礼拝説教から 2021年4月4日

  • 聖書個所:ヨハネの福音書20章24-29節
  • 説教題:見ないで信じる

 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 

0.はじめに

 今日はイースターです。イースターというのは、主イエス様の復活を記念して喜び祝う日です。

 日本社会では、キリスト教の行事と言えば、クリスマスをイメージすることが多いかも知れません。そして、広く一般に認められているだけあって、クリスマスというのは、教会においても、大切な時です。しかし、そのクリスマス以上に、教会の歴史の中で大切に考えられてきたのは、イースターだと言えるでしょう。

 最近でこそ、日本社会でも、イースターという名前が広く知られるようになってきましたが、教会は、その始まりの時から、イエス様の復活を記念するイースターを、一年間の歩みの中で、最も大事なことと考えてきました。なぜなら、教会が毎週の日曜日を「主の日」と呼び、その主の日に集まって礼拝をしてきたのは、主イエス様の復活を記念して喜び祝うためだったからです。教会は、主イエス様の復活を記念して喜び祝うために、毎週日曜日の礼拝に集まってきたということです。そして、そのことは、イエス様の復活が、主の日の礼拝の根拠となっていること、主の日の礼拝から始まる私たちの信仰生活のすべてを根本的に支えるものであることを意味しています。

 今日は、そのイースターの礼拝の中で、召天者の方々、先に天に召された方々を記念して感謝する時を持ちたいと思っています。

 召天者の方々を記念するというのは、召天者の方々のために、冥福を祈ることではありません。召天者の方々の天国行きを、より確かなものにするということではありません。なぜなら、召天者の方々は、すでに天において確かな幸いを得ておられるからです。すでに天において確かな幸いを得ておられる召天者の方々のために、私たちが追加でしなければならないことは、何もないわけです。むしろ、召天者の方々を覚えるというのは、その召天者の方々に与えられた神様の恵みを見つめることだと言えるでしょう。そして、なおも地上の生涯を歩む私たちにもまた、同じ神様の恵みが注がれていることを確信して、天国への確かな希望をいただいて、地上の生涯の終わりに備えていくことです。

1.

 イエス様には十二人の弟子たちがいました。イエス様に招かれて弟子となった十二人は、いつもイエス様と一緒に行動をしていました。イエス様と一緒に起きて、ごはんを食べて、歩いて、寝て、旅をしました。そして、イエス様がどういう方であるかを見てきました。しかし、最終的には、その中の一人であるユダがイエス様を裏切り、イエス様が十字架にかけられることになると、残りの十一人もイエス様を見捨てて逃げてしまいました。

 その十二弟子の中の一人であるトマスは、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」と記されています。イエス様が来られたというのは、週の初めの日である日曜日に復活されたイエス様が、弟子たちの中に姿を現された出来事のことです。

 弟子たちは、自分たちがイエス様の仲間だったことから、イエス様を十字架の刑に追いやった他のユダヤ人たちを恐れていたようです。ドアに鍵をかけて集まっていました。そして、鍵がかけられて、入ることのできない部屋の中に、弟子たちの真ん中に、イエス様は姿を現されました。そして、「平安があなたがたにあるように」と言いながら、傷ついた手と脇腹を弟子たちに示してくださいました。

 イエス様の復活、それは、弟子たちが勝手に言いだしたことではありません。弟子たちが、自分たちを慰めるために、人々を集めるために、思いつきで言いだしたことではありません。そうではなくて、復活したイエス様が、弟子たちの前に現れてくださったということです。イエス様の復活など、夢にも思っていなかった弟子たちの前に、復活したイエス様が現れてくださって、十字架の刑によって傷ついた手や脇腹を見せてくださったということです。そして、その事実に基づいて、弟子たちは、イエス様の復活を語り始めたということです。しかし、トマスは、その大事な場面に、立ち会うことのできませんでした。

 トマスはどうして他の弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。たまたまでしょうか。完全に諦めて、他の弟子たちと別行動を取っていたのでしょうか。正確なことは分かりませんが、トマスに対して、他の弟子たちは、自分たちが主イエス様を見たと証言しました。しかし、トマスは、自分で見て触って確認しなければ、絶対に信じないと言いました。

 十字架にかけられて死んだ人間が、三日目に復活するというのは、私たち人間の常識ではあり得ないことです。そして、それは、科学の発達した現在の日本に生きる私たちにとってだけではありません。昔の人ならば、馬鹿げたことも信じられたということではありません。そうではなくて、昔の人々であろうと、現在の私たちであろうと、復活というのは、人間の理解や常識を越えた出来事だということです。

 イエス様は、改めて、弟子たちの前に現れてくださいました。「八日後」というのは、一週間後の日曜日です。弟子たちは、再びドアに鍵をかけて、家の中に閉じこもっていました。今度はトマスもいました。イエス様はその弟子たちの真ん中に現れてくださいました。そして、同じように、弟子たちの平安を祈り求めながら、トマスに言われました。「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエス様は、ご自分の復活を信じないトマスに対して、目で見て手で触ることを許した上で、信じない者ではなくて、信じる者になりなさいと言われました。

 トマスは、イエス様の手に自分の指を当てたでしょうか。イエス様の脇腹に自分の手を入れたでしょうか。何も記されていないことからすると、目の前のイエス様を見ただけで、十分だったと言えるのかも知れません。トマスは、イエス様に対して、「私の主、私の神よ」と言いました。トマスもまた、復活したイエス様を見て、イエス様こそが、自分の主であり、自分の神様であることを告白することになりました。

 トマスは、イエス様を見て、イエス様のことを、自分の主であり、自分の神様であることを告白しました。

 どうでしょうか。何気ないことかも知れませんが、トマスは、どうして、イエス様を見て、それがイエス様だと分かったのでしょうか。それは、復活したイエス様には、体があったからではないでしょうか。十字架の刑によって傷ついた体があったからではないでしょうか。弟子たちは、復活したイエス様の体を見て、イエス様がイエス様であることを確認することができたということです。

 私たちは、毎週の礼拝で、使徒信条によって、信仰を告白します。そして、その使徒信条の中で、永遠の命と共に、体のよみがえりを信じると告白します。永遠の命が約束されていることを信じれば、それでいいじゃないかということではありません。その前に、わざわざ体のよみがえりが約束されていることを信じると告白するのです。

 永遠の命を生きるというのは、どういうことでしょうか。それは、体はないけれども、魂は生きているというようなことではありません。体のない魂が、どこかを漂って生きるということではありません。そうではなくて、永遠の命というのは、体があってこそのものだということです。私たちは、体があるからこそ、「私」が「私」として生きるのだということです。私たちは、体があるからこそ、体のある互いに気づき、様々な関係を育んで生きるのだということです。そして、それは、神様が与えてくださった祝福です。

 死というは、私たちの体を破壊します。そして、体を用いて育まれてきた関係を破壊します。私たちは、死によって、体が破壊され、その体によって育まれてきた関係から引き離されます。それは、どのような麗しい関係も例外ではありません。私たちは、死ぬ時に、あらゆる関係から引き離されて、一人の人に戻るということです。そして、だからこそ、死は恐ろしいものであり、悲しいものでもあるということです。

 しかし、イエス様の復活によって成し遂げられたことは、何でしょうか。それは、イエス様が死に対して完全な勝利を収めてくださったということです。死の支配からの解放をもたらして、永遠の命を約束してくださっているということです。そして、それだけでなはなくて、死によって引き離されたかに見えた関係の回復を約束してくださっているということです。私たちは、弟子たちがイエス様と再会することができたように、復活の時に再会することのできる希望が与えられているということです。死んですべてが終わるのではなくて、イエス様の下で、生きて再び出会うことのできる希望が与えられているということです。そして、それは、イエス様の復活によって実現の道が開かれたことであり、私たちは信仰によってその希望をいただくことができるということです。

 復活したイエス様は、十二弟子の前に現れてくださいました。トマスの前に現れてくださいました。そして、だからこそ、彼らは、イエス様の復活を信じることができました。イエス様が、真の神様でありながら、真の人となって、自分たちの罪が赦されるために、自分たちの代わりに、十字架にかかって死んでくださったこと、復活してくださったことを信じることができました。彼らは、イエス様を見たからこそ、信じることができました。

 しかし、イエス様がトマスに言われたことは、何でしょうか。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

復活したイエス様は、四十日の間、弟子たちと共におられました。そして、弟子たちの見ている前で、天に昇って行かれました。弟子たちの目で見ることのできない所に行かれました。そして、それは、現在の私たちにとっても同じです。

 私たちはイエス様を見ることができません。しかし、イエス様と共に生きた人々の確かな証言を聞いています。復活したイエス様を見た人々の確かな証言を聞いています。そして、その確かな証言によって、私たちには、イエス様を見ないで信じる道が開かれています。あるいは、見えないからこそ、信じると言った方がいいのかも知れません。信じるというのは、そもそもが、見て触って確認したことを土台とするものではないということです。私たちは、見えないからこそ、信じるのであり、イエス様はその私たちに対して、幸いだと言ってくださっているということです。イエス様は、見ないで信じる現在の私たちを祝福していてくださるのであり、その信仰へと私たちを招いていてくださるということです。

 私たちが、先に天にお送りした召天者の方々は、その見ないで信じる幸いな人生を生きられました。

 愛する方々を天にお送りすることは、残された私たちにとっては、辛く悲しいことです。しかし、イエス様の復活を信じるからこそ、先に天に帰られた召天者の方々が、天において確かな幸いを得ておられることを確信することができます。そして、それだけではなくて、イエス様がもう一度戻って来てくださる時には、復活の体をいただいて、再会を喜ぶことができます。

 私たちは死を避けることができません。死によって、私たちは、体が破壊され、愛する関係の中から引き離されます。しかし、イエス様の復活によって、私たちは、その死を乗り越えていくことができます。死がすべての終わりではなくて、死によって、愛する関係が永遠に断ち切られるのではなくて、イエス様の復活を土台として、私たちもまた、復活の体をいただいて、互いに愛し合う関係の中で、永遠の命に生きることができます。

 イースターの今日、召天者の方々を覚えながら、私たちに約束されている祝福を喜びたいと思います。そして、イエス様の招きに応じて、イエス様を信じて、約束されている祝福を喜びながら、地上での残された歩みが支えられることを願います。

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