礼拝説教から 2021年5月2日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙11章25-36節
  • 説教題:すべての人を憐れむために

 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。↩ 「救い出す者がシオンから現れ、↩ ヤコブから不敬虔を除き去る。↩ これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、↩ すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」↩ と書いてあるとおりです。彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(25-32)

 

 パウロは、「兄弟たち」と呼びかけています。直接的には、手紙の宛先であるローマの教会の人々になるでしょうか。イエス様を信じて、神様の家族となった人々のことです。そして、そのほとんどは、ユダヤ人ではない異邦人の中から、イエス様を信じた人々でしょう。

 パウロは、その異邦人のクリスチャンたちに対して、奥義を知らずにいてほしくはないと言っています。奥義を知っていてほしいと言っています。そして、その理由は、「あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするため」だということです。異邦人のクリスチャンたちは、自分を知恵のある者のように考えている、だからこそ、奥義を知ってほしいということです。逆に言うと、奥義を知ることになるなら、自分を知恵のある者と考えるようなことはなくなるということでもあるでしょうか。

 どうでしょうか。皆さんは、自分が知恵のある者だと考えておられますか。恐らくは、「とんでもない、私は愚かな者です」と答えられるのではないでしょうか。

 日本という国自体もそうかも知れませんが、特に、教会という所では、「謙遜」であることが美しいこととされています。私たちは、どこかで、謙遜であろうと意識している所があるのだと思います。

 しかし、どうでしょうか。「そうですよね、あなたは本当に愚かですよね」と返されたら、どうでしょうか。やっぱり、カチンと来るのではないでしょうか。腹が立つのではないでしょうか。口では、「私は愚かな者です、何もできない者です」と言っていても、「そうですよね」と返されたら、やっぱり腹が立つわけです。そして、それは、心のどこかで、自分は知恵のある者ではないということを、受け入れたくない思いがあるということではないでしょうか。

 先週の本文になりますが、パウロは、異邦人の中からイエス様を信じて救われた人々に対して、思い上がってはならないと戒めていました。ユダヤ人たちに対して、誇ってはならないと戒めていました。異邦人の中からクリスチャンになった人々は、頑なにイエス様を拒んでいるユダヤ人たちを、見下すようになっていました。反対に、自分こそは救われるに相応しい者だったと考えて誇るようになっていました。そして、そのような誇り、思い上がりが、自分を知恵のある者と考えることだと言えるでしょう。パウロは、異邦人の中からクリスチャンになった人々が、口先だけの謙遜ではなくて、本当の謙遜を身に着けることを願っているのであり、そのために奥義を伝えようとしているのだということです。

 それでは、パウロの言っている奥義とは、何でしょうか。奥義というのは、明らかにされた神様の御心です。隠されていたけれども、明らかにされた神様の御心です。そして、その奥義というのは、「異邦人の満ちる時」が来れば、「イスラエルはみな救われる」ということです。ユダヤ人たちの一部、実際には大部分ですが、彼らが頑なになっているのは、異邦人の救いが完成する時までであり、異邦人の救いが完成する時には、頑なになっていたユダヤ人たちもイエス様を信じて救われることになるということです。神様の限りない憐れみによって、不敬虔が取り除かれて救われるのだということです。そして、その奥義を知るならば、異邦人は自分を知恵のある者と考えることができない、自分は救われて当然の者だと誇ることができないということです。

 どうしてでしょうか。なぜなら、異邦人が神様の救いに招き入れられているのは、ユダヤ人たちが神様に敵対してくれているからです。

 パウロは、ユダヤ人たちについて、福音に関して言えば、「あなたがたのゆえに」、神様に敵対していると言っています。

 福音というのは、神様の救いに関する良い知らせです。パウロは、イエス・キリストの十字架によって明らかにされた、神様の無条件の愛に関する知らせを、福音として語ってきました。私たちは、神様の言葉を一生懸命に守ったり、良い人間になったりしたご褒美として、救われるのではなくて、神様は罪人である私たちを無条件に愛していてくださるのであり、受け入れていてくださるのだということです。そして、その神様の愛を信じ受け入れて、神様の愛に支えられて生きることが、私たちの救いです。

 パウロによれば、その救いに関する良い知らせ、福音について言うならば、ユダヤ人たちは神様に敵対しているのだということです。神様が差し出してくださっている救いの手を頑なに拒んでいるということです。そして、それは、「あなたがたのゆえ」だということです。

 パウロが言っている「あなたがた」というのは、異邦人たちのことです。そして、「あなたがたのゆえに」というのは、「あなたがたのために」ということです。パウロによれば、ユダヤ人たちが、神様に敵対して、イエス様の福音を拒んでいるのは、異邦人たちのためだということです。異邦人である私たちがイエス様を信じて救われるためだということです。あるいは、異邦人である私たちがイエス様を信じて神様の救いに招き入れられているのは、ユダヤ人たちが神様に敵対してくださっているからこそと言ってもいいのかも知れません。

 もちろん、ユダヤ人たちには、「異邦人たちのために神様に敵対している」などという意識はないでしょう。しかし、神様の奥義、秘められた計画の下で、神様に対するユダヤ人たちの敵対は、私たちの救いのために用いられているということです。そして、それは、神様がユダヤ人たちだけでなく、私たち一人一人を憐れんでいてくださるということです。

 何だかややこしい計画だなぁということを思いますが、パウロが言っているのは、どういうことでしょうか。それは、神様が私たちを憐れんでいてくださるということです。神様が、ユダヤ人たちの不従順を用いて、全世界の人々を憐れんでいてくださるということです。ご自分の救いの中に招き入れていてくださるということです。逆に言うと、私たちは、ただ神様の憐れみを受けたに過ぎないということでもあります。私たちは救われるに相応しい者だったわけではないけれども、神様の一方的な憐れみを受けて救われたに過ぎないということです。そして、それは、ユダヤ人たちも同じです。

 異邦人である私たちは、元々は神様に対して不従順でしたが、現在はユダヤ人たちの不従順のおかげで、神様の憐れみを受けています。そして、ユダヤ人たちも、現在は私たちが憐れみを受けるために、不従順になっていますが、それは、彼らが、これから憐れみを受けていくためだということです。

 パウロは、神様がすべての人を不従順の内に閉じ込めたと言っています。ユダヤ人たちも、ユダヤ人以外の人々も、一人の例外もなく、すべての人が神様に従わない者になったと言っています。罪人と言ってもいいでしょうか。しかし、その不従順の中にある私たち一人一人を、罪人の私たち一人一人を、神様は憐れんでいてくださるということです。

 神様の憐れみというのは、どういうことでしょうか。神様がすべての人を憐れんでいてくださるというのは、どういうことでしょうか。それは、神様が、すべての人を、無条件の愛で受け入れてくださっているということではないでしょうか。

 何度も繰り返していることかも知れませんが、社会の中ではどうでしょうか。誰かに受け入れてもらうというのは、社会の中で認められて生きるというのは、自分の価値を確信して生きるというのは、決して簡単なことではないのではないでしょうか。

 勉強ができなくて、親や学校の先生から受け入れてもらえないということがあるでしょうか。良い仕事をすることができなければ、会社では肩身の狭い思いをすることがあるでしょうか。人付き合いが悪ければ、除け者にされるということもあるでしょうか。突然の事故や病気で、体が動かなくなったり、仕事ができなくなったりすれば、邪魔者扱いされることもあるでしょうか。

 神様がすべての人を憐れんでいてくださるというのは、そんな私たち一人一人を、無条件の愛で、そのままに受け入れていてくださるということです。神様の言うことを、ちゃんと聞いているから、ちゃんと守っているからということではありません。社会の役に立っているからということでもありません。心が美しいからということでもありません。そうではなくて、小さな私たち一人一人を、怒りや憎しみに囚われたりしている私たち一人一人を、誰の役にも立っていないかも知れない私たち一人一人を、神様は、そのままに受け入れていてくださるということです。神様は、すべての人を、私たち一人一人を憐れんでいてくださるということです。そして、その神様の憐れみによって受け入れられていることに気づかされる時、すべての人を憐れんでいてくださる神様の奥義に気づかされて、その憐れみによって生かされる時、私たちは謙遜にならざるを得ないということです。

 謙遜というのは、何でしょうか。それは、口先で「自分は愚かだ、自分は何もできない」という態度のことではないでしょう。もちろん、心の底から、「自分は愚かだ、自分は何もできない」と言えば、いいということでもありません。謙遜というのは、単純に、自分を否定することではありません。

 本当の謙遜というのは、イエス様の憐れみの前に立つことから始まります。自分がイエス様の憐れみによって救われた罪人に過ぎないことを知り、認め続けていく所から生まれてきます。それは、単純に自分を否定することではなくて、神様の憐れみに支えられていることを覚えながら、神様の無条件の愛に支えられていることを覚えながら、その神様の愛と憐れみを誇りとして生きていくことそのものです。自分を支えているあらゆるものが砕かれて、神様ご自身に支えられていることを覚えながら、神様をほめたたえて生きることそのものです。自分ではなくて、神様を誇りとして、神様をほめたたえて生きる中で、私たちは本当の謙遜を身に着けていくということです。

 救われて生きる、信仰生活をするというのは、立派な人間になるということではありません。立派とは言わなくても、こんな自分が、こんな風に変わったということでもありません。もちろん、救われた結果として、変わることはあるでしょう。それは、神様から与えられた素晴らしい恵みです。しかし、それは、信仰生活の本質ではありません。信仰生活において、より大切なことは、神様の憐れみを見つめていくことそのものです。

 私たちは、救われたからと言って、必ずしも変わるわけではありません。むしろ、その反対に、救われたにもかかわらず、相変わらずの自分を発見させられることになるのが、私たちの信仰生活ではないでしょうか。変わったと思っていたのに、実は、何も変わっていなかった自分に失望させられることの繰り返しが、私たちの信仰生活ではないでしょうか。しかし、その度に教えられるのが、神様の憐れみなのではないでしょうか。いつまでたっても、神様を信頼できない自分、誰かを愛することのできない自分、自分の価値を見いだすことのできない自分、そんな私たち一人一人を、神様は、憐れんでいてくださり、無条件の愛で受け入れていてくださり、導いていてくださるということです。そして、その神様の御声を聞き続けていくことが、私たちの信仰生活であり、その中から生み出されてくるものが、本当の謙遜です。

 最後の33節以下を見ると、パウロは、とにかく神様を賛美していることが分かります。あれこれと難しい説明を繰り返してきたパウロでしたが、神様の憐れみによる救いの前で、パウロは神様を賛美しています。

 私たちは、神様の憐れみを見失う時、自分自身に囚われてしまいます。そして、神様ではなくて、自分自身を誇ったり、反対に、惨めな自分に絶望したりします。しかし、神様の憐れみの前に立たされる時、私たちは神様を賛美することへと導かれていきます。パウロは、自分自身には絶望することしかできませんでしたが、そんな自分を救い出してくださった神様の憐れみを見つめて、神様を賛美しているということです。

 私たちはどうでしょうか。

 神様の憐れみは、何よりもイエス様の十字架に現されています。

 毎週の礼拝を通して、日々の信仰生活の中で、イエス様の十字架を見上げながら、私たちを憐れんでいてくださる神様の御声を聞き取っていきたいと思います。神様の憐れみに生かされていることを覚えたいと思います。そして、その憐れみ深い神様を賛美して、証しする者でありたいと思います。

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