礼拝説教から 2021年2月21日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙9章14-18節
  • 説教題:神様の憐れみ

 それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。

 

 パウロは、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではありません」と言っていました。イスラエル民族の中に生まれたからと言って、自動的にイスラエルになるのではないということです。

 例えば、ユダヤ人たちの偉大な先祖であるアブラハムには、二人の子どもがいました。しかし、二人共が子孫として認められたのではありません。神様が約束しておられた子ども、イサクだけが子孫として認められました。

 また、そのイサクには、双子の子どもが生まれました。兄がエサウ、弟がヤコブです。しかし、同じように、二人共が子孫として認められたのではありません。弟のヤコブだけが子孫として認められました。しかも、神様は、二人が生まれる前から、ヤコブの方を選んでおられました。ヤコブが、たくさんの善いことをしたとか、神様に忠実だったとか、何か納得のできる理由があったのではありません。そうではなくて、二人が生まれる前に、神様は、一方的に、恵みとして、ヤコブを選んでおられたのだということです。そして、そのヤコブが、神様からイスラエルという名前をいただいたのであり、その子孫たちを通して、神様はご自分の救いの計画を進めておられるのだということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。単純にイスラエルと言っても、そこには、一方で、選ばれた人々がいて、もう一方で、選ばれなかった人々がいるということになりそうです。あるいは、だからこそということになるでしょうか。神様が、ある人々を選んで、ある人々を選ばれなかったのだとするならば、そんな神様には不正があるのではないかという疑問が出てくるということです。不正というのは、正しくないということであり、不公平ということです。「選ばれた人はいいけど、選ばれなかった人は、可哀相じゃないか、そんな不公平なことをする神様には、不正があるということになるじゃないか」ということです。

 どうでしょうか。私は、確かにそうだなぁということを思います。一方で選ばれた人がいて、その一方で選ばれなかった人がいるというのは、明らかに不公平であり、選ばれなかった人は可哀相としか言うことができません。

 パウロは、「神に不正があるのでしょうか」という自分の問いかけに対して、「決してそんなことはありません」と断言しています。神様には決して不正がないということです。そして、パウロは、その理由を続けて説明しています。

 パウロは、神様がモーセに語られた言葉を紹介しています。モーセというのは、『十戒』という映画によって、ノンクリスチャンの方々の間でも、よく知られている名前だと思います。イエス様の時代よりも、1500年ほども前になるでしょうか。イスラエルの民は、エジプトの地で増え広がりましたが、ファラオから奴隷のような扱いを受けて、厳しい労働をさせられていました。そして、そのイスラエルの民を神様が救い出してくださる時に、リーダーとして選ばれたのがモーセです。

 神様は、モーセに対して、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と言われました。パウロは、「不正があるのか」という疑問に対して、決してそうではないという理由を説明するのに、「あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」という神様の言葉を紹介しているわけです。

 「憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」というのは、どうでしょうか。そんなことを言われたら、私たちは、もしかしたら、「神様っていうのは、何て、自分勝手で、気紛れな方なんだ」と思ってしまうかも知れません。神様は、「自分の気に入った奴を可愛がって、何が悪いんや」と、開き直っておられるようにも感じられます。「神様には不正があるんじゃないか」と思う人々に対して、「神様は憐れもうと思う者を憐れんでおられる」というパウロの説明は、何だか逆効果のような感じまでしてしまいます。

 どうなのでしょうか。神様は、不公平で、自分勝手で、気紛れな方なのでしょうか。決してそうではありません。

 モーセが、神様から「わたしは憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言われた時、モーセに率いられたイスラエルの民は、神様に対して大きな罪を犯していました。彼らは、自分たちをエジプトから救い出してくださった神様がおられたにもかかわらず、金の子牛を作って、それを神々として拝み始めたのです。神様と夫婦のような関係になったにもかかわらず、すぐに他の神々を作って拝み始めたということです。それは、神様を捨てることであり、裏切ることでした。

 しかし、そのイスラエルの民を代表するモーセに対して、神様は、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と言われたのだということです。そして、それは、神様が、ご自分を裏切って捨てるようなイスラエルの民を赦されたということです。逆に、決して彼らを見捨てないという宣言をされたということです。そして、神様の民として選ばれたイスラエルの民が、イスラエルの民として歩むことができたのは、その神様の憐れみによってだということです。

 パウロが言おうとしていることは、何でしょうか。それは、誰かが選ばれて、誰かが選ばれなかったということではありません。誰かが選ばれている背後で、捨てられている人々がいるということではありません。神様は、気紛れで、救われる人々と救われない人々を選んでおられるということではありません。そうではなくて、神様は憐れみ深い方だということです。ご自分を裏切る人々を赦し続けるほどに、憐れみ深い方だということです。そして、神様が、アブラハム、イサク、ヤコブを選ばれたのは、その憐れみによってだということです。アブラハム、イサク、ヤコブが、必死に拝み倒したからでもなく、彼らの地道な努力が認められたからでもなく、神様が憐れみ深い方だからだということです。アブラハム、イサク、ヤコブは、ただひたすらに、神様の憐れみによって選ばれたのだということです。パウロが、イスラエルの選びによって見つめているのは、神様の憐れみだということです。

 憐れみというのは、何でしょうか。私たちは、もしかしたら、憐れみという言葉を聞くと、上から目線のようなものを感じることがあるかも知れません。そして、憐れみを受けることを、恥ずかしいことと考えるかも知れません。

 確かに、憐れみが単なる同情であるなら、それは、上から目線だということになるのかも知れません。そして、そんな傲慢な憐れみなら、「こっちから御免だ」ということになるのかも知れません。

 しかし、神様が私たちを憐れんでくださったというのは、上から目線で私たちを助けてくださったということではありません。ご自分の身の安全を確保しながら、手を汚すこともなく、可哀相な私たちを助けて喜ばれたということではありません。そうではなくて、私たちと同じ所に身を置かれたということです。私たちの仲間になってくださったということです。私たちと共に喜んで、共に苦しんで、共に悲しんで、私たちに寄り添ってくださったということです。そして、私たちのために、命を与えてくださったということです。神様が私たちを憐れんでくださったというのは、私たちを命懸けで愛してくださったということです。

 パウロは、すべての人が罪人だと語っていました。ユダヤ人たちも、ユダヤ人以外の人々も、現在の私たちも、すべての人が罪人だということです。パウロは、罪人の私たちが、神様の言葉である律法を行うことによって、神様から合格点をいただいて救われることは、誰にもできないということを語っていました。そして、それは、私たちが神様に選んでもらう資格のない者だということを意味しています。私たちが罪人であるというのは、神様から選ばれるはずのない者だということです。私たちは神様に選んでもらう資格のない者だということです。しかし、その私たちが実際に選ばれているわけです。選ばれているからこそ、神様を礼拝する場に集められているわけです。神様の愛に気づいて、神様を信じて、神様に従っていこうという決心が与えられているわけです。そして、選ばれるはずのない私たちが選ばれているのは、神様が憐れんでくださったからに他ならないということです。アブラハム、ヤコブ、イサクと同じように、ただひたすらに、神様の憐れみによって選ばれたということです。

 パウロは、私たちの救いについて、神様の選びということを語ります。その神様の選びという教えを考える時、どこかすっきりとしない部分が出てきます。「神様が誰かを選ばれたのなら、選ばれていない人もいる、そんなのは不公平や」というようなことも、その一つなのかも知れません。

 しかし、確かなこととして言えることは、イエス様の前で、自分の罪を見つめる時、選ばれるはずのない自分を選んでくださった神様の憐れみに気づかされる時、私たちは、その神様の憐れみに感謝せざるを得ないということです。選ばれるはずのない自分を選んでくださった神様の憐れみに気づかされる時、私たちは、その神様の憐れみに感謝せざるを得ないのではないでしょうか。そして、その選ばれるはずのない自分を選んでくださった神様の憐れみを見つめる時、私たちは、今はまだ選ばれていないようにも見える人々をも、神様が同じように憐れんでいてくださることを、確信することができるのではないでしょうか。来週の本文と関わってきますが、神様は、すべての人を憐れんでいてくださり、待ち続けていてくださるということです。

 私たち一人一人が、イエス様の十字架の前で、自分もまた、神様から選ばれる理由も資格もない罪人であることを覚えたいと思います。しかし、その私たちを、神様は、憐れんでいてくださり、命懸けで愛してくださっていることを覚えたいと思います。そして、その憐れみの中で、神様を喜び、神様を愛する者として歩みたいと思います。今はまだ選ばれていないように見える人々に、イエス様の十字架の福音を、無条件の愛の知らせを届ける者になりたいと思います。

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