礼拝説教から 2021年3月21日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙10章5-13節
  • 説教題:心で信じて、口で告白して

 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。↩ 「この方に信頼する者は、↩ だれも失望させられることがない。」↩ ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。↩ 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」↩ のです。

 

0.

 ユダヤ人たちは、神様に対して、とても熱心な人々でした。そして、それは、ユダヤ人たちが、神様の義を知らなかったからでした。

 義というのは、正しいということです。神様から正しいと認められることです。しかし、それは、私たちが正しい人間になることではありません。私たちが正しい人間になることは、私たちが自分の義を立てることです。

 神様の義というのは、私たちが正しい人間になることではなくて、神様との関係が正しいということです。神様と正しい関係の中にあることが、神様に救われることだと言ってもいいでしょう。そして、その神様の義は、私たちの努力によって獲得するものではなくて、神様から、恵みとして、プレゼントとして、与えられるものだということです。神様は、罪人の私たちを愛するが故に、御子イエス・キリストを信じるすべての人に対して、一方的な恵みとして、義を与えてくださるということです。ご自分との正しい関係の中に招き入れてくださるということです。

 しかし、ユダヤ人たちの多くは、その神様の恵み、神様から義が与えられる恵みについて、知らなかったということです。あるいは、気に入らなくて、受け入れられなかったと言った方がいいでしょうか。逆に、とても頑固になって、熱心に神様の言葉である律法を行うことによって、自分たちの義を立てて、神様から認めてもらおうとしていたわけです。

1.

 パウロは、モーセを通して与えられた律法の中から、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」という言葉を紹介しています。

 「律法の掟を行う人」というのは、律法の掟を行うことによって、自分の義を神様から認めてもらおうとする人のことです。そして、その人は、律法の掟を完全に行うことができるなら、神様に認められて生きることができるということです。しかし、それは、反対に、律法の掟を行うことができないなら、生きることができないということを意味しています。もちろん、聖書全体を見る時、律法を完全に行うことができる人は、誰もいないことが分かります。律法による義というのは、あり得ないということです。

 次に、パウロは、同じ律法の中から、信仰による義について書かれた言葉を紹介しています。何だかよく分からない言葉ですが、パウロが紹介しているのは、元々は、律法について書かれた言葉です。その内容は、簡単に言えば、「律法は、遠く離れた所にあるのではない、すぐ近くにある、だから、行うことができる」ということです。そして、パウロは、その律法について書かれた言葉を紹介しながら、信仰による義について説明しているわけです。

 パウロは、天に上ろうとすることは、キリストを引き降ろすことであり、深みに下ろうとすることは、キリストを死者の中から引き上げることだと言っています。

 皆さんは、天に上ることができますか。深みに下ることができますか。律法を忠実に行って、立派な人間になって、天に上ることができるでしょうか。自分を苦しめることによって、死んで、罪の償いをすることができるでしょうか。できないのではないでしょうか。

 パウロは、「律法が目指すものはキリストです」と言っていました。律法のゴールはキリストだということです。律法に従っていくなら、イエス様に辿り着くということです。

 そして、そのイエス様は、天から私たちの世界に下りて来てくださいました。人間の赤ちゃんとなって、私たちの世界にお生まれになってくださいました。そして、律法のゴールであるイエス様が天から下りて来てくださった以上、私たちは、天に上る必要はないわけです。私たちが天に上ろうとするとするならば、それは、イエス様を強引に引き降ろそうとすることであり、イエス様が、天から下って来てくださった恵みを否定することになるわけです。

 また、イエス様は、十字架にかかって、深みに下られました。深みというのは、死んだ人々の世界です。イエス様は、私たちの罪が赦されるために、私たちの罪を引き受けて、死んでくださいました。そして、同じように、イエス様が深みに下ってくださった以上、私たちが深みに下る必要はないということです。私たちが深みに下ろうとすれば、それは、私たちが、イエス様を死者の中から引き上げようとすることであり、イエス様が、自分の罪のために死んでくださった恵みを否定することに他ならないということです。

 パウロは、律法の言葉、神様の言葉が、私たちの近くにあると言っています。神様の言葉は、私たちの手の届かない所にあるのではなくて、私たちの口にあり、私たちの心にあると言っています。そして、パウロは、信仰の言葉と説明しています。行いではなくて、信仰の言葉です。私たちが、神様から義と認められて救われるために必要なのは、行いではなくて、信仰であり、その信仰の言葉が、私たちの口と心にあるのだということです。

 パウロは、信仰の言葉が、私たちの口にあり、私たちの心にあると言っています。「ある」と言っています。

 「ある」と言うからには、それは、私たちが生み出したのではないということです。私たちが手に入れたのでもないということです。そうではなくて、神様が備えてくださったということです。神様が恵みとして与えてくださったということです。だからこそ、私たちは信じることができるということです。信じることそのものが、神様の恵みだということです。

 私たちは、どうすれば、信じるのでしょうか。決して揺るがされることのない確信を持つことができたら、信じるのでしょうか。立派な人間になって、どこで誰に、「自分はクリスチャンです」と言っても恥ずかしくない、そんな自信を持つことができたら、信じるのでしょうか。そうだとすれば、それは、言葉の上こそ「信じる」ですが、実際には「行い」と何も変わらないのではないでしょうか。

 神様は私たちの口と心に信仰の言葉を備えてくださいました。それは、罪人である私たちの口と心に、信仰の言葉を備えてくださったということです。揺るがされやすい私たちの口と心に、すぐに嘘をついたり、他人に迷惑をかけたりする私たちの口と心に、自分の罪を償うこともできない私たちの口と心に、信仰の言葉を備えてくださったということです。自分の行いによってではなくて、神様の恵みに支えられなければ、生きることのできない私たちの口と心に、信仰の言葉を備えてくださったということです。

 信じるというのは、立派な人間になることではありません。決して揺るがされることのない確信を持つことでもありません。その反対に、自分が砕かれることです。自分が何も誇ることのできない罪人であることを認めて、その自分を愛していてくださる神様を頼りとして生きることです。そして、神様を頼りとしながら、神様に従って生きることこそが、神様との正しい関係を築くことであり、神様から義と認められるということです。神様に救われるということです。

 パウロは、信仰の言葉が口と心にあることについて、心に信じて、口で告白すると説明しています。心の中で信じていれば、それでいいということではありません。反対に、口で告白していれば、それでいいということでもありません。そうではなくて、心で信じて、口で告白することによって、救われるのだと言っているわけです。心の中で信じることと、口で告白することは、どちらか一方ではいけないということです。セットでなければならないということです。あるいは、一致していなければならないと言ってもいいでしょうか。

 私たちは、心の中で思っていることと、口で言っていることが、異なることはないでしょうか。恐らくは、あるのではないでしょうか。心の中で軽蔑をしながら、口でほめているようなことが、あるのではないでしょうか。そして、そのようなことは、信仰の告白においても、同じなのではないでしょうか。残念なことですが、私たちは、口先だけで、イエス様を主と告白することができるわけです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。「口では何とでも言える」ということであれば、口の告白というのは、あまり大切ではないということになるのでしょうか。心の中で信じてさえいれば良いということになるのでしょうか。

 しかし、心の中でだけ信じていて、その信仰を口で告白しないなら、どのようなことが起こってくるでしょうか。何か都合の悪いことが起こったら、「信じてないよ」と言ってしまうことにも、なりやすいのではないでしょうか。「やっぱり信じられない」と思ったら、いつでも撤回できることになるのではないでしょうか。

 心の中でだけ信じること、口先だけの告白、それは、どちらも、自分の都合に合わせているということではないでしょうか。自分が中心になっているのではないでしょうか。

 パウロは、父なる神様が御子イエス様を死者の中からよみがえらせたことを心の中で信じるなら、そのイエス様を、口で主と告白することになると言っています。

 救われるというのは、神様との関係の中に生きる者となることです。それは、真の神様であるイエス様を主と信じて告白することから始まります。そして、主イエス様にすべてを委ねて従うことです。それは、口先だけの信仰とは異なります。同時に、心の中では信じていても、その信仰を公にしないで、いつでも逃げ道を準備しておく態度とも異なります。信仰によって救われるというのは、主イエス様にすべてを委ねて生きることであり、それは、心の中だけのことではなくて、具体的な生活の中で明かにされるということです。

 パウロの時代、特にローマにおいて、主というのはローマ皇帝のことでした。ローマ皇帝こそが主でした。そして、そのような時代状況の中で、父なる神様が御子イエス様を死者の中からよみがえらせたことを信じた人々は、イエス様を主と告白しました。洗礼の場において、主の日の礼拝において、イエス様を主と告白してきました。そして、自分が誰との関係の中に生かされているのかを確認して、具体的な生活の中に遣わされていきました。それは、リスクの伴うことでもあったでしょう。

 しかし、パウロは、旧約聖書の言葉を用いて、大胆に宣言しています。イエス様に信頼する者は、誰も失望させられることがないと宣言しています。イエス様は、ご自分の御名を呼び求めるすべての人を、ユダヤ人もギリシア人も関係なく、救ってくださるからです。決して見捨てることなく、最後まで、支え導いてくださるからです。

 神様は、イエス様の十字架の死と復活の御業によって、信仰の言葉を、私たちの口と心に備えていてくださいます。罪人の私たちを愛していてくださるからこそ、主イエス・キリストを信じ告白して救われる言葉を備えていてくださいます。そして、私たち一人一人が、イエス様にすべてを委ねて、イエス様に従って生きることを願っていてくださいます。

 礼拝に集められている私たち一人一人が、イエス様の十字架の死と復活を信じて、イエス様を主と告白することができることを、心から願います。毎週の礼拝の中で、イエス様こそが主であることを告白して、私たちがイエス様によって生かされていることを覚えたいと思います。そして、日々の生活の中で、主イエス様にすべてを委ねて、主イエス様に従って生きることができることを、心から願います。

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