礼拝説教から 2021年2月28日

  • 聖書個所:ローマ人への手紙9章19-29節
  • 説教題:怒りの器が憐れみの器に

 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。(19-24節)

 

1.人よ

 パウロは、エジプトの王であるファラオに語られた神様の言葉を紹介しながら、神様が人を御心のままに憐れみ、御心のままに頑なにされるということを言いました。

 ファラオは、イスラエルの民がエジプトの国から出て行こうとするのを何度も妨げました。それは、神様の御心に逆らうことでもありました。しかし、それも神様がファラオの心を頑なにされた結果だということです。ファラオは、神様の圧倒的な力によって、心が頑なになって、神様の御心に逆らって、イスラエルの民がエジプトの国から出て行こうとするのを妨げたのだということです。

 そして、そうであるならば、どうでしょうか。「ファラオには何の責任もないではないか、人には何の責任もないではないか、それでも、神様が人を責められるとするならば、それはちょっとおかしいではないか」ということになるのではないでしょうか。神様が、ご自分の御心によって、ある人を憐れんだり、ある人を頑なにしたりしておいて、その上で、頑なな人々を責められるのだとすれば、それはちょっとおかしいではないかということです。むしろ、責任は神様の側にあるのではないかということです。

 パウロは、予想される指摘に対して、丁寧に答えようとはしていません。むしろ、質問を受けつけない、シャットアウトするような言い方をしています。「神に言い返すあなたは、いったい何者ですか」ということです。私たちが神様のなさることに文句を言うことは、陶器師によって造られた器が、陶器師に文句を言うようなものだということです。陶器師には、同じ土の塊から、「尊いことに用いる器」を作ったり、「普通の器」を作ったりする権利があるということです。

 パウロは、「人よ」と呼びかけています。呼びかけの言葉としては、ちょっと不思議な感じがしますが、どういうことでしょうか。

 人というのは、神様ではないということです。私たちは、神様ではなくて、人だということです。神様によって造られた者だということです。そして、私たちが、神様によって造られた者であるなら、神様に文句を言うようなことは、決して相応しくないということです。自分が人であることを、造られた者であることを弁えなければならないということです。あるいは、私たちが、何か神様に言い返そうとするようなことがある時、私たちは、自分が人であることを、造られた者であることを、忘れているということになるのかも知れません。そして、それは、私たち自身が神になろうとしていることであり、聖書が語る罪の本質だということです。

 ちなみに、パウロは、神様が、ある人を憐れんだり、ある人を頑なにしたりされることについて、疑問を投げかける人のことを、「あなた」と言っています。

 「あなた」というのは、直接的にはローマの教会の人々です。まだ、神様を信じていない人々ではありません。まだ、神様を信じていない人々が、神様にいちゃもんを付けているのではありません。自分が神様を信じていないことの言い訳をしているのではありません。そうではなくて、すでに、神様を信じている人々が、神様に文句を言っているということです。イエス様を、神様ご自身として、救い主として信じ受け入れている人々が、造り主である神様と自分の関係を弁えているはずの人々が、神様にいちゃもんを付けているということです。そして、その人々に、パウロは語りかけているということです。それは、自分が人であることを覚えて、神様との関係を弁えなければならないということです。

 私たちは、神様の言葉である聖書に親しんでいれば、何でも分かるようになる、どのような疑問にも答えられるようになるというわけではありません。むしろ、その反対に、熱心に聖書を学ぶほど、忠実な信仰生活を送るほど、分からないことが出てくる、疑問が出てくるのではないでしょうか。「神様、どうして?」、「神様がすべてをご支配しておられるのに、どうして?」と言いたくなる現実に出くわすのではないでしょうか。あるいは、単なる疑問では収まらないようなことも起こってくるのではないでしょうか。

 神様は、必ずしも私たちの疑問に丁寧に答えてくださる方ではありません。しかし、「その代わりに」とでも言えばいいでしょうか。神様はご自分が誰であるのかを教えてくださいます。私たちが誰であるのかを教えてくださいます。そして、神様と私たちとの正しい関係を教えてくださいます。それは、繰り返しになりますが、私たちが、神様に造られた人であることを覚えることであり、神様を神様として生きることです。「神様のなさることは、すべて時にかなって美しい」ことを信じて生きることです。そして、私たち自身がすべてを知るのではなくて、すべてを知っておられる神様を信頼して生きる時、私たちは神様に導かれて生きる幸いを味わうことができます。そこにあるのは、不平や不満ではなくて、平安です。

 私たちはどうでしょうか。分からないことの中で、納得がいかないことの中で、神様に疑問をぶつけることがあるでしょうか。あるいは、単なる疑問で終わるのではなくて、神様に口答えまでして、自分が人であることを忘れてしまうようなことはないでしょうか。

 私たちは「人」であることを覚えたいと思います。造られた者であることを覚えたいと思います。そして、造られた者として、造ってくださった神様との関係の中で、神様を神様として生きる者でありたいと思います。

2.あわれみの器として

 パウロは、二つの器について語っています。それは、「怒りの器」と「あわれみの器」です。その意味している所は、神様の怒りを受ける器、神様の憐れみを受ける器ということになるでしょうか。

 私たちは、人のことを、器という言葉で表現することがあります。「私はそんな器ではありません」、「あの人は立派な器だ」というような言い方をすることが、よくあるでしょうか。「大器晩成」という言葉もあります。いずれにしろ、私たちは、器という言葉によって、自分や周りの人々を評価しようとするわけです。

 どうでしょうか。私たちが、器という言葉で人を評価する時、その器という言葉によって見つめているのは、どこなのでしょうか。器そのものでしょうか。器の出来栄えでしょうか。大きさや形や模様でしょうか。あるいは、もっと他の何かでしょうか。

 それでは、パウロが、人を「怒りの器」や「憐れみの器」と表現する時、パウロはどこを見つめているのでしょうか。それは、器そのものではないように思います。そうではなくて、器の中に注ぎ込まれるものではないでしょうか。

 器というのは、何かを入れるものです。私たちがよく使う器であるならば、そこに入るのは、水であったり、料理であったりするでしょうか。

 パウロが、神様との関係において、人のことを器という言葉で表現する時、そこに注ぎ込まれるのは、神様の怒り、もしくは、憐れみです。パウロは、神様の怒りや憐れみが注がれる器として、人を見ているということです。そして、パウロが言っているのは、神様がその器に怒りを注がれるのか、憐れみを注がれるのかは、器そのものの出来栄えとは関係がないということです。

 出来栄えで言えば、私たちは怒りを受けることしかできない器です。罪人として、神様から顔を背けて、神様に逆らい続ける私たちは、神様の怒りを溜め込むことしかできない器だということです。造り主である神様によって滅ぼされても仕方のないような器だということです。しかし、パウロが言っているのは、神様が、怒りの器に対して、「豊かな寛容をもって耐え忍ばれた」ということです。神様は、怒りの器をそのまま滅ぼされるのではなくて、「豊かな寛容をもって耐え忍ばれた」ということです。

 どうでしょうか。耐え忍ぶというのは、簡単なことではありません。とても辛いことです。そして、それは、神様にとっても同じだということです。私たちが、怒りの器として、神様から顔を背けて生きることは、神様にとっても辛いことだということです。誰よりも、神様ご自身が、ご自分から顔を背けて生きる私たちを見ながら、痛み悲しんでおられるということです。そして、それは、神様が、滅ぼされるべき怒りの器の中に、憐れみを注ぎ続けていてくださるということに他なりません。ちょっと大胆な言い方をするとすれば、神様は、怒りの器を憐れみの器に変えてくださるということです。

 パウロが言っているのは、神様が、怒りの器を怒りの器として、憐れみの器を憐れみの器として定めておられるということではありません。神様は、最初から、怒りの器と憐れみの器を区別しておられて、その決定は永遠に変えられないということではありません。そうではなくて、神様は、怒りの器のことを耐え忍んで、決して諦めることなく、そこに憐れみを注ぎ込んでいてくださるということです。神様は、ユダヤ人たちにしろ、ユダヤ人以外の人々にしろ、決して諦めることなく、憐れみを注ぎ込んでいてくださるということです。だからこそ、私たちは、怒りの器であるにもかかわらず、憐れみの器として、救いに導かれることができるということです。

 パウロは、憐れみの器については、「あらかじめ備えられた」と表現しています。憐れみの器というのは、神様があらかじめ備えていてくださったということです。怒りの器が態度を改めて、憐れみの器に変えられたということではありません。前もって準備されていたということです。それは、別の言葉で言うと、神様が、あらかじめ選んでいてくださったということです。

 繰り返しになりますが、神様は、怒りの器と憐れみの器を区別しておられて、その決定は永遠に変えられないということではありません。しかし、怒りの器であるはずの私たちが、神様の憐れみによって救われたことに気づかされる時、私たちは、自分があらかじめ選ばれていたとしか表現することができません。なぜなら、私たちが、神様の憐れみを受けて救われたのは、私たちの行いとは関係がないからです。私たちは、行いが評価されて、その上で選ばれたのではないわけです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、現在の私たちも、行いによって評価されるならば、間違いなく滅ぼされるしかないわけです。その私たちが、神様の憐れみによって救われたことは、神様があらかじめ選んでいてくださったとしか表現することができないわけです。そして、その神様の選びを信じて受け入れる時、私たちは、怒りの器を待ち続けてくださった神様の憐れみに気づかされて感謝することになるのであり、神様の確かな選びに支えられて生きることができることになります。

 私たちの救いにおける神様の選びという教えは、選ばれている人と選ばれていない人を区別するためにあるのではありません。そうではなくて、私たちが、怒りの器である罪人の自分を憐れみの器としてくださった神様に感謝するためにあるのであり、神様の確かな選びに支えられて生きるためにあるのだということです。

 今日の礼拝に集まった私たち一人一人が、怒りの器であるにもかかわらず、神様の憐れみによって救われたことを覚えながら、神様に選ばれた恵みに感謝することができることを願います。不安定な自分自身ではなくて、神様の確かな選びに支えられて生きることのできる恵みに感謝することができることを願います。そして、神様がすべての人に同じ憐れみを注いでおられることを覚えながら、諦めることなく、イエス様の十字架によって明らかにされた神様の無条件の愛を宣べ伝えていく者でありたいと思います。

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