礼拝説教から 2021年5月30日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙12章9-21節
  • 説教題:偽りのない愛に生きる

 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(1)

 

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 ローマ人への手紙は、12章から、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンの新しい信仰生活について、具体的な勧めが語られていきます。そして、その最初の所である1-8節では、新しい信仰生活の土台とも言えるような勧めが語られていました。

 パウロは、まず、礼拝こそが中心であることを語りました。信仰生活の中心は礼拝であり、信仰生活はいつも礼拝から始まるということです。

 そして、パウロは、次に、教会を念頭に置きながら、信仰の量りに応じて、慎み深く考えることを語りました。他のどのような秤でもなく、信仰という秤によって、教会の頭であるイエス・キリストを信頼して、イエス様こそが教会を導いていてくださることを信じて、イエス様に愛されている互いを尊重していくということです。

 クリスチャンの信仰生活、その土台には、礼拝と教会があると言えるでしょう。あるいは、礼拝を通して、教会の中で、クリスチャンの信仰生活は支えられていくと言ってもいいでしょう。

 今日の本文である19-21節には、礼拝を通して、教会の中で育まれる私たちの信仰生活について、その心得とも言えるような勧めが語られています。

1.

 今日の本文である12章9-21節の所には、様々な勧めが並べられていますが、パウロはまず愛から語り始めています。

 パウロがローマ人への手紙を書いている時、現在の私たちが手にしているような形の聖書はありませんでした。パウロにとって、ローマの教会の人々にとって、聖書というのは、旧約聖書のことでした。そして、その旧約聖書に親しんできたパウロやローマの教会の人々が最も大切にしてきた教えは、神様を愛することと隣人を愛することだと言えるでしょう。旧約聖書に親しんできたパウロやローマの教会の人々にとって、愛するというのは当然のことであり、クリスチャンの新しい信仰生活においても、何よりも大切にされなければならないこととして、受け止められていたと言えるでしょうか。クリスチャンというのは、愛に生きる人々でなければならないということです。

 パウロは、様々な勧めの最初に、その愛について触れながら、偽りがあってはならないと言っているわけです。それは、偽りのない愛こそが、その後に続く様々な勧めの土台になっているということになるでしょうか。逆に言うと、愛に偽りがあるならば、他にどんな素晴らしいことをしたとしても、それは、偽りに過ぎないと言ってもいいのかも知れません。

 どうでしょうか。皆さんは愛に生きているでしょうか。その愛には偽りがないでしょうか。

 パウロが、愛には偽りがあってはならないと言っているのは、どういうことでしょうか。それは、愛には偽りがあり得るということではないでしょうか。私たちの愛には、偽りがあり得るということです。私たちは、本当は愛していないのに、愛しているように偽ってしまうことがあるということです。そして、パウロは、私たちの愛に偽りがあり得る現実をよく弁えているというということです。だからこそ、愛には偽りがあってはならないことを、まず語っているということです。大切なことは、偽りのない愛に生きるということです。あるいは、偽りのない愛に生きることこそが、クリスチャンの信仰生活を偽りに満ちたものではなくて、真実なものにすると言ってもいいのかも知れません。

 それでは、偽りのない愛に生きるというのは、どういうことでしょうか。そもそも、私たちは、偽りのない愛に生きることができるのでしょうか。

 私は、自分自身を振り返ると、自分は偽りだらけなのではないかということを、しばしば思わされます。もちろん、クリスチャンとして、牧師として、愛する者であろうとします。愛に生きる者であろうとします。しかし、よくよく振り返ってみると、「愛するふりをしていただけだったのではないか」と思わされることが、いくらでも出てくるわけです。クリスチャンとしての自分を守るたに、牧師として認められるために、愛するふりをしているだけのことが、いくらでもあるということです。

 自分自身を見つめる時、私たちは、そこに偽りを見つけることになるでしょう。あるいは、愛する者になろう、愛に生きる者になろうとすればするほど、その愛の中に偽りがある自分の姿に気づかされるのかも知れません。そして、偽りのない愛に生きることのできない自分に失望して落ち込むこともあるでしょうか。

 ちなみに、ローマ人への手紙の中で、パウロが、私たちの愛について語っているのは、私たちが愛することについて語っているのは、12章9節が初めてです。

 ローマ人への手紙は全部で16章からなりますが、愛という言葉が出てきたのは、初めてではありません。パウロは、今日の本文よりも前から、愛について語ってきました。しかし、それは、神様の愛についてでした。パウロは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事において明らかにされた神様の愛を語ってきたということです。パウロは、神様が罪人の私たちを無条件に愛してくださっていることについて、様々な言葉で何度も語ってきたということです。そして、その神様の愛という土台の上でと言えるでしょうか。パウロは、初めて私たちの愛について語っているということです。私たちが愛することについて、私たちが愛に生きることについて、語り始めているということです。

 繰り返しになりますが、愛するということ、私たちが愛に生きる者になるということは、とても大切な教えです。クリスチャンであるならば、私たちは、愛に生きる者になることを願い求めていかなければならないでしょう。それは、とても自然なことです。

 しかし、その土台に、神様の愛がなければ、神様から愛されている喜びがなければ、私たちが愛することは、単なる義務でしかありません。非常に難しい努力目標でしかありません。そして、だからこそと言えるでしょうか。私たちが無理やりに愛する者になろうとするならば、そこには偽りが生まれることになるでしょう。私たちは上手に愛しているふりしてしまうということです。あるいは、その愛の演技が上手であればあるほど、その信仰生活は立派なものに見えるのかも知れません。反対に、上手に愛することができなければ、愛のない自分に気づかされて、落ち込んだり、自分を責めたりすることがあるのかも知れません。最初から、愛することを諦めてしまうかも知れません。

 そうすると、大切なことは何でしょうか。それは、偽りのない、純粋な愛を実践しようと努力することではないと言ってもいいのかも知れません。そうではなくて、偽りだらけの自分を認めることです。愛することのできない自分を認めることです。それは、偽りだらけの自分のままでいいということではありません。愛することのできない者のままでいいということではありません。そうではなくて、偽りだらけの自分を、そのままに受け入れていてくださるイエス様の前に、偽りだらけの自分を、そのまま持っていくことです。そして、偽りだらけの自分すらも、そのままに受け入れていてくださるイエス様の前で、偽りを一つ一つ取り除いていただいて、裸の自分に戻ることです。人前で身に着けているあらゆるものが取り除かれた裸の自分に戻ることです。そして、その裸の自分の上に、偽りのないイエス様の愛を着ることです。イエス様の十字架の前に留まりながら、イエス様と共に、偽りのない愛の道をスタートすることです。イエス様が、裸の私たちを、偽りのない愛に生きる者にしてくださるということです。大切なことは、そのイエス様を信頼して、偽りだらけの自分を委ねることです。

 イエス様は、上手に愛の演技をする私たちを求めておられるのではありません。そうではなくて、偽りだらけの自分をそのまま持ってきて、イエス様の前で裸になる私たちを求めておられます。そして、その私たちを、偽りのない愛に生きる者へと変えてくださいます。

 私たちの愛はどうでしょうか。上手に愛しているようで、実は、偽りに満たされているということはないでしょうか。反対に、上手に愛することができなくて、自分を責めていることはないでしょうか。

 偽りだらけの自分を、イエス様の前にそのままに持っていくことができることを願います。そして、その身に着けている偽りを、一つ一つ取り除いていただくことができることを願います。そして、いつも、裸の自分の上に、偽りのないイエス様の愛を着て、スタートすることができることを、心から願います。

2.

 パウロは、偽りのない愛を扇の要のようにして、様々な勧めを語っていきます。そして、その一つ目が、「悪を憎み、善から離れないようにしなさい」ということです。あるいは、偽りのない愛に生きる道の第一は、悪を憎み、善から離れないことだと言ってもいいのかも知れません。

 どうでしょうか。皆さんは、悪を憎んでいますか。善から離れていませんか。

 一言で、善や悪と言われても、何が善で、何が悪なのかも、正確には分からないというのが、私たちの現実なのかも知れません。悪を憎んでいるつもりでいて、善を行っているつもりでいて、実は、その反対のことをしているというのが、私たちの現実なのかも知れません。

 ちなみに、ローマの教会の人々に、悪を憎み、善から離れないでいなさいと勧めているパウロは、同じ手紙の7章では、自分のことを、本当に惨めな人間だと告白していました。なぜなら、自分が、善を行うのではなくて、悪を行っているからだということです。善を行うことを願っているにもかかわらず、悪を行ってしまう、そんな自分に気づかされながら、パウロは、自分が本当に惨めな人間であることを告白したということです。そして、それは、パウロが、イエス様と出会う前のことではありません。イエス様と出会って救われた後のことです。パウロは、イエス様と出会って救われた後、クリスチャンとしての新しい信仰生活の中で、善を行うことのできない惨めな自分に気づかされたということです。もちろん、それは、「かつて、そんな頃もあったけれども、今はそうではない」ということではありません。イエス様と出会って救われたクリスチャンとして、パウロはいつも善を行うことのできない惨めな自分の姿を見つめているということです。あるいは、クリスチャンの信仰生活というのは、善を行うことのできない自分に気づかされる日々と言ってもいいのかも知れません。そして、だからこそ、善から離れないでいることが大切だということになるのかも知れません。

 しかし、どうでしょうか。善から離れないというのは、分かったような、分からないような言葉ですが、どういうことでしょうか。とにかく善を行うということでしょうか。

 勧めをしているパウロ自身が、善を行うことのできない者であることを告白していることからすると、とにかく善を行うというのは、無理な要求ということになるでしょう。それこそ、偽りの善を招いてしまうことになるのかも知れません。

 善から離れない、それは、とにかく善を行うということではないでしょう。そうではなくて、善なる方から離れないということです。善なる方、イエス様から離れないということです。私たちは、善なる方、イエス様から離れないで、イエス様にしっかりと結び付けられていることが大切だということです。そして、それは、とにかく善を行う者になるということではないでしょう。その反対に、自分が善を行うことのできない惨めな者であることに気づかされることです。同時に、その惨めな自分が、善なるイエス様の偽りのない愛によって生かされている恵みを喜ぶことです。そして、だからこそ、その善なるイエス様を慕い、イエス様の下に留まるということです。イエス様と共に生きるということです。そして、その善なるイエス様にしっかりと結び付けられている時、私たちは、神様の御心にかなわない悪を憎む者となることができるのではないでしょうか。大切なことは、善なる方、イエス様にしっかりと結び付けられて生きるということです。

 私たちはどうでしょうか。

 日々の信仰生活の中で、善を行うことのできない自分の惨めさを知ったパウロの告白が、私たちの告白となることを願います。同時に、その自分を救い出してくださったイエス様を喜び、イエス様に結び付けられて生きる者となることができることを願います。そして、イエス様と共に、イエス様の御心に生きる者となることができることを、心から願います。

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