礼拝説教から 2021年5月16日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙12章3-8節
  • 説教題:信仰の量りに応じて

 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。

 

0.はじめに

 ローマ人への手紙は12章から後半に入ります。11章までの所では、教理的な内容のことが語られていました。具体的に言うと、パウロは、神様の憐れみについて語ってきました。罪人の私たち一人一人を、無条件に愛していてくださる神様の憐れみです。神様は、ご自分から顔を背けている私たち一人一人を、ご自分との交わりの中に、ご自分に支えられて新しく生きる救いの中に招いていてくださるということです。そして、私たちに求められているのは、良い人間になったり、何かを成し遂げたりすることではなくて、反対に、罪人であることを認めることです。罪人の私たちが赦されて新しく生きるために、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださったイエス様を救い主として信じて受け入れることです。イエス・キリストの十字架の死と復活によって明らかにされた神様の憐れみを受け取ることです。

 12章以降の所では、その神様の憐れみを土台として、ローマの教会の人々や現在の私たちに向けて、新しい信仰生活に関しての具体的な勧めが語られていきます。

 先週は、その始まりの部分を見ました。それは、礼拝からスタートするということでした。信仰生活の中心は礼拝であり、礼拝というのは、自分を神様のものとして献げるということでした。立派な自分ではなくて、何かができる自分ではなくて、神様の憐れみなしには生きることのできないことに気づかされて砕かれた自分、しかし、その神様の憐れみによって支えられている自分を、神様のものとして献げることです。イエス様の十字架の前で、神様の憐れみを受け取り、神様の憐れみに感謝し、神様に自分を献げて、神様に人生のハンドルを握っていただくことです。

 先週の本文である1-2節は、新しい信仰生活に関する具体的な勧めの土台とも言えるような内容になりますが、今日の本文である3-8節も、その続きになります。

1.

 

 パウロは、「神の憐れみによって」と言っていたのを、「自分に与えられた恵みによって」と言い換えています。恵みというのも、神様から一方的に与えられる無条件の愛です。私たちに何か受け取る資格があってということではありません。受け取る資格のない私たちに、神様の愛が与えられているということです。私たちは、罪人であるにもかかわらず、神様の救いに招かれているということです。パウロが語ってきた神様の憐れみによる救いというのは、恵みによる救いと言うこともできるでしょう。

 そして、その与えられた恵みによって、パウロは、一人一人に語っています。それは、思うべき限度を越えて思い上がってはいけないということです。

 パウロは、思い上がってはいけないと言っています。思い上がってはいけないと言っていることからすると、そこには思い上がりがあったということになるでしょうか。ローマの教会の人々は思い上がっていたようです。思い上がっていたからこそ、パウロは、思い上がってはいけないと勧めているということです。そして、それは、ローマの教会の人々だけではなくて、現在の私たちに向けられた勧めでもあります。私たちもまた、思い上がりやすい者だということです。

 パウロは、思い上がるのではなくて、慎み深く考えなさいと勧めています。そして、慎み深く考えなさいというパウロの言葉には、「神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて」という説明が加えられています。慎み深く考えるのは、神様から与えられた信仰の量りに応じてのことだということです。

 信仰の量りに応じてと言うと、もしかしたら、私たちの信仰には、「大きい小さい」、「深い浅い」などと言えるような、レベルの違いがあるような感じがするかも知れません。実際に、以前の新共同訳では、「信仰の度合いに応じて」と訳されていました。まさに「信仰が大きければ、その大きさなりに、信仰が小さければ、その小ささなりに」ということが意識されている感じです。

 しかし、どうでしょうか。私たちには、自分の信仰について、他の誰かの信仰について、大きいとか小さいとか、初心者レベルだとか上級者レベルだとか、判断をすることができるのでしょうか。できないのではないでしょうか。私たちは、自分の信仰にしろ、他の誰かの信仰にしろ、「ああだ、こうだ」と判断することができないということです。逆に言うと、自分は上級、この人は初級、あの人は中級などと判断するとしたら、それこそ、思うべき限度を越えたことなのではないでしょうか。

 信仰の量りというのは、「信仰という秤」ということです。信仰という秤で見つめるということです。他のどのような秤によってでもありません。他のどのような基準によってでもありません。信仰という秤、信仰という基準によって見つめるということです。そして、信仰という秤によって見つめる時、私たちは慎み深く考えざるを得ないということです。

 パウロは、信仰について、神様が各自に分け与えてくださったと説明しています。信仰というのは、神様が与えてくださったものだということです。私たちが、何かを悟って、信仰を持ったのではありません。神様から与えられた課題をすべてクリアして勝ち取ったものでもありません。そうではなくて、神様が恵みとして与えてくださったものだということです。そして、その信仰というのは、自分が罪人であることを受け入れることであり、その罪人の自分が赦されて新しく生きるために、十字架の上で死んで復活してくださったイエス様を救い主として受け入れることに他なりません。信仰を持つというのは、自分が神様の恵みによって生かされている者であることを認め続けていくということです。そして、その信仰という秤によって自分を見つめるなら、私たちは慎み深く考えざるを得ないということです。それは、「自分には何もできない」、「私なんか」と言うことではありません。大きな態度を改めることではありません。そうではなくて、神様の一方的な恵みによって生かされている自分を認め続けていくということです。砕かれ続けていくということです。そして、だからこそ、神様によって、支えられ、建て上げられ、用いられていくということです。

 次の4節以降の所を見ていくと、思い上がらない、慎み深く考えることについて、特に教会を念頭に置いて話していることが分かります。

 パウロは体について語っています。一つの体には、多くの器官があり、それぞれの器官は、同じ働きをしていない、別の働きをしているということです。例えば、目であるならば、見るという働き、耳であるならば、聞くという働きになるでしょうか。

 そして、パウロは、「大勢いる私たち」こそが、キリストにある一つの体であり、多くの器官であるということを言っています。「大勢いる私たち」というのは、直接的には、ローマの教会のことになると思いますが、より大きく見るならば、キリストにある人々の集まりということになるでしょうか。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、イエス・キリストと一つされたクリスチャンたちの集まり、教会です。そして、パウロは、まさにそのクリスチャンたちの集まり、教会の話をしているということです。

 思い上がらない、慎み深く考える、それは、教会を念頭に置いた言葉です。パウロは、個人個人の日常生活が、その言葉や行動が、どうのこうのと言っているのではありません。「誰々さんは、最近、商売が上手くいっていて、態度がでかい」というような話ではありません。パウロは、教会の話をしているということです。教会を念頭に置きながら、思い上がってはならない、慎み深く考えなさいという勧めをしているということです。

 それでは、教会において、思い上がらない、慎み深く考えるというのは、どういうことでしょうか。

 パウロは、教会のことを、キリストにある一つの体と言っています。そして、私たち一人一人のことを、器官と言っています。

 どういうことでしょうか。その意味することの一つは、私たちが、一人で体全体なのではないということではないでしょうか。私たちは一人一人が体全体なのではないということです。私たちは一人で教会全体なのではないということです。私たちは、体を構成する一つ一つの器官、教会を構成する一つ一つの器官に過ぎないということです。そして、それは、私たちが体全体について、教会全体について、すべてのことをしなくてはならないわけではないということです。すべてのことに責任を負っているのではないということです。手のことは、手がすればいい、足のことは、足がすればいい、口のことは、口がすればいいということです。もちろん、それは、他の器官について、他の人について、無関心でいればいいということではありません。誰が何をしていようが放っておけばいいということではありません。そうではなくて、互いの存在を尊重するということです。互いの働きを尊重するということです。そして、それは、何よりも、イエス様を信頼するということでもあります。

 今日の本文の中には記されていませんが、教会の頭はキリストです。イエス様です。イエス様こそが、教会という一つの体の頭であり、体を体として動かしていてくださいます。教会を教会として導いていてくださいます。イエス様こそが教会の責任者です。そして、信仰の量りに応じて慎み深く考えるというのは、そのイエス様を信頼することです。教会の現実がどうであっても、頭であるイエス様が、相応しく導いていてくださることを信じることです。教会にとって、本当に必要なことは、すべてイエス様がしていてくださることを、信じることです。そして、そのイエス様を信頼する時、私たちは、自分もまた、そのイエス様によって、建て上げられ、用いられている一つの器官に過ぎないことを受け入れることができます。他の人々のことも、イエス様が建て上げていてくださり、用いていてくださることを、受け入れることができます。そして、イエス様に委ねることができます。

 パウロは、私たちが、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っていると言っています。賜物というのは、神様が、教会を建て上げるために、私たち一人一人に与えてくださった贈り物です。そして、預言すること、奉仕すること、教えること、勧めをすること、分け与えること、指導すること、慈善を行うことを、賜物の例として挙げています。

 パウロは、賜物が、預言であれば、預言しなさいと勧めています。奉仕であれば、奉仕しなさいと勧めています。預言の賜物を受け取った人に、奉仕しなさいと勧めているのではありません。奉仕の賜物を受け取った人に、預言しなさいと勧めているのではありません。そうではなくて、預言であれば預言に、奉仕であれば奉仕に集中するということです。そして、それは、他の人の働きを尊重するということであり、自分や他の人を用いていてくださるイエス様を信頼するということです。

 思うべき限度を越えて思い上がるというのは、どういうことでしょうか。それは、態度が大きいことではありません。そうではなくて、神様がなさることを、人間である私たちがしようとしてしまうことです。あるいは、神様に退場してもらって、自分が神のようになって、すべての責任を担おうとしてしまうことと言ってもいいのかも知れません。もちろん、実際に私たちが神様であるわけではないために、すべてが思い通りにいくわけではありません。上手くいけば、得意になり、上手くいかなければ、落ち込むことになります。いずれにしろ、それは、自分が神のようになろうとしている結果であり、神様の前で、思うべき限度を越えて思い上がっているということです。そして、それは、もしかしたら、教会の中だけのことではなくて、あらゆる場所において、あらゆる人間関係において、言えることなのかも知れません。

 大切なことは何でしょうか。それは、繰り返しになりますが、神様から与えられた信仰という秤によって、慎み深く考えることです。信仰という秤によって、教会の頭であるイエス様を信頼することです。

 信仰という秤によって、イエス様を信頼する時、私たちは自分のするべきことに集中することができます。他の人の存在や働きを尊重することができます。そして、それが、教会の建て上げにつながります。もちろん、建て上げていてくださるのはイエス様です。すべての責任はイエス様が取ってくださるということです。

 私たちはどうでしょうか。

 与えられた信仰という秤によって、慎み深く考える者でありたいと思います。教会を建て上げていてくださるイエス様を信頼する者でありたいと思います。すべての場所において、すべての人間関係において、働いていてくださる神様を信頼する者でありたいと思います。そして、互いを尊重しながら、自分の働きに集中する者でありたいと思います。

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