礼拝説教から 2021年2月21日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙9章6-13節
  • 説教題:神様の選びによって

 しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

 

 イスラエルというのは、神様の民に与えられた名前です。パウロが、ユダヤ人たちのことをイスラエルと呼ぶ時、それは、彼らが神様の民だということです。ユダヤ人たちは、神様ご自身に選ばれて、神様の民とされた人々だということです。

 そして、問題は、その神様の民であるはずのユダヤ人たちが、神様ご自身である救い主、イエス・キリストを信じていない、受け入れていないということです。そして、それは、パウロが語ってきた福音の本質、神様の恵みによる救いの本質に関わることでした。

 パウロは、イエス・キリストの十字架によって明らかにされた、神様の無条件の愛に関する知らせを、福音として語ってきました。良い知らせ、喜びの知らせとして語ってきました。私たちは、神様に認められて、神様から合格点をいただいて、救われるのではなくて、神様は、罪人である私たちを無条件に愛し受け入れていてくださるということです。そして、その神様の愛を信じ受け入れることが、私たちの救いです。私たちは、自分の努力や何かによってではなくて、神様の一方的な愛の恵みを信じ受け入れることによって、神様の民とされて、神様の愛に支えられて生きる者にされるということです。そして、だからこそ、私たちは、神様の愛から決して引き離されることがないということです。私たちは、自分の固い決意や努力によってではなくて、神様ご自身の愛に支えられて、神様の民として生きるということです。しかし、その神様の愛を、多くのユダヤ人たちは、信じていないということです。

 どういうことなのでしょうか。もしかしたら、私たちは、イエス様を信じないユダヤ人たちが、神様から見捨てられてしまったのではないかということを考えるかも知れません。ユダヤ人たちが神様の民として選ばれたことは、彼らがイエス様による救いを拒むことによって、取り消されてしまったのではないかということです。そして、それは、現在の私たちだけが考えることではなくて、パウロの手紙を受け取るローマの教会においても、似たような状況であったということになるのかも知れません。

 パウロは、神様の言葉が無効になったのではないということを言い切っています。ユダヤ人たちを、ご自分の民であるイスラエルとして選ばれた神様の言葉は、決して無効になったわけではないということです。目の前の現実がどうであろうと、多くのユダヤ人たちが、イエス様を受け入れていないとしても、ユダヤ人たちをご自分の民として選ばれた神様の言葉は、決して無効にならないということです。神様の言葉は、私たちの見ている現実によって左右されるようなものではないということです。そして、その理由として、パウロは、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではない」ということを言っています。

 イスラエルから出た者というのは、簡単に言えば、イスラエル民族ということになるでしょう。同じ親の血を受け継ぐ民族としてのイスラエルです。

 しかし、パウロが言っているのは、そのイスラエル民族の中に生まれたからと言って、皆がイスラエルなのではないということです。イスラエル民族の中に生まれたならば、自動的にイスラエルだというわけではないということです。

 パウロは、次の7節以降の所で、二つの例を挙げながら、「イスラエルから出た者が皆、イスラエルではない」という言葉の説明をしています。

 一つ目は7-9節です。アブラハムというのは、ユダヤ人たちが尊敬する偉大な先祖です。そして、そのアブラハムに、神様は約束をなさいました。それは、アブラハムとその子孫が祝福の源になるという約束です。神様は、アブラハムとその子孫を通して、全世界の人々が祝福されることを願われたのであり、アブラハムにその約束をされたということです。そして、そのアブラハムの子孫というのは、イサクから出てくるということです。

 アブラハムが神様の約束を受け取って、信仰の旅立ちをスタートさせたのは、75歳の時でした。しかし、それから、アブラハムとその妻のサラには、なかなか子どもが与えられませんでした。そして、「神様の約束は、どうなってしまったんだ」と思われる状況の中で、妻のサラは、自分の奴隷の女性を夫に与えて、その子どもを通して、神様の約束が実現されることを願ったりしました。しかし、神様の約束は、サラから生まれてくる男の子を通して実現するということでした。そして、その神様の約束の通りに、アブラハムとサラの間に子どもが生まれました。アブラハムが百歳、サラが九十歳の時でした。人間的な常識では、絶対に子どもを授かることのできない夫婦の間に、神様の約束されていた子どもが生まれました。それが、イサクでした。神様は、そのイサクを「約束の子ども」として選んでおかれたのであり、そのイサクを通して、全世界の人々を祝福するという神様の約束は進められていくのだということです。

 二つ目は10-13節です。イサクには、双子の子どもが生まれました。兄はエサウ、弟はヤコブです。そして、神様は、その双子の兄弟の中で、兄のエサウではなくて、弟のヤコブを選ばれました。それは、エサウとヤコブが生まれる前のことでした。エサウとヤコブが生まれて、善いことや悪いことをしたりする前に、神様は、弟のヤコブを選んでおられたということです。そして、その理由は、神様の選びの計画が、行いによるのではなく、選ばれた神様ご自身によって進められるためだからだということです。

 神様は、ヤコブを選ばれました。ヤコブにイスラエルという名前を与えられました。それは、ヤコブが、善いことをしたからとか、信仰深い人間だったからということではありません。逆に言うと、エサウが選ばれなかったのは、エサウが、悪いことをしたとか、神様の御心に適わなかったからということでもありません。神様は、二人が生まれる前からヤコブを選んでおられたということです。神様は、一方的な恵みとして、ヤコブを選ばれたのだということです。その神様の一方的な選びによって生み出されたのが、イスラエルの民だということです。そして、それは、人間の側からすれば、自分の行いによって神様から認めてもらおうとすることではなくて、神様から選ばれていることを信じて受け入れることだと言えるでしょう。つまり、イスラエルの民というのは、神様から選ばれた人々であり、神様から選ばれていることを、信仰によって受け入れる人々だということです。そして、神様は、そのイスラエルの民を用いて、ご自分の計画を着実に進めておられるということです。だからこそ、ユダヤ人たちをご自分の民として選ばれた神様の言葉は、決して無効になったわけではないということです。

 パウロは、ずっと、行いによってではなくて、信仰によって救われるということを語ってきました。救われて神様の民とされるのは、どのような行いによってでもなくて、ただイエス・キリストを信じて受け入れることによってだということです。そして、それは、ユダヤ人であろうと、ユダヤ人以外の人々であろうと、何も変わらないということです。ユダヤ人たちも、私たちも、イエス・キリストの十字架によって明らかにされた、神様の無条件の愛を、信じ受け入れることによって救われるのだということです。

 今日は、最後に、その信仰による救いについて、少しだけ分かち合って終わりたいと思います。

 アブラハムとサラが、神様から、一年後にサラに男の子が生まれるという約束を受けた時、二人はほとんど真に受けようとはしませんでした。妻のサラに関しては、具体的に「笑った」とまで指摘されています。神様の言葉を馬鹿にして笑ったということです。「九十や百の老人夫婦から、子どもなんか生まれるもんか」ということです。

 しかし、だからと言って、神様は、アブラハムとサラを退けられたわけではありません。反対に、二人を信仰者として受け入れてくださいました。神様の約束の言葉を馬鹿にしたサラの「笑い」を、約束の実現を感謝して喜ぶ「笑い」へと変えてくださいました。そして、それは、神様が二人を憐れんでくださったということに他なりません。神様は、その豊かな憐れみの故に、アブラハムやサラの不十分と言ってもいいような信仰を受け入れてくださったのであり、彼らをご自分の民として整えてくださったということです。そして、アブラハムやサラは、その神様の豊かな憐れみに支えられて歩んだということです。もちろん、それは、アブラハムやサラだけではありません。二人の子どもであるイサクや、孫のヤコブも同じです。ヤコブの子孫たちも同じです。

 救い主であるイエス様を信じるというのは、救いをいただく信仰というのは、私たちが神様から認めてもらうことのできる、もう一つの立派な行いではありません。何か、揺るぎない信仰を持つことができれば、これからも決して揺るがないという確信を持つことができれば、神様が認めてくださるということではありません。そうではなくて、自分には何もないことを認めて受け入れることです。神様から認めてもらうことのできる何かが、自分には何もないことを認めて受け入れ続けることです。しかし、その何もない自分をそのままに受け入れて、命すらも与えてくださったイエス様の愛を感謝していただくことです。何も誇ることのできない自分を認め受け入れて、しかし、その自分をそのままに受け入れていてくださる神様の一方的な愛の恵みを感謝して受け取り続けていくこと、それが、聖書の中で、パウロの語っている信仰です。

 私たちはすぐに何かを誇りたがる者です。家柄、学歴や仕事、友だちが多いこと、立派な行い、あるいは、信仰も含まれるでしょうか、それが何であるにしろ、自分の何かを支えとして、誇りとして生きようとする者です。逆に、誇るべきものが何もなければ、劣等感の塊のようになってしまったりもします。それが、罪人である私たちの姿に他なりません。そして、そんな罪人の私たちにとって、自分の何かが認められるというのは、うれしいことです。それは、必ずしも否定されるべきことではないでしょう。むしろ、とても大切なことです。しかし、同時に、自分の何かが認められることによって得られる愛というのは、とても不安定なものです。お金がなくなれば、行いが悪くなれば、愛してもらえなくなるとするならば、そのような愛に支えられて生きるというのは、実に不安定なものです。

 何もない自分、貧しい自分を認めるというのは、罪人である私たちには、決して簡単なことではないのかも知れません。そして、それは、もしかしたら、クリスチャンになってからも、変わらない部分があるのかも知れません。

 しかし、その何もない自分を、貧しい自分を、そのままに受け入れていてくださる神様の愛に包まれる時、私たちは確かな平安をいただくことができます。神様の無条件の愛の中で安心することができます。そして、そこから、私たちは、不安定な自分と向き合うことができ、自分とは異なる隣人と向き合うこともできる道が開かれてくるでしょう。

 私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブと、何も変わらない者であることを覚えたいと思います。神様の前で、何も誇ることのできない者であることを覚えたいと思います。しかし、その私たちにも、神様は一方的な愛を注いでいてくださいます。大切なことは、その神様の愛を感謝していただくことです。

 毎週日曜日の礼拝で、イエス様の十字架を見上げたいと思います。神様の一方的な愛が、自分にも注がれていること気づかされて、信仰によって、その愛をいただきたいと思います。神様の愛に支えられながら、平安をいただいて、不安的な時代の中を歩みたいと思います。神様の愛を誇り、神様の愛を伝えて生きる者とならせていただきたいと思います。

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