礼拝説教から 2021年6月13日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙12章9-21節
  • 説教題:神様の怒りに委ねて愛する

 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(14)

 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。↲ 「復讐はわたしのもの。↲ わたしが報復する。↲ 主はそう言われます。次のようにも書かれています。↲ 「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、↲ 渇いているなら飲ませよ。↲ なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に↲ 燃える炭火を積むことになるからだ。」(19-20)

 

 パウロは、迫害する者たちを祝福しなさいと言っています。祝福するというのは、相手のために神様の祝福を求めて祈るということです。そして、それは、愛することに他ならないと言ってもいいでしょう。

 迫害する者たちというのは、基本的には教会の外の人々になるでしょうか。もちろん、教会の中においても、互いに傷つけ合ったり、苦しめ合ったりすることは起こってきます。それを、迫害と言えば、言えなくもありません。しかし、パウロの手紙を受け取るローマの教会が、圧倒的多数のノンクリスチャンたちに囲まれていたことを考えると、実際に迫害を受けたりもしていたことを考えると、パウロが意識しているのは、やはり教会の外の人々ということになるでしょう。そして、そうであるならば、パウロは、ただ単に、教会の中において、互いに愛し合うことだけを語っているのではなくて、教会の外にいる人々についても、愛することを語っているということになりそうです。

 パウロは、祝福すべきであって、呪ってはいけないと言っています。わざわざ、呪ってはいけないという言葉を付け加えながら、祝福すべきことを繰り返しています。

 どういうことでしょうか。それは、パウロが、自分を迫害する相手を祝福することの難しさを、よく弁えていたということではないでしょうか。私たちの自然な思いにおいては、自分を迫害する相手を祝福するというのは、なかなかできないということではないでしょうか。自分を迫害する相手というのは、呪ってやりたくなるということです。しかし、パウロは、その迫害する人々について、祝福するのだと言っているということです。

 どうしてでしょうか。それは、私たちもまた、赦された者であり、大いなる祝福を受けた者だからではないでしょうか。

 そもそも、パウロというのは、どのような人だったでしょうか。パウロは、誰よりも熱心に、クリスチャンたちを迫害していた人です。熱心に神様に従っているつもりで、クリスチャンたちを迫害していた人です。しかも、イエス様からは、「なぜわたしを迫害するのか」と言われていました。イエス様の言葉によれば、パウロは、クリスチャンたちを迫害しながら、イエス様ご自身を迫害していたということです。

 しかし、その迫害する者だったパウロが、赦されたということです。迫害する者だったパウロが、大いなる祝福を受け取ったということです。そして、その赦された者として、大いなる祝福を受け取った者として、パウロは、自分たちを迫害する人々を祝福しなさいと勧めているということです。

 どうでしょうか。クリスチャンになる前の私たちは、もしかしたら、特別にクリスチャンたちを迫害するようなことをしなかったかも知れません。私も、クリスチャンになる前に、誰かをクリスチャンという理由で、苦しめたりしたことはなかったと思います。

 しかし、その私が、イエス様のことを聞いて、クリスチャンになって、信じ受け入れていることは、何でしょうか。それは、自分もまた、イエス様を十字架につけて迫害した罪人の一人だということです。自分もまた、パウロと同じように、イエス様を迫害した罪人の頭だということです。しかし、その自分がイエス様から赦されているということです。イエス様から大いなる祝福を受け取っているということです。

 繰り返しになりますが、自分を迫害する人々を祝福するというのは、決して簡単なことではありません。私たちには決してできないことと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、パウロが、迫害する者を祝福しなさいと勧めているのは、ローマの教会の人々もまた、現在の私たちもまた、迫害する者でありながら、赦された者だからではないでしょうか。迫害する者でありながら、大いなる祝福を受け取った者だからではないでしょうか。あるいは、そもそも、私たちは、迫害する者だったにもかかわらず、大いなる祝福を受け取った者であるなら、誰かを呪うことのできるような立場にはないと言ってもいいのかも知れません。私たちは、赦されて、大いなる祝福を受け取った者として、今度は、自分を迫害する人々を祝福して生きる新しい道へと招かれているということです。

 現在の日本に生きる私たちは、パウロの時代のクリスチャンたちが受けたような迫害は、ほとんど経験することがないと言えるのかも知れません。しかし、パウロたちが経験したような迫害はないとしても、教会が極めて少ない日本でクリスチャンとして生きていく時、そこには様々な難しさがあるのも事実です。イエス様を主と告白して生きようとするならば、偽りのない愛に生きようとするならば、イエス様を伝えようとするならば、そこには、やはり痛みや苦しみがあるということです。私たちは、クリスチャンとして生きる以上、クリスチャンであるという理由で、何らかの苦しみを経験することになるということです。もちろん、クリスチャンとしてということと関わりなく、様々な苦しみを経験することもあるでしょう。そして、いずれにしろ、そこで求められているのは、自分を苦しめる人々を祝福して愛するということです。

 飛んで、19-20節では、パウロは、ローマの教会の人々に「愛する者たち」と呼びかけながら、自分で復讐してはいけないと勧めています。自分で復讐してはいけないというのは、迫害する人々を呪ってはいけないという勧めと重なってきます。あるいは、より広い範囲のことについて語られているということになるでしょうか。クリスチャンという理由で迫害を受ける場合だけでなく、人と人との関係の中で起こるあらゆるトラブルにおいて、自分で復讐をしてはいけないということです。理由が何であるにしろ、誰かから傷つけられることがあるとしても、自分で復讐してはいけないということです。そして、その上で、パウロは、神様の怒りに委ねなさいと勧めています。そして、それは、神様ご自身が、聖書の中で、「復讐はわたしのもの。↩ わたしが報復する」と語っておられるからだということです。

 どうでしょうか。神様ご自身が、「復讐はわたしのもの」と語っておられて、その神様の怒りに委ねると言えば、神様が代わりに復讐してくださることを期待しているような感じがするかも知れません。「神様、どうか、あいつを痛めつけてください」とお願いしているような感じです。そして、神様が怒り狂って復讐をするということであれば、「そんな恐ろしい神様なんて、信じたくない」ということになるかも知れません。

 もちろん、パウロが言っているのは、神様に復讐をお願いしようということではありません。実際に、パウロは、そのすぐ後に、また別の聖書の言葉を紹介する形で、敵が受けているなら食べさせなさい、渇いているならの飲ませなさいと勧めているわけです。パウロは、あくまでも、自分の怒りに身を委ねて復讐をするのではなくて、祝福することを、愛することを勧めているということです。そして、そのためにと言ってもいいでしょうか。パウロは、神様の怒りに委ねることを勧めているということです。

 繰り返しになりますが、パウロは、神様の怒りに委ねなさいと勧める理由として、「復讐はわたしのもの。↩ わたしが報復する」という聖書の言葉を紹介しています。

 パウロは、復讐が神様のものだと言っています。

 どういうことでしょうか。それは、神様が復讐に燃えた恐ろしい方だということではありません。そうではなくて、それは、私たちには復讐する資格も権利ないということではないでしょうか。私たちには、最初から、復讐する資格も権利もないということです。

 そもそも、私たちが復讐をするとすれば、それはどうしてでしょうか。それは、自分には復讐する権利や資格があると思っているということではないでしょうか。自分が復讐をするのは正しいと思っているということです。「やられた相手にやり返して、何がおかしい!」ということです。

 しかし、パウロが言っているのは、どういうことでしょうか。それは、私たちの復讐する権利や資格そのものについて、問いかけているということです。罪人である私たちには、復讐する権利や資格なんて、ないのではないかということです。復讐する権利や資格があるとすれば、それは、神様だけではないのかということです。

 神様は、復讐することのできる方です。そして、怒りを持っておられます。パウロが、神様の怒りと言うからには、神様には怒りがあるということです。

 しかし、その神様の怒りというのは、何でしょうか。私たちが、誰かから傷つけられて、相手に対して怒りの思いを持っているとすれば、神様もまた、その相手に対して怒っていてくださるということでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 神様の怒りというのは、何でしょうか。それは、私たちの罪に対する怒りではないでしょうか。互いに傷つけ合い、悪に対して悪で対抗してしまう、そんな私たちの罪そのものに対してではないでしょうか。神様の愛を拒み、神様と共に生きることを拒み、自分が神のようになって、互いに傷つけ合う私たちの罪そのものに、神様は怒っておられるのではないでしょうか。そして、そうであるならば、その神様の怒りは、罪人である私たちすべてに向けられるべきものです。

 しかし、パウロが、ローマ人への手紙の中で、ずっと語ってきたことは、何でしょうか。それは、私たちの罪に対する神様の怒りが、私たちには向けられなかったということです。神様の怒りは、罪人の私たちに対してではなくて、御子イエス様に向けられたということです。イエス様が、私たちの代わりに、私たちの罪に対する神様の怒りを受けてくださったということです。そして、罪と滅びの中にあった私たちに救いの道を開いてくださったということです。神様との関係の中で新しく生きる道へと招いてくださっているということです。神様は、恐ろしい復讐を代わりに果たしてくださる方ではなくて、私たちを愛していてくださる方だということです。私たちが互いに愛し合うことを願っていてくださる方だということです。

 神様の怒りに委ねる、それは、神様に復讐をお願いすることではありません。そうではなくて、自分もまた、神様の怒りによって滅ぼされても仕方のない罪人であることを見つめ直すことです。しかし、その怒りがイエス様に向けられたことによって赦された者であることを覚えることです。赦された罪人に過ぎない自分には、復讐する権利も資格もないことに気づかされることです。そして、ただ単に、復讐をしないだけではなくて、積極的に愛することです。

 パウロは、飢え渇く敵を愛しなさいと勧める理由として、敵の頭の上に燃える炭火を積むことになると言っています。

 燃える炭火を積むというのは、訳の分からない言葉ですが、どういうことでしょうか。いろいろな解釈があるのだと思いますが、一つ言えることは、その敵が悔い改めに導かれるということです。そして、敵を悔い改めに導くのは、神様だということです。私たちは、その神様にすべてを委ねて、とにかく愛していくのだということです。

 イエス様の十字架から目を逸らすなら、私たちは自分で復讐する者になります。そして、それは、自分が神になることです。

 しかし、イエス様の十字架の前に導かれる時、自分もまた、赦された罪人に過ぎないことに気づかされます。自分には復讐する資格も権利もないことを教えられます。そして、すべてを神様に委ねて愛しなさいという神様の招きの声を聞くことができます。

 私たちはどうでしょうか。迫害を受けているでしょうか。誰かから苦しめられていることがあるでしょうか。考えただけで怒りに満たされて、とても赦すことのできないような人がいるでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、イエス様の十字架の前で、赦されて生かされている恵みを深く覚えたいと思います。そして、その恵みに応答して、私たちもまた、赦す者でありたいと思います。祝福する者でありたいと思います。愛する者でありたいと思います。そして、そこに、平和が生み出されることを心から願います。

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