礼拝説教から 2021年4月18日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙11章1-10節
  • 説教題:神様の完全な恵み

 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(1-6)

 

0.

 ローマ人への手紙9-11章は、ユダヤ人たちの救いにスポットが当てられています。

 ユダヤ人というのは、神様の民として選ばれた人々です。それは、ユダヤ人たちが特別に立派な民族だったということではありません。私たちと同じ罪人です。しかし、神様の愛によって、一方的な恵みとして、ユダヤ人たちは神様から選ばれたということです。ユダヤ人たちは、神様から愛されて、神様との関係の中に生きる、特別な人々でした。

 問題は、そのユダヤ人たちが、神様の愛を拒んでいたということです。神様が、旧約聖書の中で約束してくださっていた救い主イエス様を送ってくださったにもかかわらず、ユダヤ人たちの多くは、そのイエス様を信じ受け入れようとはしませんでした。

 パウロは、そんなユダヤ人たちのことを、旧約聖書の言葉を引用して、「わたしは終日、手を差し伸べた。↩ 不従順で反抗する民に対して」と説明していました。神様は、ご自分の民であるユダヤ人たちに対して、ずっと手を差し伸べていてくださいました。しかし、ユダヤ人たちは、その神様に対して反抗を続けていたということです。

 神様は、反抗を続けるユダヤ人たちを、どうされるでしょうか。それでも愛し続けられるのでしょうか。それとも、見捨てられるのでしょうか。

 今日の本文には、ご自分の民であるユダヤ人たちを決して見捨てない神様の恵みが描かれていると言えるでしょう。

1.

 パウロは、神様がご自分の民であるユダヤ人たちを退けられたのかと問いかけて、決してそんなことはないと断言しています。そして、その根拠のようなこととして、自分もまた、イスラエル人であり、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の出身だということを言っています。神様がご自分の民であるユダヤ人たちを退けておられない根拠は、パウロ自身にあるということです。

 イスラエルというのは、神様がご自分の民であるユダヤ人たちに与えられた名前です。イスラエル人というのは、神様の民ということです。アブラハムは、そのイスラエル人たちの偉大な先祖であり、ベニヤミン族というのは、イスラエルの部族の一つです。あるいは、イスラエルを代表するような部族と言ってもいいでしょうか。そして、パウロは、自分がそのイスラエル人であり、アブラハムの子孫であり、しかも、ベニヤミン族の出身だということです。

 パウロは何を言っているのでしょうか。神様に選ばれた民の中でも、名門と言ってもいいような自分の家系を自慢しているのでしょうか。もちろん、そうではないでしょう。パウロは、自分がイスラエル人であり、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の出身だという事実を、人々に思い起こさせているということです。そして、その自分が、イエス様を信じて救われているのだということです。イスラエルを代表するような自分が、イエス様を信じて救われているのであるならば、神様がご自分の民であるイスラエルを、ユダヤ人たちを退けられたというのは、あり得ないではないかということです。神様が、ユダヤ人の一人であり、ユダヤ人を代表するような自分を救ってくださったのであるならば、ユダヤ人全体を退けられたということは、あり得ないということです。

 ちなみに、パウロは、ユダヤ人たちの中でも、ファリサイ派と呼ばれるグループの一人でした。ファリサイ派というのは、神様の言葉である律法を厳格に守ろうとしていた人々です。律法を熱心に行って、神様から認められて救われることを目指していました。そして、そのファリサイ派のパウロこそが、誰よりも熱心に、クリスチャンたちを迫害していました。なぜなら、「イエス様を信じることで、神様から認められて救われる」などというクリスチャンたちの主張は、パウロにとっては、決して認められないことだったからです。自分の正しい行いによって神様から認められることを目指していたパウロにとって、イエス様を信じて救われるなどということは、あり得ないことだったからです。

 しかし、そのパウロが、イエス・キリストと出会って、クリスチャンになったということです。クリスチャンたちを迫害していて、「こいつは絶対にクリスチャンになんかなりっこない」と思われていたパウロが、クリスチャンになったということです。イエス様を信じて救われたということです。そして、パウロは、その自分の存在を根拠として、自分の同胞であるユダヤ人たちが、神様から退けられたのではないと断言しているということです。「自分を見なさい、ユダヤ人の一人である自分が救われているじゃないか、クリスチャンたちを熱心に迫害していた自分が救われているじゃないか。だったら、他のユダヤ人たちが退けられているということは、あり得ないじゃないか」ということです。「神様が、こんな自分を救ってくださったのなら、他のユダヤ人たちも救い出してくださるはずじゃないのか」ということです。

 私たちは自分のことをどのように見ているでしょうか。「こんな自分が救われるなんて、神様は何て恵み深い方なんだ」と思っているでしょうか。その反対に、「真面目な所もあるし、良いこともいっぱいしてるし、宗教に関心もあったし、まあ、救われやすかったんかなぁ」と思っているでしょうか。

 「こんな自分が救われるなんて」という所からスタートするなら、他の人々も必ず救われるという確信を持つことができるのではないでしょうか。こんな自分をも救ってくださった神様の深い恵みを覚えるなら、神様はその恵みを他の人々にも必ず注いでくださることを信じることができるのではないでしょうか。

 反対に、「自分は救われやすい人間だった」という所からスタートすると、もしかしたら、周りの人々を見下すことにつながってしまったりもするかも知れません。「あいつは頑固や、こいつはお金のことばっかり考えとる、あそのこの誰々さんは地域の縛りがきつい、あの連中が救われるのは、天地がひっくりかえらんかぎりは、あり得へんなぁ」などと、思ったりすることはないでしょうか。

 日本というは、クリスチャンの人口がとても少ない国です。プロテスタントの宣教が始まって150年ほどになりますが、クリスチャンの人数は、日本の全人口の1パーセントにもなりません。もちろん、それは、教会が伝道をしてこなかったからではありません。教会は熱心に伝道をしてきました。そうであるにもかかわらず、日本では、救われてクリスチャンになる人が、思うように増えなかったわけです。むしろ、高齢化と共に、ますます少なくなっているかのような状況でもあるほどです。

 これは、どういうことなのでしょうか。私たちは神様から愛されていないということなのでしょうか。神様から見捨てられているということなのでしょうか。

 決してそうではありません。なぜなら、ここに集まっている私たちもまた、神様から愛されて救われているからです。こんな自分を愛してくださっている神様が、他の人々を見捨てられたなどということは、あり得ないということです。

 今日の本文の2節以降の所で、パウロは、エリヤという旧約聖書の時代の預言者を紹介しています。預言者というのは、未来の出来事を予想する人ではなくて、神様の言葉を預かって、人々に伝える人ということです。

 エリヤの時代、イスラエル王国は南北に分かれていました。エリヤは北側の王国で活躍する預言者でした。そして、その北側の王国では、バアルという神が熱心に拝まれていました。ユダヤ人たちは、天地を造られた真の神様だけを礼拝する民のはずでしたが、外国から持ち込まれた偽物の神を熱心に拝んでいたということです。しかも、そのバアルを持ち込んだのは、王様の夫婦でした。そして、王様夫婦が持ち込んだバアルを拝まないというのは、命が危険にさらされることを意味していました。

 エリヤは、神様に仕える預言者たちが殺されたと訴えています。神様を礼拝するための祭壇も壊されたと訴えています。自分だけが残ったと訴えています。しかも、命を狙われているということです。

 しかし、そのエリヤに神様が言われたことは、何でしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」

 神様は、男子七千人を残していると言われました。その七千人というのは、バアルに膝をかがめなかった人々です。たくさんの人々が、バアルに膝をかがめましたが、神様は、バアルに膝をかがめない男子七千人を残しておかれたということです。

 男子七千人というのは、どうでしょうか。多いでしょうか。少ないでしょうか。

 ちなみに、七千というのは、完全数と言われています。七千人という数字によって表現されているのは、人数が多いとか少ないとかということではありません。そうではなくて、完全だということです。そして、何が完全かと言えば、それは、神様の恵みです。神様の恵みが、残された七千人を通して、完全に示されているということです。ご自分の民を愛する神様の恵みは、残された七千人を通して、完全に示されているということです。そして、その残された七千人を通して、神様はご自分の救いの御業を続けておられるということです。もちろん、そこにはエリヤ自身も含まれていると言えるでしょう。

 パウロは、エリヤの時代の七千人を前提として、「同じように今この時にも」、残された人々がいると説明しています。そして、残された人々というのは、「恵みの選びによって」だと言っています。それは、エリヤの時代の七千人と同じだということです。

 エリヤの時代の七千人は、バアルに膝をかがめませんでした。膝をかがめなかったと言えば、それは、彼らが命がけで信仰を守ったかのような印象を受けるかも知れません。そうであるならば、それは、立派な信仰の行いということになるでしょう。

 しかし、神様が、その七千人について、強調しておられるのは、どういうことでしょうか。それは、神様ご自身が七千人を残されたということではないでしょうか。七千人がバアルに膝をかがめなかったのは、彼らが立派な信仰を持っていたということではなくて、神様が残されたのだということです。そして、それは、神様の恵みによる選びということです。立派な信仰の行いではなくて、神様の恵みによる選びだということです。七千人は、神様がご自分の一方的な恵みによって選ばれていたからこそ、残されたのだということです。パウロは、その七千人の信仰を守られた神様の完全な恵みを見つめていたということです。そして、その残された人々が、パウロの時代にもいるということです。それは、パウロ自身であり、イエス・キリストの十字架の死と復活によって明らかにされた、神様の完全な恵みによって救われた人々の集まりです。そこには、ユダヤ人もいれば、ユダヤ人以外の人々もいました。あるいは、現在の私たちも含まれていると言ってもいいのかも知れません。そして、いずれにしろ、パウロは、その残された人々の存在を覚えながら、残された人々に注がれている神様の完全な恵みを見つめながら、ユダヤ人たちのために、世界中の人々のために祈っているということです。それは、絶望の祈りではありません。大きな期待の込められた祈りであり、より積極的な言い方をするならば、確信に満ちた祈りです。

 私たちは小さな集まりです。取るに足らない集まりです。何の力もありません。しかし、その小さな集まりに注がれた神様の恵みは、完全です。不十分なものではありません。完全なものです。神様は、完全な恵みによって、私たちを支えていてくださるということです。そして、その私たちを用いていてくださるということです。小さな私たちを通して、世界中の人々がご自分の恵みに与ることを願っておられるということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、私たちが大きくなることではありません。大きなことをすることでもないでしょう。そうではなくて、私たち自身が、神様の完全な恵みの現れであることを、確信することです。小さな私たち自身が、神様の完全な恵みの現れであり、その私たちを用いて、神様が救いの御業を進めておられることを確信することです。そして、その神様の完全な恵みに押し出されて、祈りながら、イエス様を伝えていくことです。イエス様こそが、私たちの主であることを証言していくことです。

 イエス様の十字架の死と復活を見つめながら、イエス様を信じ救われた私たちの存在そのものが、神様の完全な恵みの現れであることを確信したいと思います。そして、その恵みの故に、喜びに満たされて、イエス様を分かち合っていく者でありたいと思います。

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