礼拝説教から 2021年7月4日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙13章8-10節
  • 説教題:愛は隣人に悪を行わない

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。

 

 パウロは、誰に対しても、何の借りもあってはならないと言っています。「借り」と訳されているのは、基本的には、「借金」や「負債」という意味の言葉です。あるいは、「負い目」と訳されている場合もあります。いずれにしろ、パウロは、誰に対しても、どのような借りも、あってはならないと言っているということです。

 私たちはどうでしょうか。誰かから借金をするということは、あるでしょうか。誰かに負い目を感じるということは、あるでしょうか。そして、借金をしたり、負い目を感じたりすることがあるとすれば、どうでしょうか。借金をしている人に対しては、負い目を感じる人に対しては、どうしても頭が上がらないということになりやすいのではないでしょうか。そして、それは、自由で対等な関係が損なわれているということになるのではないでしょうか。誰かから借金をしていたり、誰かに負い目を感じたりすることがあるとすれば、そこでは、自由で対等な関係が、健全な関係が損なわれやすいということです。逆に言うと、誰に対しても、何の借りもないというのは、私たちが健全な人間関係を築いていくために、自由で対等な関係を築いていくために、とても大切なことと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、パウロは、「誰に対しても」、「何の」と言っておきながら、「ただし」と言っています。「ただし」というのは、例外があるということです。そして、それは、具体的には、互いに愛し合うことだということです。誰に対しても、何の借りもあってはならないけれども、互いに愛し合うことについてだけは、愛するということについてだけは、例外だということです。

 どういうことでしょうか。互いに愛し合うことについては、借りがあってもいいということでしょうか。借りを返さなくてもいいということでしょうか。

 そのすぐ後に、「他の人を愛する者は、律法の要求を満たしている」と続けられていることからすると、パウロは、愛の借りを返さなくてもいいと言っているわけではないでしょう。むしろ、その反対に、パウロは、根本的に、互いに愛し合うことを教えているのではないでしょうか。私たちは、愛することが求められているということです。そして、その愛することについては、例外的に借りがあり得るということです。

 繰り返しになりますが、どういうことでしょうか。

 イエス様は、互いに愛し合うことを、弟子たちや現在の私たちに命じておられます。私たちは、そのイエス様の命令に従って、互いに愛し合うことを願っています。互いに愛し合うことが、イエス様を信じて救われたクリスチャンの新しい生き方です。

 しかし、どうでしょうか。互いに愛し合うと言っても、私たちは、まったく同じように、互いに愛し合うことができるでしょうか。できないのではないでしょうか。私たちは、互いに対して、まったく同じように愛し合うことができるわけではないということです。私たちがやりとりする愛は、必ずしも釣り合いが取れているわけではないということです。

 私は、互いに愛し合いなさいというイエス様の命令に従うことを願っています。そして、実際に愛そうとします。しかし、現実はどうでしょうか。相手が、こちらの思うように反応してくれないことは、しばしばあります。そして、自分の愛に応えてくれない相手のことを思うと、腹が立ちます。

 私たち夫婦には二人の子どもがいます。私は二人の子どもたちを愛しています。かわいくて仕方がありません。だからこそ、子どもたちのために、できるだけのことをしてやりたいと思っています。一緒に遊んだり、幼稚園の送り迎えに行ったりもします。

 しかし、子どもたちの反応はどうでしょうか。子どもたちは、よく「お母さんが良かった」と言います。私が子どもを幼稚園に送っていくことになると、「お母さんに送ってほしい」と言われるわけです。もちろん、そんな反応をされると、腹が立ちます。小さな子ども相手に、「何やねん」と思ってしまいます。「『十分な愛のお返しがほしい』とまでは言わないけれども、少なくとも、ちゃんと愛を受け取って、感謝してくれてもいいんじゃないか」と思ったりするわけです。

 私たちが互いに愛し合おうとする時、まったく同じようにということはあり得ません。愛のやりとりは、必ずしも釣り合いが取れているわけではありません。むしろ、こちらは一生懸命に愛しているのに、相手はまったく気にも留めていないというようなことが、当たり前のように起こっているのではないでしょうか。感謝されるどころか、迷惑がられたりすることが、どれほどあるでしょうか。

 お金であるならば、「いつ、いくら貸した」ということを、はっきりさせておくことが必要でしょう。そして、返してくれない相手に対して、返してほしいと言うことも可能でしょう。反対に、借りた場合は、必ず返さなければならないでしょう。

 しかし、互いに愛し合うことにおいては、愛のやりとりにおいては、どうでしょうか。それは、できないのではないでしょうか。「何年何月何日、あなたに、これこれのことをしてあげました、でも、あなたは無視しましたね。早くその借りを返してください」というようなことは、言えないということです。そもそも、私たちが行った愛について、「これはいくら、これは何点」という感じで、その価値を判断することもできないわけです。

 繰り返しになりますが、愛のやりとりというのは、決して釣り合いの取れるものではありません。そして、イエス様の十字架の前に立つ時、私たちは、自分こそが、イエス様に対して、決して返し切ることのできない愛の借りを負っている者であることに気づかされます。

 イエス様は、罪人の私たちが赦されて新しく生きるために、十字架にかかってくださいました。罪と滅びの中にあった私たちを愛するが故に、ご自分の命を犠牲にしてくださいました。私たちは、イエス様の愛に気づかされる時、そのイエス様の愛に対して、どのようなことをしても、決して報いることができないことを教えられます。私たちは、イエス様から決して返し切ることのできない愛の借りを負っているということです。私たちは、イエス様に対して、決して返し切ることのできない借金を負っているのであり、私たちがどれだけ愛するとしても、それは、借金のごく一部、例えば、利息だけを返しているに過ぎないということです。そして、そうであるならば、私たちは、どれだけ愛しているとしても、その愛を誇ることができないということです。それどころか、私たちには、自分の愛に気づいてくれない相手に対して、腹を立てる権利すらないということです。あるいは、もし、自分の愛を誇っているとすれば、自分は十分に愛していると思っているとすれば、自分の愛を無視する相手に腹を立てているとすれば、それは、自分こそが決して返し切ることのできない借金を負っている者であることを忘れているということなのかも知れません。

 そうすると、大切なことは何でしょうか。それは、必死に愛の働きを行って、愛の借金を最後まで返し切ることではないでしょう。愛の借金を返し切って、自分を誇ることではないでしょう。そうではなくて、それは、いつも自分が決して返し切ることのできない借金を負っている者であることを覚えることではないでしょうか。そして、その上で、互いに愛し合いなさいというイエス様の命令に従っていくことではないでしょうか。

 それでは、愛するというのは、どういうことでしょうか。

 パウロは、10節で、愛について、隣人に対して悪を行わないと説明しています。愛というのは、隣人に悪を行わないということです。

 どうでしょうか。私たちは、もしかしたら、愛すると言えば、とても積極的な行動をイメージしているかも知れません。

 例えば、イエス様は、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と、弟子たちに教えられました。最大の愛は、友のために自分の命を捨てることだということです。そして、友のために自分の命を捨てるというような、イエス様の言葉を聞くと、それは、とても積極的な感じがするのではないでしょうか。自分を粉にして、自分を犠牲にして、誰かのために働くイメージです。

 しかし、パウロが、愛について語っていることは、何でしょうか。それは、隣人に悪を行わないということです。愛は隣人に悪を行わないということです。

 愛は隣人に悪を行わないという説明を聞くと、どうでしょうか。もしかしたら、ちょっと拍子抜けをしてしまうかも知れません。ちょっと消極的に過ぎるのではないかということを思うかも知れません。あるいは、「隣人に悪を行わないなんて、そんなんやったら、誰でもできる」と思ったりするでしょうか。

 しかし、どうでしょうか。私たちの愛は、隣人に悪を行っていないと言えるでしょうか。決して、「ない」とは言い切れないのではないでしょうか。なぜなら、私たちの愛には、どこか、独りよがりで、自分勝手な所があるからです。私たちは、誰かを愛するということにおいても、自分が中心になりがちだということです。そして、だからこそ、私たちは、愛しているつもりでいて、実は傷つけてしまっていることが、あったりするわけです。

 先ほど、私は子どもたちを愛していると言いましたが、だからと言って、絶対に子どもたちを傷つけていないというわけではありません。いわゆる「躾」のつもりで言っていることが、いつのまにか、ただ、腹立たしい自分の感情をぶつけているだけになっていることも、しばしばあるわけです。子どもを、自分の思い通りにさせようとしているだけのことが、しばしばあるわけです。

 繰り返しになりますが、私たちの愛は、どこか、独りよがりで、自分勝手な所があります。誰かを愛するのも、自分が中心になりがちです。だからこそ、愛しているつもりでいて、傷つけていることがあるわけです。そして、それは、愛しているつもりで、悪を行っているということになるでしょう。あるいは、悪を行っていることになるなら、それは、そもそも愛とは言えないということになるわけです。

 愛は隣人に悪を行わない、それは、隣人を大切にするということです。そして、愛するというのは、自分中心の関係作りを止めることです。自分中心の関係ではなくて、相手中心の関係を築くことです。相手を相手として、隣人を隣人として大切にするということです。そして、それは、誰よりも、イエス様が私たちにしてくださったことです。

 イエス様は、罪人の私たちを愛してくださいました。私たちが、イエス様に関心を持ったからではありません。私たちが良い人だったからではありません。イエス様は、ご自分を無視したり、ご自分に敵対したりしていた罪人の私たちを愛してくださったということです。罪人の私たちをそのままに受け入れてくださったということです。私たちを、大切にしてくださっているからこそ、私たちをそのままに受け入れてくださっているからこそ、私たちのためにご自分の命を犠牲にしてくださったということです。そして、その愛を受け取ってほしいと願っていてくださるということです。

 隣人に悪を行わない、それは、決して消極的なことではありません。そうではなくて、とても積極的なことです。自分中心であることを止めなくてはできないことです。自分を捨てなくてはできないことです。そして、それは、イエス様との関係において、初めて可能になります。イエス様との関係の中で、イエス様の十字架の前で、自分もまた、決して返し切ることのできない愛の借金を負っている者であることを覚え続けていく中で、実現していくことです。

 十字架にかかってくださったイエス様から目を離すなら、私たちは、自分こそが、決して返し切ることのできない愛の借金を負っている者であることを忘れてしまいます。そして、自分の愛に応えてくれない誰かに対して、不平や不満を感じます。「こんなに親切にしてあげてるのに、何なん」ということです。そして、それは、愛することにおいても、自分が中心になっているということです。あるいは、偽りの愛に生きていると言ってもいいのかも知れません。

 しかし、イエス様の十字架を見上げる時、私たちは、自分もまた、決して返し切ることのできない愛の借金を負っている者であることに気づかされます。そして、自分が決して返し切ることのできない愛の借金を負っていることを覚えているなら、自分の愛を分からせることにこだわる必要がなくなります。ただ、愛することに集中することができます。相手を相手として、そのままに愛することへと導かれていきます。相手中心の愛に生きることへと導かれていきます。そして、それが、悪を行う偽りの愛ではなくて、悪を行わない真実の愛に生きることです。

 私たちはどうでしょうか。

 イエス様の十字架の前で、自分こそが、決して返し切ることのできない愛の借金を負っている者であることを覚えたいと思います。そして、その上で、互いに愛し合いなさいというイエス様の命令に従って生きる者でありたいと思います。

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