- 聖書個所:ローマ人への手紙12章9-21節
- 説教題:一つ心になる
喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(15-16)
パウロは、喜んでいる人と共に喜びなさい、泣いている人と共に泣きなさいと言っています。
先週は、自分を迫害する人を祝福することについて分かち合いました。自分を迫害する人、自分を苦しめる人を祝福するというのは、とても難しいことです。人間には出来ないことと言ってもいいぐらいかも知れません。
それに比べて、今日の勧めはどうでしょうか。喜んでいる人と共に喜ぶ、泣いている人と共に泣くというのは、それほど難しく感じないかも知れません。「何や、一気にハードルが下がったなぁ」と思うかも知れません。
しかし、どうでしょうか。私たちは喜んでいる人と共に喜ぶことができるでしょうか。泣いている人と共に泣くことができるでしょうか。実は非常に難しいことなのではないでしょうか。
私は、喜んでいる人を見ながら、素直に喜べないことが、よくあります。
私は、二人の兄の影響で、小学校に上がった頃から野球が好きでした。同じ学年の仲間たちと一緒に野球をして遊びながら、自分ではそれなりに上手だと思っていました。そして、4年生の秋になって、少年野球のチームに入ると、監督からも、それなりに認められていたと思います。
しかし、時が経つにつれて、他の仲間たちはどんどん上手になっていきました。反対に、自分はいつもモタモタとしていて、怒られてばかりでした。そして、試合で活躍してほめられて喜ぶ仲間たちを見ながら、私は心から喜ぶことができませんでした。何かすっきりとしないわけです。喜ぶどころか、悔しかったり、妬んだりするわけです。そして、同じようなことを、これまで何度も経験してきました。
また、泣いている人と共に泣くというのも、やっぱり、なかなかできていないなぁということを思います。
もちろん、泣いている人のために悲しむことがあります。共に泣くということもあります。しかし、そうであるにもかかわらず、やはり、泣いている人自身の痛みや悲しみというのは、完全には分からないわけです。そして、分からないなりに、慰めの声をかけたり、静かに寄り添っているつもりでいても、何だか、自分が上から目線で見てしまっているように感じたりもします。同時に、自分が泣くような状況にはなっていないことで、一安心をしていたりもします。また、自分の嫌いな人や苦手な人が泣いている場合には、感心すらなかったりします。
皆さんは、どうでしょうか。
喜んでいる人と共に喜ぶ、泣いている人と共に泣く、それは、決して簡単なことではないでしょう。自分を迫害する人を祝福することと同じように、実に難しいことです。私たちは、人生の様々な場面で、喜んでいる人を見て、一緒に喜べないことが、泣いている人を見て、一緒に泣けないことが、いくらでもあるわけです。それは、現在の私たちも、ローマの教会の人々も同じです。しかし、パウロは、そんなローマの教会の人々に、現在の私たちに、喜んでいる人と共に喜びなさい、泣いている人と共に泣きなさいと勧めているということです。
どういうことでしょうか。それは、逆に言うと、喜んでいる人と共に喜ぶ、泣いている人と共に泣くことが、教会の姿だということではないでしょうか。教会というのは、喜んでいる人と共に喜ぶ所であり、泣いている人と共に泣く所だということではないでしょうか。共に喜び、共に泣くことのできる所、それが教会ということではないでしょうか。
それでは、共に喜び、共に泣くというのは、どういうことでしょうか。それは、パウロの言葉を用いるなら、一つ心になるということではないでしょうか。
パウロは、互いに一つ心になりなさいと勧めています。
一つ心になるというのは、心が一つになる、心を一つにするということになるでしょうか。心が一つになる、心を一つにするというのは、とても美しいことのように感じられたりもしますが、どういうことでしょうか。
いつも意見が同じでなければならないということでしょうか。教会が何かのビジョンを掲げて進み始めたなら、たとえ思っていることが違うとしても、自分の意見を変えなければならない、したいことを我慢しなければならないということでしょうか。そして、一致団結をするということでしょうか。
パウロは、「互いに一つ心になり」という言葉に続けて、「思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい」と言っています。一つ心になるというのは、具体的には、身分の低い人々と交わることによって実現するということになるでしょうか。そして、そのために必要なことは、思い上がらないということになるでしょうか。思い上がっていては、身分の低い人々と交わるようなことはできないわけです。
身分の低い人々というのは、具体的には奴隷ということになるでしょうか。ローマ帝国は奴隷が認められている社会でした。そして、ローマの教会には、その奴隷という身分の人々がいたようです。教会には、奴隷ではない身分の人々と、奴隷という身分の人々が、一緒に集まっていたということです。あるいは、同じ家の主人と奴隷が、同じ教会にいるということもあったかも知れません。また、奴隷ではないとしても、他にも身分の低い人々がいたことでしょう。いずれにしろ、ローマの教会には、身分の異なる人々が一緒に集まっていたということです。一緒に主イエス・キリストを賛美していたということです。
しかし、その一方で、パウロが、「思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい」と言っていることからすると、どうでしょうか。そこには、身分の異なる人同士の間で、交わりが成り立っていなかったということになるのかも知れません。奴隷のような身分でない人々は、奴隷をはじめとした、身分の低い人々を見下していたということになるでしょうか。逆に、とても身分の高い人々に対しては、下手に出るというようなこともあったでしょうか。そして、それは、いずれにしろ、ローマの教会の人々が、一つ心になっていなかったということを意味しているのではないでしょうか。同じクリスチャンでありながら、同じ礼拝に集いながら、互いを同じ家族として受け入れることは難しかったということです。
一つ心になる、それは、とにかく同じことを考えるということではないでしょう。立てられた何らかの目標に向かって、「エイエイオー!」と叫びながら、自分の意見を無理やりに抑えるということではないでしょう。そうではなくて、それは、共に生きるということに他ならないのではないでしょうか。そして、それは、異なる人々が互いを受け入れ合うということです。身分の違いを越えて、国や民族の違いを越えて、考え方の違いを越えて、趣味の違いを越えて、様々な違いを越えて、異なる人々が、同じ家族として、同じ仲間として、互いを受け入れ合うということです。いろいろな所から来た一人一人が、いろいろな立場の一人一人が、そのままに受け入れられるということです。そして、それが、教会の姿だと言えるでしょう。
そもそも、同じ教会の中に、主人と奴隷が一緒にいたというのは、すごいことなのではないでしょうか。常識的には決してあり得ないことです。もちろん、主人と奴隷は、同じ屋根の下で、一緒に生活をしていたことでしょう。ただし、それは、奴隷が主人に一方的に仕えていたということです。主人と奴隷は家族ではないわけです。対等な関係ではないわけです。しかし、教会においては、主人と奴隷が、同じ兄弟姉妹として、互いに愛し合う家族として、一緒にいるのだということです。
どうしてでしょうか。それは、教会の頭であるイエス様が、主人も奴隷も、同じ家族として、兄弟姉妹として、招いてくださったからではないでしょうか。イエス様が、私たち一人一人を愛してくださり、同じ家族として招いてくださっているからこそ、主人と奴隷のような関係の人々が、社会の中では一緒にいることのできない人々が、教会では一緒にいることができるということです。互いに愛し合う家族として、共に生きることができるということです。あるいは、そのような関係の中においてこそ、喜んでいる人と共に喜ぶ、泣いている人と共に泣くということも、可能になってくると言えるのかも知れません。
パウロは、思い上がることがないようにと言っています。さらには、自分を知恵のある者と考えてはいけないとも言っています。ローマの教会の人々には、思い上がりがあったようです。そして、その思い上がりによって、教会は一つ心になっていなかったということです。互いを同じ家族として愛し合う関係が築かれていなかったということです。
教会は、イエス様の下において、いろいろな人々が、互いを受け入れ合いながら、共に生きる所です。しかし、そこに思い上がりが紛れ込む時、教会は共に生きることができなくなります。共に喜び、共に泣くことができなくなります。
ローマの教会には、身分の違いの中で、思い上がりが紛れ込んでいたようです。また、知恵のあるなしということも、思い上がりが紛れ込む所となっていたでしょうか。
私たちはどうでしょうか。
私たちが生きる現在の日本では、奴隷制度というものが認められていません。日本社会には奴隷がいません。身分の違いもありません。
しかし、どうでしょうか。身分の違いはないと言っても、そこには、様々な差別が存在します。男女の差別があるでしょうか。外国人に対する差別もあるでしょうか。
また、最近では、様々な格差が問題となっています。経済的な格差が広がっていると言われています。経済的な格差が、教育の格差を生み出しているとも言えるでしょうか。そして、そのような差別や格差が、社会を分断させていると言ってもいいのかも知れません。インターネットを見ると、ものすごい罵り合いの言葉が延々と続いていたりします。互いが互いを見下して、自分たちこそが知恵のある者と思って、罵り合っているわけです。
そして、いずれにしろ、私たちの教会は、そのような社会の中に置かれているのであり、その影響を受けていると言わなければならないでしょう。あるいは、逆に言うと、教会は、社会の中にありながら、社会とは異なる姿を示していく使命が与えられているということになるのではないでしょうか。そして、それは、一つ心になるということです。様々な違いのある互いをそのままに受け入れて、互いに愛し合っていくということです。社会の中においては、共に喜ぶことのできない関係の人々が、共に泣くことのできない関係の人々が、互いに受け入れ合って共に生きるということです。そして、それは、イエス・キリストの下においてこそ可能になります。
差別や格差をなくしていくことは、大切なことです。私たちは、この社会に生きる一人として、社会の問題が解決されていくために、共に知恵を絞って努力していかなければならないと言えるでしょう。
しかし、同時に覚えておかなければいけないのは、たとえ差別や格差がなくなったとしても、人間は本質的には変わらないということであるのかも知れません。問題が解決されたとしても、人間の本質は変わらないということです。私たちは、あくまでも、罪人として、すぐに思い上がりやすい者だということです。神様が与えてくださった麗しい関係を、思い上がりによって、破壊してしまうような者だということです。
大切なことは何でしょうか。それは、イエス様の十字架の前で、謙遜な者にされることではないでしょうか。イエス様の十字架の前で、自分の罪を知り、同時に、その罪人の自分を赦してくださった神様の愛によって生かされていることを、いつも覚えることです。そして、赦された罪人として、愛されている罪人として、同じように神様から赦されて愛されている一人一人をそのままに受け入れていくことです。
自分のために十字架にかかってくださったイエス様から目を離す時、私たちはすぐに思い上がってしまいます。それは、必ずしも、社会的に認められているとか、何かができるというようなこととは関係ありません。神様なしに生きるということです。そして、自分と他人を比較して、優越感を持ったり、劣等感を持ったりして、それが、人と人との関係を破壊することになります。
しかし、イエス様の十字架の前に導かれる時、私たちは謙遜な者とされます。神様との関係の中で、自分の罪を知り、同時に、罪人でありながら、愛されている自分をそのままに受け入れることができます。そして、同じ罪人でありながら、そのままに愛されている互いを受け入れることができるようになります。
私たちはどうでしょうか。
私たちの中心に、いつもイエス様がいてくださることを、心から願います。イエス様からいつもスタートすることができることを願います。イエス様との関係の中で、一つ心になることができることを願います。様々な違いを越えて、互いに受け入れ合うことができることを願います。そして、そんな教会の小さな歩みが、社会を変えていく力にもなることを、心から願います。