礼拝説教から 2021年4月25日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙11章11-24節
  • 説教題:神様の慈しみと厳しさを見る

 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。(11-13)

 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしてもあなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(17-22)

 

1.

 ローマ人への手紙9-11章は、ユダヤ人たちの救いにスポットが当てられています。

 ユダヤ人というのは、神様からご自分の民として選ばれた人々です。神様からイスラエルという名前をいただいて、神様と共に生きるために、神様に愛されて生きるために、選ばれた人々です。しかし、そのユダヤ人たちの多くは、神様によって送り遣わされた救い主イエス・キリストを頑なに拒んで、神様の恵みによる救いから漏れていました。パウロは、そのユダヤ人たちのことを、「つまずいた」と表現しています。そして、彼らがつまずいたのは、「倒れるためでしょうか」と問いかけています。「倒れる」というのは、二度と起き上がれないことになる、神様から完全に見捨てられることを意味しています。

 ユダヤ人たちがつまずいたのは倒れるためなのか、パウロは、この問いかけに対して、決してそんなことはないと断言しています。ユダヤ人たちは、神様から見捨てられるために、つまずいたのではないということです。そうではなくて、ユダヤ人たちに妬みを起こさせるためだということです。そして、それをなさったのは、神様だということです。

 パウロは、ユダヤ人たちのつまずき、ユダヤ人たちの背きによって、救いが異邦人に及んだと言っています。異邦人というのは、ユダヤ人から見て、ユダヤ人以外の人々のことです。基本的には外国人という意味になりますが、ユダヤ人たちの言う異邦人とは、単なる外国人ではなくて、神様の民ではない人々ということです。神様の恵みの外にいて、神様の救いから漏れていると思われていた人々です。しかし、その異邦人たちが救われているということです。ユダヤ人たちの背きをきっかけとして、神様から関心も持たれていないと思われていた異邦人たちが、神様の救いの中に招き入れられているということです。ユダヤ人たちが待ち望んでいた神様の救いを、関係のない異邦人たちが手に入れてしまったということです。そして、それは、ユダヤ人たちにとっては、妬むべきことだということです。

 『広辞苑』で「ねたむ」という言葉の意味を調べてみると、「他人のすぐれた点にひけめを感じたり、人に先を越されたりして、うらやみ憎む」と記されていました。

 妬むというのは、決してほめられるべきことではないでしょう。実際に、ローマ人への手紙の中でも、パウロは、してはならないことの一つとして、妬むことを挙げています。しかし、そうであるにもかかわらず、他でもなく、神様ご自身が、ユダヤ人たちに妬みを起こさせておられるのだということです。

 どういうことなのでしょうか。

 ちなみに、『広辞苑』の、「ねたむ」という項目には、「男女の間でやきもちをやく」という意味も記されています。妬むというのは、男女の間においては、やきもちを焼くことでもあるということです。

 実は、旧約聖書を見ると、他でもなく、神様ご自身が、ご自分の名前を「ねたみ」と紹介しておられることが分かります。神様は、ご自分のことを、「ねたむ神」と言っておられるわけです。それは、神様が、ご自分よりも優れた神々を見て、羨ましく思われたということではありません。そうではなくて、ご自分の民であるユダヤ人たちに対して、激しいやきもちを焼かれたということです。

 いつも、礼拝説教の中で、ユダヤ人たちのことを神様の民と言っていますが、それは、神様とユダヤ人たちが夫婦のような関係にあるということを意味しています。そして、夫婦というのは、互いに愛し合う関係ということです。そこには誰も割って入ることができません。神様は、ユダヤ人たちと、その夫婦のような関係を結ばれたということです。神様とユダヤ人たちは、互いに愛し合うことを誓った仲だということです。

 しかし、その神様とユダヤ人たちとの間には、しばしば、邪魔者が入りました。それは、ユダヤ人たちが、神様以外のものを、自分たちの神として拝んだということです。神様を捨てて、偽りの神々を拝んだということです。ユダヤ人たちは、夫である神様に対して、不倫の罪を犯したということです。そして、神様は、その妻であるユダヤ人たちに対して、激しいやきもちを焼かれたということです。

 夫婦という関係において、不倫をしているパートナーに対して、やきもちを焼くというのは、どういうことでしょうか。それは、パートナーを自分の方に振り返らせたいということではないでしょうか。不倫相手の方ではなくて、自分の方を向いてほしいということではないでしょうか。そして、それは、相手を愛しているからこそではないでしょうか。相手を愛しているからこそ、振り返ってほしいと願うのであり、妬むということです。

 神様がユダヤ人たちを妬まれたというのは、彼らを妬むほどに愛されたということです。そして、ユダヤ人たちに妬みを起こさせようとしておられるのは、何とかして、ユダヤ人たちに戻ってきてほしいという神様の切なる願いの現れに他なりません。もちろん、それほどにユダヤ人たちを愛しておられる神様が、彼らを捨てられるということは、考えられません。そして、だからこそ、パウロは、ユダヤ人たちの救いを確信して、その素晴らしさを訴えているわけです。

 私は、神様がユダヤ人たちに妬みを起こさせようとしておられるのを見て、何だかいじらしいなぁということを思いました。神様というのは、とてもいじらしい方だなぁということを思いました。

 神様は、ユダヤ人たちを妬むほどに愛しておられます。そして、その妬むほどの愛は、ユダヤ人たちだけに対してではなく、私たちに対しても同じです。神様は私たち一人一人を、妬むほどに愛していてくださるということです。だからこそ、神様は、ご自分と私たちの間に、何か他のものが入ってくることを、よく思われません。目に見える偶像にしろ、お金や社会的な成功にしろ、自分自身のプライドにしろ、私たちが神様以外のものに目を向けて、神様以外のものに囚われて生きることを、神様はよく思われません。神様は、私たちが神様ご自身の愛に支えられて生きることを願っていてくださるということです。なぜなら、神様の愛に支えられて生きることこそが、私たちの本来の姿であり、私たちの幸せだからです。

 礼拝に集まる私たち一人一人が、神様の妬むほどの愛に気づかされることを願います。かけがえのないご自分の御子イエス・キリストを十字架にかけてまで、私たちを取り戻そうとしてくださっている愛に気づかされることを願います。そして、その愛に気づいて、私たちも神様を愛し、神様に支えられて生きることができることを心から願います。

2.

 パウロはユダヤ人です。ユダヤ人だからこそ、同じユダヤ人たちのことが気になって仕方ありません。しかし、ユダヤ人でない人々にとっては、どうだったでしょうか。もしかしたら、どうでもいいことだったと言えるのかも知れません。

 パウロは、ユダヤ人たちの救いについて語りながら、異邦人たちを見つめていました。あるいは、異邦人たちのために、ユダヤ人たちの救いについて熱心に語っていたと言ってもいいのかも知れません。

 パウロは、イエス様を拒んでいるユダヤ人たちについて、「枝の中のいくつかが折られ」と言っています。そして、異邦人の中からイエス様を信じてクリスチャンになった人々のことを、「野生のオリーブ」と呼んで、枝の間に接ぎ木されたのだと説明しています。異邦人の中からクリスチャンになった人々は、接ぎ木をされた枝であることを弁えておかなければならないということです。だからこそ、元々の枝であるユダヤ人たちに対して、誇ってはならないということです。そして、パウロが、誇ってはならないと言っていることからすると、異邦人の中からクリスチャンになった人々は、ユダヤ人たちに対して誇っていたということになるでしょう。そして、それは、根に支えられている自分たちが、根を支えているかのように錯覚をしていたということを意味しています。

 パウロは、異邦人の中からクリスチャンになった人々について、信仰によって立っていると言っています。そして、「思い上がることなく、むしろ恐れなさい」と戒めています。あるいは、信仰によって立っているからこそ、思い上がってはいけない、恐れなさいと戒めていると言えるのかも知れません。

 信仰によって立つというのは、どんな試練や誘惑があっても、決して倒れることがないような、強い確信や決心を手に入れることではありません。そうではなくて、神様の一方的な恵みによって支えられていることを弁えることです。神様が、罪人の自分を惜しんでくださって、愛される理由のない自分を惜しんでくださって、その神様の一方的な恵みに支えられているからこそ、立っている者であることを弁えることです。だからこそ、決して思い上がることなどはできないということです。むしろ、恐れることになるということです。あるいは、信仰が深まるというのは、神様の豊かな恵みを味わいながら、神様を恐れる者にされていくことと言ってもいいのかも知れません。

 パウロは、神様の慈しみと厳しさを見なさいと言っています。慈しみと厳しさです。私たちは神様をどのように見ているでしょうか。慈しみ深い方でしょうか。あるいは、厳しい方でしょうか。

 パウロは、神様の慈しみと厳しさを同時に見つめています。神様は、慈しみ深い方であり、同時に、厳しい方でもあるということです。そして、神様を恐れるというのは、その神様の慈しみと厳しさを同時に見つめるということです。

 順番が逆になりますが、神様というのは、とても厳しい方です。私たちの罪に対しては、徹底的に厳しく対応をされます。なぁなぁにされることは、決してありません。だからこそ、御子イエス様は十字架にかかられました。イエス様が十字架にかかられたのは、神様の厳しさの現れです。

 しかし、そのイエス様の十字架には、神様の厳しさと同時に、神様の限りない慈しみが現されています。なぜなら、神様は、私たちの罪を、私たち自身に問われたのではないからです。

 もし、私たちが神様から罪を問われたならば、十字架にかからなければならないのは、私たちです。神様の前では、私たちはそれほどの罪人だということです。しかし、神様は、私たちの罪を私たちに問われたのではありません。そうではなくて、私たちの罪を、御子イエス・キリストに問われたということです。イエス様が、私たちの代わりに、私たちの罪の罰を背負ってくださったのであり、ご自分を信じるすべての人に、罪の赦される道を開いてくださったということです。そして、そこに、神様の慈しみがあります。

 パウロが言っているのは、どういうことでしょうか。それは、「切り取られたらどうしよう」ということを心配しながら、ビクビクと震えていなさいということではありません。そうではなくて、神様の慈しみの中に留まりなさいということです。愛される理由のない罪人の私たちのために、御子イエス様を十字架にかけてくださった神様の慈しみと厳しさとを同時に見つめながら、神様から大切にされている喜びに満たされて、その神様の慈しみの中に留まりなさいということです。そして、それが、神様を恐れるということです。

 ユダヤ人たちの多くは、神様の慈しみを拒みながら、神様の厳しさに直面しています。また、パウロの時代に、異邦人の中からクリスチャンになった人々は、そんなユダヤ人たちを見下すようになっていました。私たちはどうでしょうか。

 私たちが、ユダヤ人たちを見下したりすることはないかも知れません。しかし、すぐに思い上がってしまう者です。頑なにイエス様を拒んでいる人々を見て、イエス様に関心すら持たない人々を見て、あるいは、信仰生活をしていても、「ちょっとどうやねん」と思われるような人々を見て、自分もまた、赦された罪人に過ぎないことを忘れて、神様の恵みによって支えられているに過ぎない者であることを忘れて、自分の力で立っているかのように思い上がってしまいやすい者です。

 いつも、イエス様の十字架によって明らかにされた神様の慈しみと厳しさを見つめさせていただきたいと思います。そして、神様の慈しみに留まる者でありたいと思います。神様の慈しみの中に留まりながら、神様に支えられて生きる幸いを喜んで証しする者にならせていただきたいと思います。

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