満たしてくださるのであり、だからこそ、私たちを自分の欲望から自由にしてくださるということです。

 主イエス・キリストを着る、それは、イエス様と一つになって、イエス様の御心に生きることです。しかし、だからと言って、それは、無理やりに自分の欲望を抑え込んで、自分をイエス様に従わせることではありません。そうではなくて、イエス様の愛に満たされることです。そして、イエス様の愛に満たされる中で、私たちは、自分の欲望を満たすことから解放されるのであり、喜んでイエス様の御心を求めながら、昼らしい、品位のある生き方へと導かれていくということです。

 私たちはどうでしょうか。イエス様がもう一度来られて、救いが完成する時を待ち望みながら、昼らしい、品位のある生き方をしているでしょうか。イエス様を信じて、洗礼を受けて、確かに、イエス様を着ているにもかかわらず、自分の欲望を満たすことに、心を用いていることはでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の十字架の前で、イエス様を着させていただいている者であることを覚えたいと思います。イエス様から愛されている者であることを覚えたいと思います。自分で自分の欲望を満たす必要のない者であることを覚えたいと思います。そして、イエス様がもう一度来られる時を、救いの完成の時を待ち望みながら、昼らしい、品位のある生き方をさせていただきたいと思います。

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