礼拝説教から 2021年3月14日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙10章1-4節
  • 説教題:律法はキリストを目指す

 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。

 

1.

 パウロは、9章の最初の所から、自分の同胞であるユダヤ人たちの救いについて語ってきました。ユダヤ人たちをご自分の民として選ばれた神様の言葉は決して無効になっていないことを説明してきました。そして、9章の最後の所からは、神様の救いを拒むユダヤ人たちの側の問題について語り始めています。

 パウロが、ローマ人への手紙の中で語っていることは、これまでに、ユダヤ人たち自身に対しても、熱心に語られてきたことでしょう。パウロは、ユダヤ人たちに対する神様の愛を、誰よりも熱心に語ってきたはずです。丁寧に説明を重ねてきたはずです。

 しかし、同時に、パウロは、祈っていることが分かります。パウロは、熱心に語ると同時に、丁寧に説明の言葉を尽くすと同時に、神様に向かって祈っています。あるいは、「祈らされている」ということでもあるでしょうか。

 どうでしょうか。私たちは祈っているでしょうか。救われていない家族のために、友だちのために、悩み苦しんでいる人々のために、祈っているでしょうか。祈っているとすれば、それは、どうしてでしょうか。

 私たちが祈る一つの意味は、私たちが自分の力ではどうにもならないことを認めているということではないでしょうか。パウロのように、仲間の救いのためであれ、不安や恐れから解放されるためであれ、あるいは、真の神様に向かってであれ、他の何かに向かってであれ、私たちが祈るのは、自分の知恵や力の限界を感じさせられているからではないでしょうか。逆に言うと、自分の力でできないことが何もないなら、私たちは祈る必要もないのではないでしょうか。私たちは、限界のある者だからこそ、無力な者だからこそ、祈らされることになるのではないでしょうか。

 パウロは、必死になって、ユダヤ人たちに福音を伝えてきました。しかし、ユダヤ人たちの多くは、パウロの語る言葉をなかなか受け入れてくれません。頑なに拒んでいます。そして、だからこそと言えるのではないでしょうか。どれだけ言葉を重ねても、説明を尽くしても、頑なに自分の言葉を受け入れないユダヤ人たちの態度を目にしながら、パウロは、祈ることしかできなかったのではないでしょうか。ユダヤ人たちが救われるためなら、自分が救いから漏れてもいいと思うほどの思いを持っていたとしても、どうすることもできない自分の無力さを痛感させられながら、神様に祈ることしかできなかったのではないでしょうか。あるいは、呻くことしかできなかったと言ってもいいのかも知れません。

 神様の救いは、私たちがもたらすことのできるものではありません。どれだけ熱心に福音を語ったとしても、どれだけ丁寧に説明したとしても、あるいは、どれだけ必死に祈ったとしても、その私たちの努力が、人に救いをもたらすわけではありません。

 しかし、神様に救われた喜びを味わっているなら、神様との関係の中で、神様に愛されて、神様に支えられて生きる救いの喜びを味わっているなら、家族にも、友だちにも、何かで苦しんでいる人々にも、その喜びを味わってほしいと願うのではないでしょうか。その喜びの知らせを語らざるを得ないのではないでしょうか。そして、それでもなかなか分かってもらえない中で、あるいは、関心すら持ってもらえない中で、祈らされることになるのではないでしょうか。神様にすべてを委ねて、祈らされることになるのではないでしょうか。そして、神様は、その私たちの祈りを聞いていてくださり、喜んでいてくださいます。

 私は、なかなか祈ることができていないなぁということを思います。家族や友だちを覚えて、熱心に祈らされているだろうかということを思います。そして、それは、もしかしたら、なかなかイエス様を信じてもらうことのできない現実の中で、イエス様のことを話題にすることすらも憚られるような雰囲気を味わいながら、自分から諦めてしまっているということなのかも知れません。救いの恵みに押し出されて、イエス様の福音を熱心に分かち合いながら、それでもどうにもならない現実に直面して、祈らされるのではなくて、最初から諦めて祈っていないということかも知れません。

 皆さんはどうでしょうか。

 パウロは、誰よりも、神様に救われた喜びに満たされていました。

 私たち一人一人が、救いの喜びに満たされることを願います。その喜びに押し出されて、その喜びを分かち合っていくことができることを願います。そして、だからこそ、祈らされる者になることを願います。

2.

 ユダヤ人たちは、神様に対して、とても熱心な人々でした。パウロは、ユダヤ人たちが、神様の救いから漏れていることを痛み悲しんでいますが、それは、彼らが、神様に対して熱心でないからではありません。ユダヤ人たちは、神様のことなど、何の関心もなくて、神様の教えなど、どうでもいいと思っていて、救われないのだということではありません。そうではなくて、ユダヤ人たちは、神様に対して、とても熱心だということです。神様の言葉である律法をよく学び、その教えを隅々に至るまで行おうとしていたわけです。

 しかし、パウロは、同時に、そのユダヤ人たちの熱心には、問題があることを指摘しています。それは、知識に基づくものではないということです。

 どうでしょうか。ユダヤ人たちには知識がなかったのでしょうか。決してそんなことはないでしょう。パウロ自身が、ユダヤ人たちは神様に対して熱心であることを証ししているように、彼らは神様の言葉である律法をとてもよく学んでいました。少なくとも、神様の言葉に関して、律法に関して、彼らの知識は相当のものだったと言えるでしょう。私のような者とは比較になりません。しかし、そうであるにもかかわらず、ユダヤ人たちの知識には問題があったということです。

 どういうことなのでしょうか。

 パウロは、ユダヤ人たちが、神様の義を知らなかったと言っています。神様の義を知らないで、自分の義を立てようとしているのだと言っています。ユダヤ人たちは、神様の義がよく分かっていないがために、自分の義を立てようとしているのだということです。自分の義を立てるというのは、神様の言葉である律法を行うことによって、神様に認められようとすることです。自分の行い、自分の何かによって、神様から義と認められようとすることです。神様に認めてほしいという必死の叫びです。しかし、その結果として、ユダヤ人たちは、実は、神様の義に従わないでいるということです。自分ばかりを見つめて、神様が見えていないということです。

 パウロは、「律法が目指すものはキリストです」と言っています。

 どういうことでしょうか。それは、律法を追い求めていくならば、律法に従っていくならば、最終的にはキリストに辿り着くということではないでしょうか。律法のゴールはキリストだということです。逆に言うと、律法というのは、私たちをキリスト・イエスへと導くものだということです。あるいは、律法に従っているつもりでいながら、キリスト・イエス以外の所に辿り着くなら、それは、どこかで道に迷ってしまったということになるでしょう。

 それでは、律法の目指すキリストに辿り着くというのは、どういうことでしょうか。それは、神様の一方的な恵みに気づかされるということではないでしょうか。神様の無条件の愛に気づかされるということではないでしょうか。

 神様の愛というのは、私たちの行いによって、受け取ることができたり、できなかったりするようなものではありません。そうではなくて、一方的な恵みとして、いつも与えられているということです。律法のゴールであるキリスト・イエスを通して、その愛ははっきりと明らかにされているということです。神様は、キリスト・イエスを通して、無条件に私たちを愛していてくださるということです。神様が私たちに求めておられるのは、ただ、その愛に気づいてほしい、その愛を受け取ってほしいということだけです。律法をきっちりと行って、合格点をいただくことではありません。愛されるに相応しい者になることではありません。そうではなくて、ただ、神様の愛を信じて受け取るということです。そして、それが、信仰によって義と認められるということです。神様の義に従うということです。自分の義を立てるのではなくて、神様の義に従うということです。神様との正しい関係の中に招き入れられるということです。神様との互いに愛し合う関係の中に生かされるということです。

 神様が、モーセを通して、ユダヤ人たちに与えられた律法といのは、最初から、その神様の愛を思い起こすためのものでした。どんな時にも、神様が愛していてくださることを覚えさせるためのもの、そして、神様に結び合わされて生きるためのもの、それが律法でした。

 しかし、残念ながらということになるでしょうか。ユダヤ人たちは、その律法について、誤解をしてしまったということです。いつのまにか、律法を行うことによって、神様の愛を勝ち取ることができる、律法を行うことができなければ、神様の愛を勝ち取ることができないという誤解をしてしまったということです。そして、律法のゴールであるキリスト・イエスが来られたにもかかわらず、神様の無条件の愛によって受け入れられていることが明らかにされているにもかかわらず、自分たちの義、自分たちの正しさを、熱心に主張しているということです。

 無条件の愛というのは、それを必要としない人にとっては、気に入らないだけのものであるかも知れません。「そしたら、自分の努力は何やったんや」、「何であんな奴が」という思いに駆られるだけのものであるかも知れません。

 しかし、律法のゴールであるキリスト・イエスと出会う時、私たちは、自分もまた、その無条件の愛によって赦されるべき罪人に過ぎないことに気づかされます。キリスト・イエスの十字架の死と復活に目が開かれる時、自分もまた、無条件の愛によって赦されるのでなければ、生きることのできない罪人であることに気づかされます。そして、それと同時に、その自分がそのままに受け入れられていることに気づかされます。命懸けで愛されていることに気づかされます。そして、大切なことは、そのキリスト・イエスと出会うことです。

 私たちは、ユダヤ人たちが受け取った律法を含めて、神様から聖書を受け取っています。聖書は神様の言葉です。神様からの愛のメッセージです。神様からのラブレターです。そして、その聖書の中心は、やはり、キリスト・イエスです。聖書の中で、キリスト・イエスと出会う時、私たちは、神様の愛に気づかされます。こんな罪人の自分を受け入れていてくださる神様の愛に気づかされます。

 しかし、どれだけ聖書を読みながらも、どれだけ聖書を学びながらも、そこで、キリスト・イエスと出会うことがないならば、聖書はただの素晴らしい本の一冊に過ぎません。知的欲求を満足させてくれるだけの本に過ぎません。あるいは、「ああしなさい、こうしなさい」という命令の言葉によって、私たちを縛り付けるだけの本になってしまったりもします。そして、いずれにしろ、そこで見つめているのは、自分自身です。

 私たちは、どうでしょうか。聖書の中で、キリスト・イエスと出会っているでしょうか。神様の言葉を聞きながら、キリスト・イエスの前に導かれているでしょうか。信仰生活の中で、いつのまにか、キリスト・イエスから目が逸れていることはないでしょうか。キリスト・イエスから目が逸れて、自分の義を立てることに熱心になっていることはないでしょうか。あるいは、その反対に、神様や誰かに誇るものが何もなくて、自分は駄目なクリスチャンだと思いながら、苦しんでいることはないでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、そして、日々の信仰生活の中で、私たちが一人ももれることなく、キリスト・イエスと出会うことができることを願います。キリスト・イエスによって明らかにされた神様の無条件の愛を信じ受け入れることができることを願います。いつもキリスト・イエスの愛に支えられていることを覚えたいと思います。そして、その愛の土台の上で、神様を愛すること、隣人を愛することに熱心でありたいと思います。

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