礼拝説教から 2021年3月7日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙9章30-33節
  • 説教題:この方に信頼する者は

 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。↩ 「見よ、わたしはシオンに、↩ つまずきの石、妨げの岩を置く。↩ この方に信頼する者は↩ 失望させられることがない」↩ と書いてあるとおりです。

 

0.

 パウロは、自分の同胞であるユダヤ人たちの救いを切に願い求めていました。同時に、その彼らの救いに関することは、パウロがイエス・キリストの福音を語るにあたって、避けて通ることのできない問題でもありました。そして、パウロは、そのユダヤ人たちの救いという問題について、先週までの所では、神様の選びという視点で語ってきました。

 パウロは、私たちの救いに関する神様の選びについて、「人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」と語っていました。私たちは、必死に拝み倒したり、努力を積み重ねたりして、神様から選ばれて救われるのではなくて、選ばれる資格がないにもかかわらず、神様の憐れみによって選ばれて救われるのだということです。私たちの救いは神様の自由な選びによるのであり、それは、憐れみ深い神様から、一方的な恵みとして与えられるものだということです。そして、それは、ユダヤ人たちも、ユダヤ人以外の人々も、何も変わりがありません。

 一方で、パウロが神様の選びについて語っていることは、神様に選ばれて救われる人と、そうでない人がいることを、暗に示しています。そして、その区別が、神様の一方的な決定によるのであれば、頑なに神様の救いを拒むとしても、人には何の責任もないじゃないかということになるのかも知れません。

 しかし、神様の選びというのは、最初から、選ばれている人と選ばれていない人が、厳格に区別されているという教えではありません。選ばれていない人は、誰がどのように福音を伝えたとしても、誰がどれだけ祈ったとしても、最終的には救われないというような教えではありません。だからこそ、人には何の責任もないということではありません。神様は、滅ぼされても仕方のない罪人の私たち一人一人を、憐れんでいてくださり、待ち続けていてくださるのであり、私たちには、その神様の憐れみに答える責任が委ねられているということです。

 今日の本文である9章30節からは、その私たちの側の問題に目が向けられています。

1.

 パウロは、二つのグループのことを語っています。異邦人とイスラエルです。

 イスラエルというのは、神様の民として選ばれた人々の名前です。具体的にはユダヤ人たちのことです。ユダヤ人たちは、神様から選ばれた民として、神様の言葉である律法をいただいていました。その神様の律法に従って生きることを、自分たちのアイデンティティーとする人々でした。

 そして、ユダヤ人たちは、自分たち以外の人々を異邦人と呼んでいました。それは、単なる外国人ということではなくて、神様から選ばれていない人々ということを意味していました。ユダヤ人たちにとって、異邦人は、神様から選ばれていない、律法も与えられていない、神様の救いから遠く離れている人々だということです。ユダヤ人たちは、神様の民として選ばれた自分たちを誇り、自分たち以外の人々を見下していたということです。

 しかし、パウロが言っていることは、何でしょうか。それは、異邦人が、義を追い求めなかったけれども、義を得たということです。反対に、ユダヤ人たちは、「義の律法」を追い求めていたけれども、その律法に到達しなかったということです。

 義というのは、正しいということです。そして、パウロが義と言っているのは、神様が正しいと認めてくださることです。義を得るというのは、神様から正しいと認められることです。そして、それは、神様との正しい関係の中に招き入れられることを意味しています。

 それでは、どうして、義を追い求めていたユダヤ人たちが、義を得ることができず、義を追い求めなかった異邦人が、義を得るような結果になったのでしょうか。

 パウロは、ユダヤ人たちが、「義の律法」を「信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めた」と言っています。

「義の律法」と言うからには、律法は正しいものだということになるでしょう。律法は、神様が与えてくださったものであり、良いものであり、正しいものです。あるいは、律法の目的は人を義に導くことだと言ってもいいのかも知れません。しかし、パウロがここで問題にしているのは、ユダヤ人たちが、その義の律法を、「行いによるかのように追い求めた」ということです。

 「行いによるかのように追い求めた」というのは、「行いによって得ることができるかのように考えて、追い求めた」ということです。ユダヤ人たちは、律法を忠実に行うことによって、神様から義と認められることができると考えたということです。しかし、律法を忠実に行うことによっては、ユダヤ人たちは、神様から義と認められることができなかったということです。

 パウロは、ユダヤ人たちが、行いによって、義の律法を追い求めた結果として、律法に到達できなかったことを、「つまずきの石につまずいた」と説明しています。そして、つまずきの石というのは、イエス様のことです。ユダヤ人たちは、イエス様につまずいたために、神様から義と認められることができないでいるということです。

 「つまずいた」と訳されている単語を、ギリシア語の辞書で調べてみると、そこには、「立腹する」、「不快(嫌悪)を覚える」という意味が記されています。「つまずく」と訳されるギリシア語の単語には、「腹を立てる」、「嫌悪感を覚える」というような意味が含まれているということです。パウロが、ユダヤ人たちはイエス様につまずいたと表現する時、ユダヤ人たちは、イエス様に腹を立てていたということです。イエス様のことが、嫌で仕方なかったということです。あるいは、イエス様を受け入れることは、ユダヤ人たちのプライドが許さなかった、屈辱的なことだったと言ってもいいのかも知れません。

 イエス様の愛は無条件です。どのような罪人も受け入れる愛です。社会の中で、どれだけ価値がないと思われる人でも受け入れる愛です。一般的に、素晴らしいものと考えられていると言えるでしょう。

 しかし、自分の何かを誇りとしている人々にとっては、どうでしょうか。自分の努力によって、社会から認められている人々、自分は誰にも迷惑をかけていないと思っている人々にとっては、どうでしょうか。もしかしたら、無条件の愛というのは、気に入らないものなのではないでしょうか。無条件の愛というのは、「自分の努力は何やねん」、「何であいつが受け入れられてんねん」などと、文句を言いたくなるようなものなのではないでしょうか。反対に、自分の誇りを傷つけるものなのではないでしょうか。

 ユダヤ人たちは誇りに満ちた人々でした。律法を忠実に行うことによって、神様から認めてもらうことができると確信していました。神様の前で、「あれもしています、これも守っています」ということを、自信たっぷりに言うことができました。神様の前で、いくらでも自分を誇ることができました。まさに、「誇りだらけ」と言ってもいいでしょうか。しかし、その誇りが邪魔をして、イエス様を信じ受け入れることができなかったということです。あるいは、その誇りにこだわり続けることこそが、自己中心の罪と言ってもいいのかも知れません。真の神様を拒み、自分が神となる罪と言ってもいいのかも知れません。

 イエス様を信じ受け入れるというのは、イエス様の十字架の前で、誇るべきものが何もないことを認めることです。神様から認めてもらうために、「こんなことやあんなことをした」、「自分の心はこんなに美しい」と言えるようなものが、何もないことを認めることです。神様の言葉を行うこともできない、滅ぼされるべき罪人であることを認めることです。しかし、その罪人の自分を、無条件に受け入れていてくださるイエス様の愛を受け入れることです。イエス様の十字架の前で、自分の誇りが打ち砕かれて、何も誇ることのできない罪人の自分を無条件に受け入れていてくださる神様の愛を誇りとして生きることです。そして、それが、信仰によって義と認められるということです。神様との正しい関係の中に招き入れられるということです。

 もう十年以上前になりますが、私も、韓国の教会にいた時、大きくつまずきかけたことがありました。

 韓国の教会は、日本の教会よりもはるかに大きいです。牧師や伝道師が何人もいたりします。そして、そうであるならば、いくら牧師や伝道師であるとは言っても、その関係は決して簡単なものではありません。私が所属していた教会でも、ある牧師と牧師の間で、何だか上手くいっていないような雰囲気がありました。二人とも、私の大好きな牧師でした。しかし、その二人の関係は回復することなく、最終的には、一人がその教会での働きを終えることになりました。

 私は、頭では「そういうこともある」と理解することができましたが、感情的には納得することができませんでした。大切な礼拝も、説教も、完全に上の空になってしまいました。そして、悩みに悩んだ結果、教会を移ることになりました。しかも、移った先の教会でも、上手く馴染むことができず、信仰生活はぼろぼろになってしまいました。辛うじて、礼拝に出席して、祝祷が終わったら、皆が黙祷をしている間に、さっと教会を出て家に帰るようなことをしていました。

 私たちは、教会に来て、様々なことでつまずきます。その状況や原因というのは、様々だと言えるでしょう。

 しかし、今日の本文の中に描かれたユダヤ人たちのつまずきを見る時、私たちにとって、最も大きなつまずきとなるのは、実は、イエス様なのではないかということを思います。そして、その根本的な原因は、私たち自身の誇りにあるのではないかということを思います。具体的な状況は様々であるかも知れません。しかし、根本的には、私たちが、イエス様の十字架の前で、自分の誇りを捨てることができなくて、その誇りが、何かのきっかけで傷つけられた時に、つまずくことになるのではないでしょうか。

 パウロは、旧約聖書を引用して、神様が「つまずきの石」、「さまたげの岩」を置かれたということを説明しています。「つまずきの石」、「妨げの岩」というのは、どちらもイエス様を示しています。

 何かができる、何かがあるというのは、とても素晴らしいことです。決して否定されるべきことではありません。しかし、私たちは、いつも、何かができるわけではありません。いつも、何かがあるわけではありません。むしろ、その反対に、私たちは、何もできなくなることがあるわけです。何かがあると言えなくなる時があるわけです。

 自分を誇りとして生きる時、私たちは必ず失望することになります。失望することのない人生というのは、決してありません。あるいは、その失望を恐れて、最初から希望を持たないということも起こってくるでしょうか。

 イエス様を信じる時、イエス様を誇りとして生きる時、私たちは決して失望させられることがありません。もちろん、大きな失敗や挫折を経験することはあるでしょう。すべてを失ってしまうようなこともあるでしょう。

 しかし、その何もない自分を、何も誇ることのできない自分を、イエス様はそのままに受け入れて支えていてくださいます。そして、だからこそ、どのような状況の中でも、決して失望することはありません。どれだけ大きな失敗や挫折の中にあっても、出口の見えないトンネルの中にあっても、失望することはありません。なぜなら、何もない自分の中には、イエス様が満ち満ちていてくださるからです。

 私たちが、自分の何かを誇りとする時、十字架のイエス様は、つまずきの石となります。しかし、十字架のイエス様の前で、自分の誇りが粉々に砕かれる時、イエス様は救いの岩となります。私たちの歩みを支え続ける確かな土台となります。大切なことは、その救いの岩、確かな土台に支えられて生きることです。それは、屈辱的なことではなくて、本当の強さをいただくことです。

 毎週の礼拝の中で、イエス様の十字架を見上げたいと思います。そのイエス様の十字架の前で、自分の誇りが砕かれ続けたいと思います。しかし、その砕かれた自分を、そのままに受け入れていてくださる神様の愛に満たされたいと思います。神様の愛に満たされて、神様の愛に支えられて歩みたいと思います。そして、その神様の愛を誇る言葉と歩みが、良き証しとして用いられることを願います。

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