礼拝説教から 2021年6月27日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙13章1-7節
  • 説教題:上に立つ権威に従う

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。

 

 パウロは、すべての人が上に立つ権威に従うべきだということを言っています。上に立つ権威というのは、今日の本文全体を見るなら、国家権力ということになるでしょうか。パウロの手紙が書かれている時代であれば、それは、ローマ帝国であり、そのローマ帝国の皇帝や、皇帝の権威の下で各地を治める役人たちです。現在の私たちであれば、日本政府や地方自治体であり、政治家や公務員ということになるでしょうか。いずれにしろ、パウロは、すべての人が、上に立てられている権威に従わなければならないと言っているということです。

 どうしてでしょうか。なぜなら、パウロによれば、すべての権威は、神様によって立てられているからだということです。すべての権威は、神様によって立てられているのであり、だからこそ、私たちは神様によって立てられた権威に従わなければならないということです。

 そして、パウロが「人はみな」と言う時、そこには、クリスチャンたちも含まれてくるということになるでしょう。イエス様を信じていない人だけではなくて、イエス様を信じている人もまた、すべての人が上に立つ権威に従わなければならないということです。むしろ、パウロが上に立つ権威に従いなさいと言っているのは、イエス様を信じるクリスチャンたちに対してだと言った方がいいでしょう。パウロは、ローマの教会のクリスチャンたちに対して、イエス様を信じるすべてのクリスチャンたちに対して、上に立つ権威に従うべきことを教えているということです。

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、わざわざ、上に立つ権威に従うべきことを教えています。パウロが、わざわざ、上に立つ権威に従うべきことを教えているというのは、どういうことでしょうか。それは、ローマの教会には、反対に、上に立つ権威に従おうとしない人々がいたということではないでしょうか。「従うべきはイエス様だけであって、ローマ皇帝ではない」と言って、上に立つ権威を否定しようとする人々がいたということではないでしょうか。パウロは、上に立つ権威に従おうとしない人々がいたからこそ、上に立つ権威に従うことを教えているということではないでしょうか。

 信仰生活をするというのは、どういうことでしょうか。それは、イエス様こそが自分の主であることを信じ告白して生きることです。ローマ皇帝でもなく、お金でも名誉でもなく、自分自身でもなく、イエス様こそが自分の主であることを信じ告白して生きることです。王であるイエス様の支配を受け入れて、イエス様に従って生きることです。そして、それは、神様の国の民として生きるということです。

 しかし、だからと言って、それは、私たちがこの世界から出て行くということではありません。私たちの生きている社会から出て行って、自分たちだけの国や社会を造ることではありません。この世界の国々や、私たちの生きている社会を否定することではありません。そうではなくて、この世界を認めて、自分たちの生きている社会を認めて、その中で、イエス様に従って生きるということです。そして、だからこそ、私たちは、イエス様に従うと同時に、この世界の中で、上に立てられた権威に従う必要もあるということです。あるいは、イエス様に従うからこそ、この世界の中で、上に立てられている権威に従うと言ってもいいのかも知れません。私たちは、イエス様に従うからこそ、自分の生きている国や社会を認めて、そのルールに従うのだということです。

 どうでしょうか。皆さんは、上に立つ権威に従っておられるでしょうか。選挙ではもっともらしいことを言っておきながら、実際に当選をして、国民のことを、自分たちのことを考えてくれていないような政治家たちを見ていると、「やってられるか」と思ったりすることがあるでしょうか。それでも、日本で生きていく以上、「まあ、仕方ない」と思いながら、現実を受け入れているでしょうか。いずれにしろ、そこには、様々な思いがあるのではないかということを思います。

 私たちが人として生きていく、それは、国という存在を抜きにしては、考えることができません。現在の私たちであるならば、それは、日本という国です。私たちは、日本の国民として、あるいは、外国人として、日本という国の中で、それぞれの地域で、生活をしているということです。そして、日本で生活をするなら、その日本の国や自治体、あるいは、定められたルールを無視することはあり得ません。日本で生活をするなら、日本国民であれ、外国人であれ、日本という国や地方の自治体を認めて、定められているルールに従わなければならないわけです。それは当たり前のことです。ルールを無視して生きるなら、秩序がなくなってしまうわけです。社会が目茶苦茶になってしまいます。逆に言うと、国や地方の自治体というのは、上に立つ権威というのは、私たちが安心して生活をするために、大切な役割を果たしているということになるのかも知れません。そして、そうであるならば、私たちは、より積極的に、上に立つ権威に従うべきだということにもなるでしょう。パウロも言っていますが、税金もきちっと納めていくということです。

 しかし、どうでしょうか。政治を動かす人々も、人である以上は、やはり間違うことがあるのではないでしょうか。いつも適切な政治が行われているということではないわけです。そして、「これはどうなのだろう」というふうに政治が動いていく時、私たちクリスチャンは悩まされることになるのではないでしょうか。なぜなら、今日の本文によれば、すべての権威は、神様によって立てられているからだということです。政治家が、支配者が、どのような間違ったことをしようと、その人々も神様によって立てられているのであるならば、従うべきではないのかという所で、私たちは迷わされるということです。

 よく知られた所では、ドイツのヒトラーということになるでしょうか。ドイツというのは、キリスト教が基盤となっている国です。キリスト教を国教としている国です。そして、そのドイツで、ナチスという政権が誕生しました。中心はヒトラーです。ナチスとヒトラーは、自分たちに反対する人々を激しく弾圧をして、自分たちのやりたいことをしました。そして、そんなナチスとヒトラーに反対することは、まさに命懸けのことでした。それは、教会も例外ではありませんでした。

 一方で、ナチスとヒトラーに反対する教会と牧師がありました。その一方で、ナチスとヒトラーを認める教会と牧師もあったわけです。そして、ナチスやヒトラーを認める根拠となったのは、今日の本文ということになるでしょうか。ナチスやヒトラーもまた、神様によって立てられているのであるならば、従わなければならないのではないかということです。ナチスやヒトラーを認めないことは、神様に従わないことになるのではないかということです。

 パウロは、神様によらない権威はないと言っています。存在しているすべての権威は、神様によって立てられていると言っています。

 どういうことなのでしょうか。私たちはとにかく盲目的に従わなければならないということでしょうか。どのような政権であれ、どのような支配者であれ、どのようなルールや決定であれ、とにかく従うことが、神様に従うということなのでしょうか。決して、そういうことではないのだと思います。

 すべての権威が神様によって立てられている、それは、私たちが、どのような政権であれ、どのような支配者であれ、どのようなルールや決定であれ、とにかく従わなければならないということを意味しているのではないでしょう。そうではなくて、それは、何よりも、神様こそが、この世界のどのような権威よりも上におられるということではないでしょうか。そして、私たちはその神様を見上げなければならないということではないでしょうか。この世界のどのような権威を持った支配者をも、ご自分の御手の中に置いて支配しておられる神様を、信頼するということではないでしょうか。

 飛んで、4節を見てみると、パウロは、支配者のことを、上に立つ権威を、「神のしもべ」と呼んでいることが分かります。パウロは、どのような支配者も、どのような権威を持っている者も、神様の僕だと言っているわけです。神様に仕えているのだということです。逆に言うと、神様は、特定の人々を、ご自分の僕として用いておられるということです。

 もちろん、パウロの時代であれば、ローマ皇帝や役人たちに、自分が、神様の僕として、神様に仕えているという認識はなかったでしょう。現在の日本の政治家の方々や公務員の方々も、神様の僕として、神様に仕えているとは思っていないでしょう。しかし、その大きな権威を持つ一人一人を、神様はご支配しておられるのであり用いておられるということです。そして、大切なことは、その神様を信頼して、神様によって立てられた権威に従うということではないでしょうか。

 ちなみに、パウロは、神様の僕について、「あなたに益を与えるための」という説明をしています。「あなた」というのは、基本的には、ローマの教会の一人一人に向けられた言葉ということになるでしょうか。そこから、クリスチャンたちだけではなくて、すべての人々へと拡大して理解することも許されるでしょうか。いずれにしろ、パウロは、神様の僕である支配者たちが、人々に益を与えると言っているわけです。逆に言うと、神様が、特定の人々に大きな権威を与えて、ご自分の僕として用いておられるのは、人々に益を与えるためだということです。ローマ皇帝にしろ、現在の日本の政治家たちにしろ、神様から大きな権威が与えられているのは、人々に益を与えるためだということです。特定の人々が、神様から大きな権威が与えられた目的は、自分の益を求めることではなくて、人々に益を与えるためだということです。人々に仕えるためだということです。そして、そうであるならば、人々に益を与えるために、神様によって立てられた支配者が、政権が、人々の益にならないことをするならば、そこには、従わないという選択もあり得ることになるのではないでしょうか。むしろ、積極的に批判をすることもあり得ることになるのではないでしょうか。人々が益を受け取るために必要な意見や提案をすることもあるということではないでしょうか。いずれにしろ、私たちが上に立つ権威に従うのは、人々が益を受け取るためだということです。そして、上に立つ権威が、人々の益にならないことをするならば、批判をしたり、意見や提案をしたりする必要があるのではないかということです。あるいは、私たちが上に立つ権威に従うというのは、まさに人々の益のために仕えることであり、隣人を愛することだと言ってもいいのかも知れません。

 国や社会を動かす政治家たちは、いつも正しいことをしているとは限らないかも知れません。間違った選択をすることがあるかも知れません。あるいは、人々ではなくて、社会ではなくて、自分の益のために、大きな権力を握って、手放そうとしない政治家たちもいるかも知れません。そして、そんな政治家たちを見て、私たちは失望することが多いかも知れません。

 しかし、今日の本文から教えられることは、何でしょうか。それは、神様がそんな政治家たちをも、政府や自治体をも、支配しておられるのであり、用いておられるということではないでしょうか。そして、大切なことは、その神様を信頼することです。神様を信頼するからこそ、神様によって立てられた権威を認め、その権威に従っていくことです。もちろん、その神様によって立てられた権威が、人々の益にならないことを求めていくならば、私たちは従わなかったり、批判したりする必要があるでしょう。あるいは、自由に意見や批判をすることのできる権利が守られるために、祈っていく必要があると言ってもいいのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。上に立つ権威に従っているでしょうか。私たちの上に立つ権威は、人々の益になることを求めているでしょうか。

 いつもイエス様を自分の主として信じ告白しながら歩みたいと思います。そして、イエス様を信じるからこそ、置かれている場所において、一人の国民としての、一人の住民としての役割を果たしていきたいと思います。そして、その小さな歩みが、人々の益につながることを、心から願います。

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