礼拝説教から 2021年4月11日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙10章14-21節
  • 説教題:信仰は聞くことから

 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。↩ 「なんと美しいことか、↩ 良い知らせを伝える人たちの足は」↩ と書いてあるようにです。(14-15)

 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(17)

 

 三週間ぶりにローマ人への手紙に戻ってきました。前回の最後に、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」という言葉を分かち合いました。

 主というのは、イエス様のことです。呼び求めるというのは、イエス様が自分の主であることを口で告白することです。イエス様が十字架の上で死んで復活してくださったのは、自分の罪が赦されるためであり、自分がイエス様の命をいただいて新しく生きるためだったということを信じて、そのイエス様こそが自分の主であることを告白することです。私たちが救われるために必要なことは、他でもなく、イエス様を救い主としてお迎えすることだけだと言えるでしょう。そして、それは、逆に言うと、他のことは何も問われないということです。

 社会の中ではどうでしょうか。お金や権力があれば、多くの人が寄ってくるでしょうか。格好よければ、かわいければ、人気者になることができるでしょうか。勉強がよくできて、言うことをよく聞くならば、親や学校の先生からは認めてもらうことができるでしょうか。反対に、他人に迷惑をかけてばかりいれば、社会の役に立たなければ、邪魔者扱いをされてしまうこともあるでしょうか。

 しかし、イエス様は違うということです。イエス様は、すべての人を愛していてくださり、そのままに受け入れていてくださるということです。無条件の愛で、私たち一人一人を招いていてくださるということです。そして、そのイエス様の愛に気づいて、イエス様の愛を受け入れて、イエス様を自分の主と告白して、イエス様に従って生きることが、イエス様に支えられて生きることが、私たちの救いです。私たちが救われるために必要なことは、イエス様を自分の主として呼び求めること以外にはないということです。

 パウロは、その呼び求めるために必要なことを説明しています。それは、呼び求めるためには、信じる必要があり、信じるためには、聞かなければならない、聞くためには、宣べ伝える人がいなければならない、宣べ伝えるためには、神様から遣わされなければならないということを言っています。逆に言うと、神様から遣わされて、宣べ伝えることができるのであり、宣べ伝える人がいて、聞くことができるのであり、聞くことができて、信じることができるのであり、信じることができて、呼び求めるのだということです。そして、パウロが言っているのは、実際に、神様が宣べ伝える人を遣わしてくださっているのだということです。私たちは、聞くことができないのではなくて、聞くことができるのだということです。

 パウロは、信仰について、聞くことから始まると説明しています。信仰は聞くことから始まります。大切なことは、聞くことだということです。

 聞くというのは、どういうことでしょうか。それは、何よりも、自分が黙らなければならないということではないでしょうか。自分が話していては、聞くことができないということです。聞くためには、自分が黙らなければならないということです。そして、それは、決して簡単なことではありません。

 二十歳ぐらいだったでしょうか。今もそうですが、私は話すことが苦手でした。しかし、そんな私に対して、ある方が、「お前は話し上手や」と言ってくださいました。「えっ、何で?」と思いましたが、その方の説明によると、私は相手の話をよく聞いているからだということでした。そして、「話し上手は聞き上手」だと言われました。

 その後の人生を振り返ってみると、実際には、上手に聞けたことよりも、上手に聞けなかったことの方が多かったなぁということを思います。ちゃんと聞くことができなくて、失敗したことばかりが思い出されます。そして、それは、人と人との関係においてだけではありません。神様との関係においても、聞くことに失敗し続けてきたのではないかということを思います。

 今から二十年近く前、私は、教会に導かれて、信仰を持つようになると、熱心に礼拝の説教を聞くようになりました。それだけではなくて、自分でも熱心に聖書を読みました。たくさんの聖書の言葉を暗記しました。信仰生活に関する本も熱心に読みました。私は、とても貪欲に聖書の言葉を吸収しようとしていました。それは、神様のことがもっと知りたいと思ったからであり、神様との親密な交わりを持ちたいと思ったからです。

 しかし、いつの間にか、私は、礼拝の説教をちゃんと聞くことができなくなっていたように思います。居眠りをしていたわけではありません。隣の人としゃべっていたわけでもありません。じっと黙って聞いていたわけです。

 しかし、頭の中では、決して黙ってはいなかったように思います。すでに知っている話が続くと、「はいはい、そんなことは、もう分かってます」、自分の知識や考えと違うことが語られると、「今の解釈はどうなんやろう、誰々牧師の本ではこう書いてあったけどなぁ」、反対に、自分の考えに合うことが語られると、「そうそう、よう言うてくれはった」と思うようになっていました。つまり、説教を聞きながら、頭の中では、まったく黙っていなかったということです。「そうや、そうやない」ということを、一生懸命に訴えていたということです。そして、結果として、聞いていなかったということです。

 もちろん、牧師の説教にも良し悪しはあるでしょう。牧師の言うことがすべて正しいというわけではないでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、大切なことは、神様が牧師の説教の良し悪しを越えて、語っていてくださるということです。

 牧師なりに、その日の説教についてあれこれと考えます。「良かった、悪かった」と考えます。しかし、不思議なことに、聞いておられる方々の受け取り方は、牧師の感覚とは必ずしも一致しません。「今日はあかんかったなぁ」と思うその説教を聞いて恵まれている方々は、いくらでもおられるわけです。なぜなら、神様がそこに働いていてくださるからです。神様が直接的に語りかけていてくださるからです。

 繰り返しになりますが、聞くというのは、自分が黙ることです自分が主導権を持つことを止めて、相手に主導権を明け渡すことです。礼拝においては、神様に主導権を明け渡すことだと言えるでしょう。

 パウロが、ローマ人への手紙での中で直接的に問題にしているのは、ユダヤ人です。ユダヤ人というのは、神様からご自分の民として選ばれた人々です。神様の言葉である律法を受け取って、神様の民として生きるために選ばれた人々です。そして、その律法によって指し示された救い主であるイエス様が来られた時には、真っ先にイエス様を信じてもよかったはずの人々です。そうであるにもかかわらず、ユダヤ人の多くは、イエス様を信じ受け入れることができませんでした。それは、ユダヤ人たちが、イエス様について、イエス様が十字架の死と復活によって成し遂げられたことについて、聞かなかったからではありません。そうではなくて、聞いたにもかかわらず、信じることができなかったということです。

 パウロは、「信仰は聞くことから始まります」と言いながら、その信仰については、「キリストについてのことばを通して実現する」と言っています。ちょっとややこしい表現ですが、要するに、信じるために聞かなければならないのは、キリスト・イエスについての言葉だということです。イエス様についての言葉を聞くことによって、私たちは信じるのだということです。

 ちなみに、私たちの持っている新改訳2017では、「キリストについてのことば」の所には米印がついています。米印がついているというのは、「ちょっと考えてほしい」ということです。

 「キリストについてのことば」というのは、どういうことでしょうか。それは、キリストであるイエス様を紹介する言葉ということになるでしょう。イエス様というのは、どういう方であるのか、イエス様はどういうことをしてくださったのか、イエス様がしてくださったことにはどういう意味があるのか、イエス様についての説明です。そして、それは、教会では、「良い知らせ」、「福音」と呼ばれます。イエス様によってもたらされた救いに関する良い知らせです。

 しかし、米印の説明を参考にすると、「キリストについてのことば」というのは、「キリストのことば」と訳すこともできるようです。そして、「キリストのことば」と理解する時、それは、イエス様ご自身が語られた言葉という意味にもなってくるでしょう。

 イエス様を信じる、それは、イエス様について聞くことから始まります。しかしただ単に、一つの説明として、イエス様のことを聞くことではありません。そうであるならば、貴重な時間を割いて、毎週日曜日の礼拝に集まって、つまらない説教を聞くというようなことは、必要ないわけです。イエス様について書かれた本を少し読めば、十分に分かるわけです。

 イエス様について聞くというのは、イエス様を紹介する言葉を聞くことであると同時に、イエス様ご自身の言葉を聞くことでもあります。イエス様からの語りかけを聞くことでもあります。そして、それは、イエス様についての言葉を、単なる説明として聞くことではなくて、自分自身に向けられたメッセージとして聞くことです。イエス様が十字架にかかって、死んで復活されたのは、「私」の罪が赦されるためであり、「私」がそのイエス様の命をいただいて生きるためであり、「私」を愛してくださったからであることに気づかされることです。イエス様について聞くというのは、イエス様の語りかけを聞くことであり、それは、イエス様と交わりを持つことです。そして、その語りかけを聞くためには、私たちが黙らなければなりません。私たちが黙る時、私たちはイエス様の語りかけを聞き取ることができます。他でもなく、自分自身に向けられたイエス様の言葉を聞き取ることができます。そして、聞いた上で、祈りや賛美によって応えるということです。

 ユダヤ人たちは、神様の言葉である律法を受け取って、よく学んでいました。そして、神様に「これもやっています、あれも守っています」と訴えていました。ユダヤ人たちは、自分たちが神様に語りかけることに必死だったと言ってもいいでしょう。しかし、だからこそと言えるでしょうか。ユダヤ人たちは、反対に、神様からの語りかけを聞くことができませんでした。罪人の自分たちを無条件に愛していてくださる御子イエス様の語りかけを聞くことができませんでした。

 繰り返しになりますが、信仰は聞くことから始まります。そして、聞くことが、イエス様と交わりを持つことであるならば、聞くことの大切さは、最初にイエス様を信じる時だけのことではなくて、信仰生活の最初から最後まで、決して変わることがありません。聞くことは、私たちの信仰生活において、本質的なことだということです。あるいは、信仰の成長というのは、よりしっかり聞く者になることと言ってもいいのかも知れません。そして、良い聞き手となることは、良い話し手、良い語り手となることにもつながります。なぜなら、話し上手は聞き上手だからです。

 私たちが聞いて信じる者となったのは、宣べ伝える人がいたからです。神様によって遣わされた人が、宣べ伝えてくれたからです。そして、それは、パウロのような、特別な人だけではありません。現在であれば、牧師や宣教師のような人だけではありません。イエス様を信じる一人一人が、宣べ伝える者として、神様ご自身によって遣わされているということです。

 神様の前で必死に訴える者となる時、私たちは神様からの語りかけを聞くことができなくなります。しかし、神様の前で静まる時、私たちは神様からの語りかけを聞くことができます。イエス様の十字架の死と復活によって明らかにされた神様の愛の言葉を、自分に向けられた言葉として、聞くことができます。そして、その愛に満たされて喜び感謝する者となる時、私たちは、良い語り手として、神様から遣わされていくことになります。

 それは、必ずしも、私たちが上手に話をするということではないかも知れません。上手く話せなかったり、場合によっては、まったく話すことができないということもあるかも知れません。しかし、神様の言葉をよく聞いて、その愛の言葉に満たされて生きているならば、神様ご自身が、私たちの歩みそのものを通して、語りかけてくださいます。私たちの拙い言葉を用いて、あるいは、言葉にならない言葉を用いて、神様ご自身が語りかけてくださいます。大切なことは、私たちが神様の言葉を静かに聞き続けていくことであり、神様の愛に満たされて喜び感謝することです。そして、その私たちを、神様ご自身が、宣べ伝える者として遣わしてくださっていることを確信することです。

 私たちはどうでしょうか。神様の前で静かに聞く者となっているでしょうか。神様の前で語ることに必死になっているでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、日々の歩みの中で、静かに神様の言葉を聞く者にならせていただきたいと思います。そして、神様の愛に満たされて喜び感謝しながら、良い語り手として、宣べ伝える者として、神様ご自身によって遣わされていきたいと思います。

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