礼拝説教から 2021年5月9日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙12章1-2節
  • 説教題:礼拝から

 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 

1.

 パウロは、1-11章までの所で、神様の憐れみを語ってきたと言ってもいいでしょう。ユダヤ人たちにしろ、ユダヤ人以外の人々にしろ、神様はすべての人を憐れんでいてくださるということです。憐れんでいてくださるというのは、無条件の愛で受け入れていてくださるということです。私たちが、神様に関心を持って、「神様、ごめんなさい」と言ったからではなくて、神様の教えを熱心に行っているからではなくて、神様は、ご自分を無視して、ご自分を離れて生きる私たち一人一人の罪を、御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、赦していてくださり、ご自分に支えられて新しく生きる道へと、招き入れていてくださるということです。パウロは、罪人の私たちが、神様の深い憐れみによって、神様の救いの中に、神様に支えられて生きる幸いの中に招き入れられているという素晴らしい知らせを語ってきたということです。パウロは、その神様の憐れみを信じて、洗礼を受けて、神様の家族とされたローマの教会の人々に、「兄弟たち」と呼びかけながら、クリスチャンの新しい歩みについての勧めをしようとしているわけです。そして、その勧めというのは、神様の憐れみが土台になっているということです。

 今日の本文から後の所を、ざっと見ていくと、たくさんの教えが命令の形で並んでいます。例えば、同じ12章14節には、「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」と教えられています。

 どうでしょうか。とても難しい教えではないでしょうか。何か嫌なことをされて、その嫌なことをしてきた人々を憎むのではなくて、祝福するというのは、なかなかできないことなのではないでしょうか。

 ノンクリスチャンの方々と話しをしていると、「聖書の教えはとても素晴らしいと思うけれども、私はとてもそんな立派な人間にはなれない、私はとてもクリスチャンにはなれない」と言われるのを、よく聞くことがあります。また、すでにクリスチャンとなっている方々の口からも、「私はいつまでたっても愛することができません。神様はこんな私を見捨ててしまわれるんじゃないでしょうか」というような話を、聞くことがあります。

 クリスチャンになるというのは、立派な人間に変わらなければならないということではありません。立派な人間に変わる自信がなければ、洗礼を受けてクリスチャンになる資格がないということではありません。また、クリスチャンになった後でも、パウロの勧めを行うことができなければ、救いが取り消されるということでもありません。大切なことは、神様の憐れみの上に立たせていただくことです。

 神様の憐れみの上に立つというのは、ある意味では、自分が完成されていくことではありません。周りから認められたクリスチャンになることではありません。聖書をよく学んで、きっちりと奉仕や伝道をして、どんな時にも神様を信頼することができるようになって、いつも表情が穏やかになって、「まるでイエス様みたい」と、誰からも思われるような姿になれば、それが、神様の憐れみの上に立っているという証しではありません。神様の憐れみの上に立つというのは、自分が砕かれることです。自分が持っているものにしろ、自分が誇っているものにしろ、自分を支えているすべてのものが砕かれて、神様に支えられなければ、立っていることのできない自分に気づかされることです。しかし、その自分を憐れんでいてくださり、無条件に受け入れていてくださる神様の手を取って、神様に自分を委ねて、神様ご自身に支えられて生きることです。そして、その神様の憐れみの上に立たせていただく時、私たちはクリスチャンの新しい生き方へと導かれていくことになるということです。パウロの勧めているクリスチャンの新しい生き方というのは、神様の憐れみに対する応答だということです。感謝の応答と言ってもいいでしょうか。私たちは、神様の憐れみに支えられている自分を覚えながら、その神様に感謝して、神様の教えに生きる者になるということです。そして、それは、信仰生活の最初から最後まで変わりません。

 私たちは、すぐに神様の憐れみから目を逸らしてしまいます。神様の憐れみから目を逸らしたまま、神様の教えを行うことに熱心になって、疲れたり、驕り高ぶったり、批判的になったり、反対に、自分はだめだと思うようになったりします。

 聖書はいつも私たちをイエス様の十字架の前へと導いています。そして、その十字架の前で、神様の憐れみを受け取るようにと招いています。

 礼拝に集まる一人一人が、イエス様の十字架の前で、神様の憐れみを受け取ることができることを願います。

2.

 パウロは、まず、自分の体を献げなさいと勧めています。そして、自分の体をささげることこそが、ふさわしい礼拝だと説明しています。パウロは、神様の憐れみを受け取って、神様の家族になったローマの教会の人々に対して、何よりもまず、礼拝を勧めているということです。そして、それは、礼拝こそが、クリスチャンの新しい生き方の始まりであることを意味しています。クリスチャンの新しい生き方は、礼拝から始まるということです。礼拝こそが、クリスチャンの生活の中心だということです。

 パウロは、その礼拝について、自分の体を神様に献げることだと言っています。

 パウロが言っている体というのは、肉体のことだけではありません。心と言えばいいでしょうか、魂と言えばいいでしょうか、そのすべてを含めた自分の全体のことです。あるいは、体によって営まれる私たちの生活そのもの、人生そのものと言ってもいいでしょうか。そして、パウロは、その自分の体を神様に献げなさいと勧めているということです。神様に献げるというのは、神様のものにしていただくということです。神様のものとして、神様に自由に用いていただくということです。そして、それは、神様にすべてを委ねると言い換えてもいいのだと思います。自分で自分の人生を生きるのではなくて、神様に人生のハンドルを委ねて、神様に人生を導いていただくということです。

 パウロは、その神様に献げる体について、「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として」という説明を加えています。何だか難しい説明ですが、最初の言葉に注目したいと思います。

 私たちの体は、私たちの生活は、私たちの人生は、私たちの心の中は、神様に喜ばれているでしょうか。

 私は、信仰生活を始めた頃、一週間の歩みの中で、何か間違ったことをしたり、悪いことを思ったりすることがあると、日曜日の礼拝に行く時、何か後ろめたい思いがありました。その反対に、自分なりに、聖く正しく生活できたなぁと思った時には、晴れ晴れとした気分で、礼拝に行くことができました。つまり、自分の生活がどうだったかによって、神様が自分の礼拝を喜んでいてくださるか、喜んでいてくださらないかを考えていたということです。

 旧約聖書にダビデという王が出てきます。ダビデというのは、ユダヤ人たちが尊敬する偉大な王です。しかし、その偉大な王であるダビデも、ずっと聖人君子のような人生を歩んだわけではありません。ダビデにはたくさんの過ちがありました。代表的な過ちは、ウリヤという家来の妻と不倫をしたことであり、その不倫の事実を覆い隠そうとして、最終的には、家来のウリヤを戦死に追い込んだことです。

 礼拝の始まりに、招きの言葉として、詩篇51篇17節を何度か読んでいます。<神へのいけにえは、砕かれた霊。↩ 打たれ 砕かれた心。↩ 神よ あなたはそれを蔑まれません。> 詩篇51篇は、ダビデが、神様ご自身によって、罪を指摘された時に歌ったものです。

 ダビデのしたことは、とんでもないことです。決してあってはならないことです。

ダビデは、神様から自分の罪を指摘された時、砕かれました。砕かれて、神様の憐れみなしには生きることのできない者であることを認めさせられました。しかし、その砕かれた自分を、そのまま神様の前に持っていきました。

 どうしてでしょうか。それは、神様が、砕かれた自分をそのままに受け入れてくださることを確信していたからではないでしょうか。ダビデは、立派なことを成し遂げた自分ではなくて、清廉潔白な自分ではなくて、砕かれて、神様に支えられることを必要とする自分を、神様が喜んで受け入れてくださることを確信していたということです。ダビデは、神様の限りない憐れみを知っていたからこそ、砕かれた自分を神様の前に献げることができたということです。

 礼拝というのは、何でしょうか。パウロの言葉に従うなら、それは、神様に自分を献げることです。そして、献げるのは、砕かれた自分です。イエス様の十字架の前で、罪人であることに気づかされた自分です。神様の憐れみなしには、生きることのできないことに気づかされて砕かれた自分です。しかし、同じ十字架の前で、神様の憐れみによって、罪が赦されて、新しい命をいただいて、神様ご自身に支えられて生きる人生をスタートさせた自分です。そして、礼拝というのは、その神様の憐れみの上に立つ自分をそのままに献げることであり、神様はその私たちの礼拝を喜んでいてくださるということです。礼拝というのは、イエス様の十字架の前で、神様の憐れみを受け取ることであり、神様に感謝することであり、神様に自分を献げることだと言えるでしょう。

 神様が喜ばれるのは、私たちの立派な生活の報告ではありません。私たちがこんなことをしたという報告ではありません。そうではなくて、砕かれた自分です。神様の憐れみなしには生きることのできないことに気づかされて砕かれた自分です。しかし、その砕かれた自分を憐れんでいてくださる神様に支えられて生きることを願って、神様の前に自分を献げる時、神様は喜んでくださいます。そして、癒して、慰めて、新しい歩みへと励ましてくださいます。

 パウロは、続けて、 パウロは、この世と調子を合わせてはいけないと勧めています。

 この世と調子を合わせないというのは、どういうことでしょうか。この世のものを楽しんではならないということでしょうか。この世の考えは何でもかんでも否定しなければならないということでしょうか。そうであるならば、私たちはこの世から出て行かなければならないでしょう。

 クリスチャンというのは、この世から出て行く人々ではありません。そうではなくて、この世にありながら、この世と調子を合わせないで生きる人々のことです。この世と調子を合わせないというのは、この世の型に自分を当てはめないということです。

 パウロは、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさいと勧めています。

変えていただくというのは、形が変えられるということです。この世の型に当てはめられて、この世の形に変えられるのではなくて、神様によって形が変えられるということです。神様の形に変えられると言ってもいいでしょうか。

 子どもたちは、時々、粘土で遊びます。粘土をこねて、いろいろな形のものを造ります。

 当たり前のことかも知れませんが、粘土はどうして形が変わるのでしょうか。それは、柔らかいからではないでしょうか。粘土は柔らかいからこそ、形が変わるということです。

 カチコチに固まっているものは、形が変わりません。神様も手を加えることができません。しかし、柔らかければ、神様も自由に形を変えることができるでしょう。そして、パウロがローマの教会の人々や現在の私たちに勧めているのは、神様に形を変えていただくことです。神様の前で砕かれて、柔らかい者になって、神様に形を変えていただくことです。神様に変えられることを受け入れ続けていくことです。そして、それは、心を新たにすることによって、可能になります。心を新たにするというのは、イエス様の十字架の前で、砕かれて、神様の憐れみに支えられて生きることを願う者になるということです。そして、それは、礼拝を通して起こる出来事です。

 この世というのは、イエス様の十字架の死と復活によって明らかにされた神様の憐れみを知らない世界です。そして、その世と調子を合わせて生きる時、私たちは、神様の憐れみに支えられてではなくて、自分の何かに拘って生きることになります。結果として、神様の前で頑なな者になります。神様に変えられることを拒むことになります。しかし、神様の憐れみを受け取って、砕かれた者として、神様に自分を献げる時、私たちは神様に変えていただくことができます。

 大切なことは何でしょうか。それは、何よりも、イエス様の十字架によって明らかにされた神様の憐れみを受け取り続けることです。その受け取った憐れみに感謝しながら、砕かれた自分を神様に献げることです。神様によって変えられることを受け入れ続けていくことです。そして、だからこそと言えるでしょうか。神様は私たちを礼拝へと招いていてくださいます。この世にありながら、この世と調子を合わせて生きる者ではなくて、神様のものとして、神様の形に変えられて生きる者となるために、神様は私たちを礼拝へと招いていてくださるということです。

 私たちの礼拝はどうでしょうか。

 私たちの礼拝が、神様の豊かな憐れみを受け取る時となることを心から願います。神様の豊かな憐れみに答えて、自分を神様に献げる時となることを願います。そして、神様のものとして生きるために、この世の中に遣わされていく時となることを願います。

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