礼拝説教から 2021年5月23日

  • 聖書個所:使徒の働き2章1-13節
  • 説教題:いろいろな言葉で

 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(1-4)

 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」(9-11)

 

0.はじめに

 今日は、「教会暦」という教会独自のカレンダーでは、ペンテコステと呼ばれる日です。日本でも、最近は、クリスマスだけではなくて、先日のイースターも、よく知られるようになっていますが、ペンテコステはまだまだ知られていないかも知れません。ノンクリスチャンの方々であれば、ペンテコステと言われても、何だか「へんてこ」な名前だと思われるかも知れません。

 ペンテコステというのは、漢字では「五旬節」と書きます。漢数字の「五」、上旬・中旬・下旬の「旬」、節分の「節」です。「旬」は十日間ということで、簡単に言うと、五十日目ということです。そして、何から五十日目かと言うと、過越の祭りからということです。過越の祭りというのは、ユダヤ人たちが大切にしてきた祭りの一つです。

 今やら約二千年前、イエス様は、過越の祭りに合わせて、十字架にかかられました。それは、イエス様が、私たちの罪が赦されるために、過越の子羊として、ご自分の命をささげてくださったということです。そして、その過越の祭りから五十日後が、五旬節、ペンテコステです。

 ペンテコステもまた、ユダヤ人たちの大切な祭りの一つです。そのペンテコステの日に、イエス様を信じる弟子たちの上に、聖霊が降りました。聖霊というのは、復活されたイエス様が、天に昇る前に、弟子たちに約束されていた神様の霊です。そして、その約束の聖霊を受け取って、イエス様を信じる人々の集まりは、新しい時代の教会となって、現在に至っています。

 今日の本文に描かれているのは、まさにその聖霊が、弟子たちの上に降ったペンテコステの出来事です。

1.

 ペンテコステの日、イエス様の弟子たちは、同じ場所に集まっていました。そして、その時、大変なことが起こりました。今日の本文によれば、「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」ということです。さらには、「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」ということです。

 「激しい風が吹いて来たような響き」というのは、「まあ、そんなこともあるだろう」と言えるかも知れません。しかし、「炎のような舌が分かれて現れ」、しかも、それが、一人一人の上に留まったというのは、ちょっと普通では考えられないことです。説明することのできない現象です。あるいは、説明することのできない現象を、「激しい風が吹いて来たような響き」や、「炎のような舌」という言葉で表現したということになるでしょうか。どのような現象であったのか、正確には分かりませんが、いずれにしろ、それは、聖霊が弟子たちの上に降った出来事だということです。弟子たちは、イエス様から約束されていた聖霊を受け取ったということです。そして、その聖霊によって、他国のいろいろな言葉で話し始めたということです。

 イエス様から約束されていた聖霊を受けて、弟子たちは他国のいろいろな言葉で話し始めました。9節以降の所には、実にたくさんの土地や国の名前が挙げられています。特別に勉強をしたわけでもない弟子たちが、たくさんの言葉で話すというのは、驚くべきことです。奇跡としか言いようがありません。

 皆さんは、どうでしょうか。何か外国語で話をすることができるでしょうか。

 ちなみに、私は韓国語で話をすることができます。長く使っていないので、今では話せると言うのも恥ずかしいレベルですが、かつては、一生懸命に努力をして、それなりのレベルで話すことができました。

 この世界には、たくさんの言葉があります。そして、たくさんの言葉があるということは、使う言葉が違えば、話をすることも簡単ではないということを意味しています。違う言葉を使う人々と話をするのは、決して簡単なことではありません。一生懸命に努力をして、やっとコミュニケーションを取ることができるようになるわけです。逆に言うと、世界にたくさんの言葉があることは、人と人との自由な交わりを妨げる原因の一つになっていると言ってもいいのかも知れません。そして、聖書全体を見る時、その背景には、神になろうとした人間の傲慢を見ることができます。

 旧約聖書の創世記を見ると、天にまで届く塔を建てようとした人々の物語が出てきます。いわゆる、バベルの塔の物語です。

 バベルの塔の物語の中で、「全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」と説明されています。元々は、言葉は一つだったということです。しかし、バベルという町の人々が、自分たちの名を上げるために、天にまで届く塔を建てようとした時、神様は、言葉を混乱させて、互いの話し言葉が通じないようにされたのだということです。

 もしかしたら、天にまで届く塔を建てるというのは、自分とは関係のないことのように思うかも知れません。「自分はそんな大それたことをしていない」と思うかも知れません。しかし、天にまで届く塔を建てるというのは、何か大それたことをすることだけではありません。神様との関係の中で、神様に支えられて生きることを拒み、自分の力で生きようとするなら、それは、天に向かって立つ自分の塔を建てているのだということです。自分が自分の神になっているということです。

 バベルの塔の物語に従うなら、世界にたくさんの言葉があるのは、神のようになろうとした人間の傲慢に対して、神様が罰を与えられた結果ということになるのかも知れません。そして、そうであるならば、世界にたくさんの言葉があることは、決して肯定的なこととは言えなくなるでしょう。実際に、言葉の違いが壁となって、私たちは交わりの難しさを痛感させられたりすることがあるわけです。

 しかし、どうなのでしょうか。私たちが、交わりの難しさを感じさせられるのは、互いに理解し合うことの難しさを感じさせられるのは、異なる言葉を使う人々との間においてだけでしょうか。決してそうではないでしょう。私たちは、同じ言葉を使っていても、コミュニケーションの難しさ、交わりの難しさを、感じさせられているのではないでしょうか。自由にやりとりをすることができるはずの人々との間において、まったく話が通じないという経験を、何度もしているのではないでしょうか。そして、むしろ、その反対に、言葉が通じない人々との間において、心が通じ合うという経験をすることも多いのではないでしょうか。

 バベルの塔を建てて、人間が神のようになろうとした傲慢の結果として起こったのは、どういうことでしょうか。それは、単純に、一つだった言葉が、たくさんの言葉に分かれたということではないのかも知れません。むしろ、もっと根本的に、人と人との交わりに問題が生まれたということではないでしょうか。使う言葉が同じか違うかを越えて、人と人との交わりに壁が生まれてしまったということではないでしょうか。私たちは、バベルの塔を建てて、神のようになろうとした傲慢の結果として、互いの交わりに壁を築いてしまったということです。だからこそ、理解し合うための言葉によって、反対に、誤解が生まれたり、互いに傷つけ合ったりするわけです。問題は、言葉がたくさんあることではなくて、私たちの傲慢だということです。たくさんの言葉が私たちの交わりを難しくするのではありません。私たち自身の傲慢が交わりを破壊するのだということです。

 繰り返しになりますが、弟子たちは、他国のいろいろな言葉で話し始めました。そして、その話し始めた内容は、神様の大きな御業です。弟子たちが他国のいろいろな言葉で語ったこと、それは、神様の大きな御業でした。

 神様の大きな御業というのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事に他なりません。イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの御業です。神様を拒み、神様から離れた私たちの罪が赦されて、私たちが神様との交わりの中で、神様の愛に支えられて新しく生きるために、神様が御子イエス・キリストにおいてしてくださった御業です。そして、聖霊を受け取った弟子たちは、何よりも、その神様の大きな御業、イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの御業を宣べ伝える者になったということです。聖霊は、弟子たちに、イエス・キリストを証しする言葉を与えてくださったということです。そして、聖霊の与えられたペンテコステの日が、教会の新しいスタート地点でもあるならば、教会の本質というのは、イエス・キリストが証しされることと言ってもいいのかも知れません。教会が教会であるというのは、頭であるイエス・キリストが証しされることに他ならないということです。教会は、聖霊によって、イエス・キリストを証しすることによって前進していくということです。

 バベルの町の人々は、自分たちの塔を建てました。自分たちの名を上げるために、自分たちの塔を建てました。それは、自分たち自身を証しすることでした。そして、自分自身を証しすることは、人と人との交わりを妨げることになりました。

 私たちが証しするのは、自分自身ではありません。私たちは天にまで届く自分の塔を建てるのではありません。そうではなくて、天から降って来てくださって、罪人の私たちが救われて新しく生きるために、十字架にかかり、死んで復活してくださったイエス・キリストを証しするということです。

 イエス・キリストを証しする、それは、バベルの町の人々のように、自分の塔を建てて、自分を証しすることではありません。反対に、自分の罪を認めることです。それは、自分の塔を砕くことであり、自分が砕かれることです。そして、それは、聖霊の助けなしには、決してできることではありません。私たちは、聖霊に助けられて、自分の罪を見つめるのであり、その罪を赦してくださったイエス・キリストこそが自分の主であることを告白するのです。イエス・キリストを証しするというのは、十字架の前で砕かれた罪人の自分を見つめることであり、同時に、その砕かれた自分を支えていてくださる主イエス・キリストを喜ぶことであり、その喜びが証しとなるわけです。そして、そのイエス・キリストに救われて生きる喜びが証しされる時、そこにもたらされるのは、破壊された交わりの回復です。

 繰り返しになりますが、弟子たちは、他国のいろいろな言葉で語りました。神様の大きな御業を、イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの御業を、いろいろな言葉で語りました。そして、それは、いずれにしろ、聞く相手の言葉です。語る弟子たちの言葉ではありません。聞く相手の言葉です。弟子たちは、自分たちが理解できる言葉ではなくて、自分中心の言葉ではなくて、聞く相手が理解できる言葉で、相手中心の言葉で、神様の大きな御業を語ったということです。だからこそ、神様の大きな御業は、聞く相手に合わせて、いろいろな言葉で語られたということです。そして、それは、自分の塔を建てることによって破壊された人々の交わりに回復への道を開いたということを意味しています。神様は、イエス・キリストがいろいろな言葉で証しされることによって、本来なら、通じ合うことのできない人々の間に、新しい交わりの道を開いてくださったということです。

 ペンテコステの日に、弟子たちの上に注がれた聖霊は、現在の私たちにも与えられています。聖霊が与えられているからこそ、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストに支えられて生きる者とされています。そして、イエス・キリストを証しする者として招かれています。

 私たちの回りには、どのような人々がいるでしょうか。

 私たちが実際にイエス・キリストを証しするのは、必ずしも外国語を必要とする相手ではないかも知れません。しかし、いろいろな人々です。自分とは違う人々です。性別が違うかも知れません。世代が違うかも知れません。経験してきたことが違うかも知れません。考え方が違うかも知れません。好みが違うかも知れません。そして、いずれにしろ、その異なる人々にイエス・キリストを証しする時、私たちは変わらなければならないということです。相手が理解することのできる言葉で語らなければならないということです。

 私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを証しする者となっているでしょうか。どのような言葉で証ししているでしょうか。

 与えられた聖霊に助けられて、イエス・キリストを証しする者とならせていただきたいと思います。自分自身ではなくて、罪人の自分を愛していてくださるイエス・キリストを証しする者とならせていただきたいと思います。自分中心の言葉でではなくて、相手中心の言葉で、イエス・キリストを証しする者とならせていただきたいと思います。そして、イエス・キリストが証しされる所に、破壊された交わりの回復を見ることができることを、心から願います。

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