礼拝説教から 2021年3月28日

  • 聖書個所:ヨハネの福音書12章27-36節
  • 説教題:天からの声を聞く

 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。(27-33)

 

 今日は、教会暦という教会独自のカレンダーでは、「棕櫚の主日」と呼ばれています。イエス様がエルサレムの町に入られる時、イエス様を追いかけていた人々は、棕櫚の木を振り上げながら、イエス様を迎えました。棕櫚の主日は、そのイエス様のエルサレム入城の出来事を記念する日であり、棕櫚の主日から受難週が始まります。エルサレムに入られたイエス様が、十字架へと向かわれた最後の日々です。イエス様は、金曜日に十字架にかかり、その日没前に息を引き取られました。

 来週の日曜日はイエス様の復活を記念するイースターですが、受難週はイエス様の十字架の死を覚えながら、イースターを迎える準備の時になります。

1.

 エルサレムに入られたイエス様を、「群衆」と呼ばれるたくさんの人々は、大騒ぎをして出迎えました。まさに王様の入城です。しかし、その大喜びで出迎えられたイエス様は、静かに十字架へと向かっておられます。ただし、心の中は騒いでいるようです。それは、イエス様が、たくさんの人々に持ち上げられて浮かれていたということではありません。反対に、父なる神様に対して、「この時からわたしをお救いください」と願い求めたい気持ちでおられたということです。イエス様は、十字架にかかるのを、何とかして避けることはできないものかと思われていたということです。

 イエス様は神の子です。真の神様です。そのイエス様が私たちの世界に生まれてくださったのは、十字架にかかるためですが、死んだ後には復活することも知っておられたことでしょう。そして、そうであるなら、私たちは、もしかしたら、「どうせ復活することが分かっているなら、そんなに思い悩むこともないじゃないか」とでも、思ってしまうかも知れません。しかし、実際には、十字架にかかって死ぬことは、イエス様にとっても普通のことではありませんでした。できることなら、避けたいことでした。

 しかし、イエス様は、ご自分が十字架にかかるためにこそ生きてきた使命を覚えながら、「御名の栄光を現してください」と願い求められました。それは、罪人の私たちが救われるためでした。イエス様は、私たちの救いのために、十字架に向かってくださったということです。

 父なる神様は、そのイエス様の祈りに対して、「すでに栄光を現した」、「再び栄光を現そう」と答えられました。「すでに栄光を現した」というのは、神様の栄光が、それまでのイエス様の歩みを通して現されていたということになるでしょうか。そして、「再び栄光を現そう」というのは、何よりもイエス様の十字架の死と復活、そして、昇天を示しているでしょう。

 復活や昇天は、まさに栄光という感じがするかも知れませんが、十字架の死は、栄光という言葉とは似つかわしくありません。しかし、その十字架の死こそが、神様の栄光だということです。神様は、御子イエス様の十字架の死を通して、ご自分の栄光を現されるということです。なぜなら、その十字架の死にこそ、神様の本質が現れているからです。神様が愛なる方であり、その愛の故に、私たちを救おうとしていてくださる神様の本質が、十字架の上で明らかにされるからです。

 イエス様の側には、たくさんの人々が立っていて、イエス様と一緒に、神様の答え、天からの声を聞いていました。そして、その天からの声を聞いた人々は、「雷が鳴ったのだ」とか、「御使いがあの方に話しかけたのだ」などと、言っています。

 ちなみに、今日の本文には、イエス様の祈りに対する神様の答えが、天からの声と表現されています。天からの言葉ではありません。天からの声です。

 私たちは生活の中で様々な声を聞いています。鳥や虫の鳴き声を聞くことがあるでしょうか。子どもたちが遊ぶ声を聞くことがあるでしょうか。外国人たちが話す声を聞くことがあるでしょうか。新聞でよく見かけるような読者の意見を、社会の声として聞くことがあるでしょうか。あるいは、具体的な言葉にはならない痛みや悲しみの声があることに気づかされることもあるでしょうか。何か自分のことが言われているような、ヒソヒソ話の声が聞こえてきたりもするでしょうか。自分の内側から、心の声が聞こえてきて仕方がないということもあるでしょうか。そして、いずれにしろ、それらはこの世界の声です。地上の声です。

 しかし、今日の本文の中で、イエス様を取り囲んでいた人々に聞こえてきたのは、どのような声でしょうか。それは天からの声でした。イエス様を取り囲んでいた人々は、地上の声ではなくて、天からの声を聞いたということです。この世界の中からは、決して聞こえてこない、天からの声を聞いたということです。そして、天からの声というのは、他でもなく、神様が語りかけていてくださるということです。

 イエス様は、天からの声が聞こえたことについて、「あなたがた」のためだと言われました。「あなたがた」というのは、イエス様を取り囲んでいた人々のことです。「群衆」と呼ばれる人々のことです。そして、その群衆の中には、現在の私たちも含まれてくるでしょう。神様が語りかけてくださったのは、イエス様を取り囲んでいた人々のためであり、私たち一人一人のためだということです。そして、それは、私たちこそが、その天からの声に耳を傾けなければならないということです。

 群衆と呼ばれる人々は、エルサレムの町に入るイエス様を大喜びで出迎えました。イエス様に大きな期待を寄せていました。イエス様こそが、自分たちを苦しみから救い出してくださる方ではないかと期待していました。しかし、そうであるにもかかわらず、群衆は、最終的にはイエス様を十字架にかけました。イエス様が、自分たちの願うような救い主ではないことに気づくと、イエス様の十字架刑を要求しました。ローマの総督であるポンテオ・ピラトが、イエス様には何の罪を見つけることもできないと判断したにもかかわらず、イエス様を「十字架につけろ」と繰り返して要求しました。そして、それは群衆がイエス様を裁いたということです。イエス様は、ご自分を取り囲んでいた群衆によって、十字架にかけられて裁かれたということです。

 しかし、イエス様が言っておられるのは、どういうことでしょうか。それは、イエス様がこの世界の支配者を裁かれたということです。イエス様こそが、真の支配者だということです。そして、そのイエス様に引き寄せられて、受け入れられて、私たちは救われるのだということです。それが十字架の死と復活の御業であり、そこに神様の栄光が現されているということです。

 群衆が聞いた天からの声、それは、イエス様が私たちの救いのために十字架にかかってくださった出来事の知らせです。イエス様を十字架にかけて裁いた私たちを赦して、罪と死の支配から救い出して、ご自分と共に生きる者に変えてくださるという知らせです。神様の愛の知らせです。十字架によって明らかにされた神様の愛の福音です。

 この世界には様々な声があります。私たちは様々な声に取り囲まれて生きています。しかし、罪人の私たちが救われるために、神様が十字架にかかってくださったという声は、この世界の中からは聞こえてきません。それは、天から聞こえてきます。そして、大切なことは、その天からの声を聞き取ることです。

 群衆と呼ばれる多くの人々は、天からの声を聞きました。しかし、聞き取ることはできなかったようです。

 どうしてでしょうか。それは、彼らがイエス様の十字架を見つめていないからではないでしょうか。自分たちの手で十字架にかけるイエス様こそが、真の神様であり、真の救い主であることに気づいていないからではないでしょうか。自分たちこそが、真の裁き主を十字架にかけて裁くような罪人であることに気づいていないからではないでしょうか。そして、その自分たちの罪を赦していてくださる神様の愛に気づいていないからではないでしょうか。人々は、イエス様が教えてくださった十字架を見つめていなかったからこそ、自分たちの期待に応えてくれる救い主ばかりを追いかけることに必死で、天からの声を聞きながらも、聞き取ることができなかったということです。

 繰り返しになりますが、大切なことは、天からの声を聞き取ることです。神様の声を聞き取ることです。そして、その神様の声を聞き取ることは、イエス様の十字架の前に導かれて、イエス様の十字架の死と復活を見つめる時に、初めて可能になります。イエス様の十字架の前で、イエス様と一対一の出会いを持つ時に、初めて可能になります。逆に言うと、イエス様の十字架の前に導かれることがなければ、イエス様の十字架の死と復活を見つめることができなければ、どれだけ熱心に聖書を読んで学んでも、天からの声は聞き取ることができません。どれだけ熱心に奉仕をしても、私たちを愛していてくださる神様の声を聞き取ることはできません。私たちは、十字架の前に導かれて、イエス様の十字架の死と復活を見つめながら、自分こそがイエス様を十字架につけた張本人であることを認めて、同時に、その罪人の自分が赦されている恵みを受け取って、天からの声を天からの声として聞き取ることができるということです。

 イエス様を取り囲んでいた群衆は、天からの声を聞きました。まるで雷の音のように、天使の語りかけのように、天からの声を聞きました。

 現在の私たちは、イエス様の時代の群衆のような形で、天からの声を聞くことはないでしょう。雷の音を聞きながら、「ちょっと黙っとけ、今、神様が語りかけてくださってるんや」とでも言うならば、それはちょっとおかしいということになるでしょう。何かうっとりとした表情で、天からの声が聞こえるとでも言い出したなら、ちょっと危ないわけです。

 神様は、現在の私たちにも語りかけていてくださいます。それは、第一に、神様の言葉である聖書を通してです。神様は、聖書を通して、私たちに語りかけていてくださるということです。そして、第二に、神様は、その聖書の言葉が取り次がれる礼拝の説教において、私たちに語りかけていてくださいます。私たちは、神様の言葉である聖書を通して、神様の言葉の説教を通して、天からの声に耳を傾けているということです。そして、大切なことは、神様の言葉を通して、イエス様の十字架の前に導かれていくことです。イエス様の十字架の前で、私たちは天からの声をはっきりと聞き取ることができます。

 私たちはどうでしょうか。聖書を読みながら、礼拝説教を聞きながら、天からの声、神様の声に耳を傾けているでしょうか。天からの声を聞いてはいるけれども、この世界の声が気になって、天からの声が聞き取れていないということはないでしょうか。社会の常識、他人の顔、内側からの声、様々な声が大きな雑音となって、天からの声が聞き取れなくなっていることはないでしょうか。

 受難週に入るこの時、改めて、静まって、天からの声、神様からの語りかけをしっかりと聞き取りたいと思います。十字架に向かって行かれるイエス様を見上げながら、イエス様の十字架の前に導かれて、この世界の様々な声から自由になって、天からの声をしっかりと聞き取りたいと思います。イエス様を十字架にかけた罪人の自分を赦して、ありのままに受け入れていてくださる神様の声をしっかりと聞き取りたいと思います。そして、その愛の故に、喜び、神様をほめたたえながら生きる者でありたいと思います。

コメントを残す