礼拝説教から 2021年6月6日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙12章9-21節
  • 説教題:偽りのない愛の実

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。(9-13)

 

0.

 日本語の聖書ではよく分かりませんが、9節の後半、「悪を憎み」から、13節の最後までは、実は一つの文章になっています。そして、それは、パウロが、その一つながりの文章によって、偽りのない愛に生きることを、具体的に説明しているということです。つまり、偽りのない愛に生きるというのは、悪を憎み、善から離れないようにすることであり、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合うことであり、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えることであり、望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈ることであり、聖徒たちの必要を共に満たし、努めて人をもてなすことだということです。

1.

 兄弟愛というのは、互いを家族の一人として、同じ親から生まれた兄弟として愛するということになるでしょうか。そして、パウロが兄弟愛と言っているのは、特に教会についてです。

 教会は、本来は家族の集まりではありません。いろいろな所から、いろいろな人が集められています。しかし、父なる神様の下で、一つの家族とされた人々の集まりです。救い主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、新しく生まれたクリスチャンたちの集まりです。そして、その新しく生まれたクリスチャンたちが、一つの家族として生きていく時に必要なのが、兄弟愛ということになるでしょうか。

 私たちは、どのようにして家族になるのでしょうか。兄弟姉妹になるのでしょうか。同じ親から生まれていれば、血がつながっていれば、自動的に家族になるのでしょうか。兄弟姉妹になるのでしょうか。もちろん、同じ親から生まれていれば、血のつながりがあれば、社会的には、家族であり、兄弟姉妹であるかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、そこに、家族として、兄弟姉妹として、互いに愛し合うことがなければ、どうでしょうか。それは、もしかしたら、名ばかりの家族、名ばかりの兄弟姉妹と言ってもいいのかも知れません。そして、それは、具体的な一つ一つの家族だけではなくて、教会という家族もまた、同じだと言えるのではないでしょうか。教会もまた、同じ場所に集まっていれば、同じ礼拝に参加していれば、自動的に家族になる、兄弟姉妹になるわけではないということです。互いを同じ家族として認めて、兄弟姉妹として認めて、愛し合ってこそ、教会は教会として建て上げられていくのだということです。教会は、兄弟愛によって、一つに家族になっていくのだということです。

 それでは、兄弟愛というのは、どういうことでしょうか。その一つの意味は、他にどのような条件も必要としないということではないでしょうか。兄弟姉妹であるという、ただその一つの事実によって、互いに愛し合うということです。どこから来たのか、何ができるのか、そのようなことは何も関係がないということです。ただ、イエス様の偽りのない愛によって、兄弟姉妹とされた、その一つの事実によって、互いに愛し合うということです。そして、それは、次の「互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい」という勧めと、そのままつながっていると言えるでしょう。あるいは、兄弟愛をもって互いに愛し合うというのは、具体的には、互いに相手を優れた者として尊敬し合うことだと言ってもいいでしょうか。

 ちなみに、以前の新改訳3版では、10節の後半は、「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と訳されていました。新共同訳でも、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と訳されていました。どちらも、「思いなさい」となっています。

 「思いなさい」というのは、どういうことでしょうか。それは、「そう思えない」のが、私たちの現実だということではないでしょうか。「この人は尊敬できる、この人は尊敬できない」ということを判断しながら付き合っているのが、私たちの姿だということです。しかし、そんな私たちに、パウロは、互いに相手を優れた者として尊敬し合うことを勧めているということです。

 それでは、どうすれば、私たちは、互いを優れた者と思って、互いに尊敬し合うことができるのでしょうか。それは、互いを兄弟姉妹として招いてくださったイエス様を見上げること以外には、ないのではないでしょうか。イエス様を通して、互いを見るということではないでしょうか。

 そもそも、優れているというのは、どういうことなのでしょうか。優れた者というのは、どのような人のことなのでしょうか。社会の中では、それは、勉強や仕事がよくできる人のことでしょうか。礼儀正しい人でしょうか。社会の役に立っている人でしょうか。

 しかし、イエス様の十字架の前では、私たちは、何も誇ることができなくなります。自分が優れていると主張することは、誰にもできなくなります。私たちは、自分が一人の罪人であることに気づかされることになります。しかし、その何も誇ることのできない罪人の私たちを、イエス様はそのままに認めていてくださいます。そして、その罪人の私たちを、そのままに愛していてくださるイエス様を信じる時、私たちは、どのような人間的な基準からも自由でいることができるでしょう。

 互いに相手を優れた者として尊敬する、それは、無理やりに相手の優れた点を見つけようとすることではありません。そうではなくて、人間的な基準によって互いを見ることから解放されることです。反対に、イエス様を通して、互いを見ることです。罪人でありながら、イエス様に愛されている者として、互いを見ることです。あらゆる人間的な基準を捨てて、イエス様に愛されている互いを、優れた者として、認め合っていくことです。

 イエス様から目を逸らすなら、私たちは、人間的な基準で、互いに、優れているとか、優れていないなどと、判断をすることになります。それは、兄弟愛をもって互いに愛し合うことではありません。

 しかし、イエス様を見上げる時、私たちは、そのイエス様に愛されて集められた互いを、そのままに認めることができます。兄弟姉妹として尊重することができます。なぜなら、誰よりも、イエス様が、一人一人を認めていてくださるからです。

 教会は、イエス様を見上げる所であることを覚えたいと思います。そして、そのイエス様を通して、互いに相手を優れた者として尊敬し合うことができることを願います。

2.

 パウロは、「勤勉で怠らず」と言っています。

 勤勉で怠らないというのは、何についてなのでしょうか。今日の本文には何も記されていませんが、前の内容との関わりで見るならば、互いに愛し合うことについて、後ろの内容との関わりで見るならば、主に仕えることについてということになるでしょうか。あるいは、パウロが語っているすべてのことにおいてということになるでしょうか。いずれにしろ、大切なことは、勤勉で怠らないということです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、いつも勤勉でいることができるでしょうか。怠らないでいることができるでしょうか。できないのではないでしょうか。人間である私たちは、勤勉でいることができないこともあるわけです。怠ってしまうことがあるわけです。あるいは、疲れてしまうと言ってもいいでしょうか。そして、パウロは、そんな私たちを厳しく?りつけているのではありません。

 パウロは、「霊に燃え」と言っています。霊というのは、聖霊です。私たちの内にいてくださる神様の霊です。そして、その霊に燃えるというのは、聖霊に助けられて、励まされて燃えるということです。私たちが自分で自分を励まして燃えるのではありません。聖霊に助けられて燃えるということです。

 私たちは、いつも同じ気分を保ち続けることができるわけではありません。落ち込んだりします。疲れたりします。熱心でいることができなかったりします。しかし、私たちの気分とは関係なく、私たちの内側にいてくださる神様の霊、聖霊はいつも変わることなく働いていてくださいます。私たちが疲れた時も、落ち込んだ時も、祈ることができないような時にも、聖霊は私たちを支えていてくださいます。そして、その聖霊に助けられて、励まされて、私たちは燃えることができるということです。もちろん、燃えると言っても、それは、とにかくがむしゃらに活動することではありません。むしろ、その反対に、聖霊の働きに私たちの身を任せるということです。私たちが聖霊の働きを利用するのではなくて、聖霊の働きに私たちが用いられることです。そして、その聖霊の働きに用いられていく時、私たちは主に仕えることができるのではないでしょうか。自分自身でもなく、他の誰でもなく、他の何でもなく、主イエス・キリストに仕える者となることができるのではないでしょうか。そして、主イエス・キリストに仕える所には、喜びがあります。その喜びは、「望みを抱いて」のことだということです。

 「苦難に耐え」と言っていることからすると、主イエス・キリストに仕える所には、苦難がなくなるというわけではありません。主イエス・キリストに仕える所には、苦難が伴ってきます。しかし、その苦難の中において、望みが与えられているのであり、その望みの故に、喜ぶことができるということです。

 それでは、パウロが言っている望みというのは、何でしょうか。それは、神様の栄光に与る望みではないでしょうか。天に昇られた主イエス・キリストが、もう一度この世界に来られる時、新しい復活の体をいただいて、イエス様と共に永遠の命に生きる者とされる望みです。主イエス・キリストに仕えるクリスチャンは、天に昇られたイエス様がもう一度来られる時に、新しい復活の体をいただいて、イエス様と共に永遠の命に生きる者とされる望みによって喜ぶのであり、苦難にも耐えるのだということです。そして、そこには祈りが必要になってくるということです。

 パウロは、最後に聖徒たちの必要を満たすことについて語っています。

 「聖徒たち」というのは、神様のものとされたクリスチャンたちのことです。何か特別に聖なる感じのする人が、聖徒ということではありません。そうではなくて、イエス様を信じて洗礼を受けたクリスチャンであるなら、誰もが聖徒だということです。また、必要というのは、日々の生活を見据えた言葉です。生きるために必要なもののことです。そして、その必要を共に満たすというのは、満たされていない人々がいることを前提にしています。必要が満たされていない人々がいるからこそ、共に必要を満たすのだと言っているわけです。あるいは、日々の具体的な生活を共に支え合っていくのが、教会だと言ってもいいでしょうか。そして、それは、より積極的に、努めて人をもてなすという所にもつながっています。

 バランスよくとは言えなかったかも知れませんが、9-13節の全体を見てみました。

 どうでしょうか。もしかしたら、何だか、とても大変な宿題をいただいたように思う人もいるかも知れません。

 繰り返しになりますが、中心は、偽りのない愛に生きることです。そして、偽りのない愛から、すべてがスタートします。逆ではありません。偽りのない愛から、悪を憎み、善から離れない歩みが、スタートします。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手を優れた者として尊敬し合う歩みが、スタートします。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える歩みが、スタートします。望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈る歩みが、スタートします。聖徒たちの必要を共に満たし、努めて人をもてなす歩みが、スタートします。スタートは偽りのない愛だということです。私たちは、イエス様の偽りのない愛を経験したからこそ、その愛を身にまとって、新しい信仰生活の歩みをスタートさせるのだということです。

 パウロが語っている一つ一つの勧め、それはどれも大切なことです。そして、とても難しいことです。あるいは、私たちにはできないことと言ってもいいのかも知れません。しかし、だからと言って、パウロは、私たちにできない課題を与えて苦しめているのではありません。そうではなくて、パウロは、イエス様の偽りのない愛を身にまとってスタートする信仰生活の中で、結ばれる具体的な実を語っているということです。私たちは、イエス様の偽りのない愛をいただいて身にまといながら、パウロが語っている豊かな信仰生活の実を結んでいくのだということです。あるいは、神様ご自身が、ご自分の偽りのない愛をいただいて身にまとう私たちに対して、パウロの語る豊かな信仰生活の実を約束してくださっていると言ってもいいのかも知れません。大切なことは、私たちが、必死に課題をこなすことではなくて、イエス様の偽りのない愛をいただいて身にまといながら、神様の働きを期待することです。神様は、その私たちの信仰生活に豊かな実を結ばせてくださいます。

 毎週の礼拝の中で、日々の信仰生活の中で、イエス様の偽りのない愛をいただきたいと思います。その愛を身にまとって新しく生きる私たちに、神様が豊かな実を結ばせてくださることを期待したいと思います。そして、その豊かな実を共に味わって喜び証ししたいと思います。

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