礼拝説教から 2021年2月7日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙9章1-5節
  • 説教題:自分の同胞のためなら

 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

 

0.

 先週までの8章は、ローマ人への手紙全体の中で、クライマックスのような部分になります。手紙の最初の所で、パウロが「伝えたい」と願っていた「福音」については、8章までの所で、一応の区切りが付けられたと言ってもいいでしょう。

 「福音」というのは、「良い知らせ」、「喜びの知らせ」という意味の言葉です。具体的には、イエス・キリストの十字架によって明らかにされた、神様の無条件の愛に関する知らせです。私たちがしっかりと神様の方を向いて、良いことを行って、立派な人間になったら、神様から合格点をいただいて愛されるという知らせではありません。神様から目を背けている私たちを、悪いことをしたり、心の中で妬んだり憎んだりする私たちを、社会の中で役立たずのように見なされたりすることもある私たちを、神様はそのままに愛し受け入れていてくださるという知らせです。だからこそ、その福音を信じ受け入れた私たちは、その神様の愛から決して引き離されることがありません。私たちは、自分の固い決心や努力によってではなくて、神様の無条件の愛に支えられながら、神様の民として生きるということです。これが、イエス・キリストの福音によってもたらされた救いの中心です。

 今週から順番に見ていきますが、9章からはテーマが新しくなります。そのテーマは、パウロの同胞、パウロから見れば、同じ民族の仲間であるであるユダヤ人たちの救いに関することです。パウロは、9章から11章までの所で、自分の同胞であるユダヤ人たちの救いに、スポットを当てていきます。8章までとは、ちょっと雰囲気が異なります。

 しかし、だからと言って、9-11章の内容が、8章までの内容と、関係がないのかと言えば、決してそういうことではありません。関係がないどころか、むしろ、大いにあると言った方がいいのだと思います。パウロにとって、ユダヤ人たちの救いに関する問題は、ローマの教会の人々や、現在の私たちに福音を伝えていくためにも、決して素通りすることができないということです。

1.

 パウロは、「肉による自分の同胞」たちのことについて、大きな悲しみがあり、心に絶えず痛みがあると言っています。ユダヤ人であるパウロが、「肉による自分の同胞」と言っているのは、自分と同じ民族であるユダヤ人たちのことです。パウロにとっては、「自分の兄弟たち」とも言える人々です。そして、そのユダヤ人たちのことで、パウロには大きな悲しみと絶え間ない痛みがあるということです。なぜなら、ユダヤ人たちの多くは、主イエス・キリストを信じ受け入れていなかったからです。パウロは、自分の同胞であるユダヤ人たちの多くが、主イエス・キリストを信じ受け入れていないことで、心を痛め、悲しんでいたということです。パウロは、ユダヤ人たちに、何とかして、イエス様を信じてほしい、イエス様の救いの恵みに与ってほしいと願っているということです。

 パウロにとってのユダヤ人、それは、日本人にとっては、やはり日本人ということになるのだと思います。そして、その日本人というのは、なかなかイエス様を信じようとしません。関心を持ってもらうことさえ難しかったりします。

 どうでしょうか。私たちは、なかなかイエス様を信じてくれない日本人たちを見ながら、大きな悲しみや絶え間ない痛みを持っているでしょうか。日本人だけではなくて、身近に関わっている人々が、イエス様を信じてくれない現実に直面しながら、大きな悲しみや絶え間ない痛みを持っているでしょうか。あるいは、悲しみや痛みを感じながらも、なかなか乗り越えることのできない大きな壁の前で、最初から諦めてしまっているということはないでしょうか。さらには、信じない人々のことを批判したり、物分かりの悪い連中として、見下したりしているようなことはないでしょうか。

 パウロは、「同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」と言っています。キリストから引き離されるというのは、神様の愛から引き離されるということです。神様の民でなくなって、神様の救いから漏れて、神様から呪われたような者になるということです。

 どうでしょうか。イエス・キリストによる救いの恵みを経験した人にとって、救いの喜びを知っている人にとって、その救いから漏れるというのは、考えられないことなのではないでしょうか。イエス・キリストの恵みによって救われた喜びを知っている人にとって、自分から望んで、「救いが取り消されてもかまわない」などと言うのは、あり得ないことです。そうであるにもかかわらず、パウロが、「自分の同胞のためなら」と言っているのは、どういうことでしょうか。それは、パウロが、それほどに彼らのことを愛していたということではないでしょうか。

 パウロは、誰よりも一生懸命に福音を伝えようとした人です。最初はユダヤ人たちに対してでした。しかし、多くのユダヤ人たちは、そのパウロの語る福音を受け入れようとしませんでした。ユダヤ人たちに福音を伝えるパウロの働きは、失敗の連続でした。

 しかし、パウロは、そんなユダヤ人たちを、決して見下したり批判したりはしていません。自分の語る福音を受け入れてくれないユダヤ人たちを、見下したり批判したりするのではなくて、愛しているということです。自分が、彼らの代わりに、救いから漏れてもいいと思うほどに、愛しているということです。だからこそ、心を痛めて悲しんでいるということです。

 どうでしょうか。私は、パウロの悲しみと痛みを見ながら、イエス様の福音を伝えるというのは、愛することに他ならないのではないかということを思います。それは、救いを得るための秘訣を教えることではありません。その秘訣を相手に納得させることでもありません。納得してくれない相手を見下したり批判したりすることでもありません。そうではなくて、愛するということに尽きるのではないでしょうか。イエス様が私たちを愛してくださったように、愛することに他ならないのではないでしょうか。逆に言うと、愛することなしには、イエス様の福音は届いていかないのではないかということを思います。イエス様の福音を語る私たちが、いつも問われているのは、愛なのではないかということを思います。イエス様が愛してくださったように愛するということです。

 毎週日曜日の礼拝で、イエス様の十字架を見上げながら、イエス様の愛に満たされたいと思います。イエス様から愛されている者として、イエス様が愛してくださったように、愛する者にならせていただきたいと思います。そして、その愛の中で、イエス様の福音が届けられていくことを願います。

2.

 パウロは、ユダヤ人たちのことを「イスラエル人」と呼んでいます。パウロは、8章までの所で、ずっと「ユダヤ人」という言い方をしてきましたが、9-11章の所では、イスラエルという言葉を何度も使っています。そして、それは、パウロが、ユダヤ人たちを、ただ単に、自分の同胞として見ているのではなくて、「イスラエル」として見ているということを示しています。

 それでは、イスラエルというのは、何でしょうか。それは、旧約聖書の中で、神様の民とされた人々に与えられた名前です。神様に選ばれて、神様からご自分の民とされた人々に与えられた名前、それがイスラエルでした。そして、その神様の民として選ばれたのが、ユダヤ人たちだったということになります。

 パウロが、ユダヤ人たちのことを、イスラエル人と呼ぶ時、そこに込められている意味は、彼らが神様の民だということになるでしょう。ユダヤ人たちは、神様からご自分の民として選ばれた人々だということです。そして、問題は、そのユダヤ人たちの多くが、主イエス・キリストを受け入れないでいるということです。

 パウロは、イエス・キリストのことを、「万物の上にあり、とこしえにほむべき神」と言っています。イエス様というのは、神様ご自身だということです。しかし、その神様から、イスラエルという名前をいただいて、神様の民とされているにもかかわらず、その多くが、神様ご自身である主イエス様を受け入れないでいるということです。それどころか、イエス様を救い主として信じ受け入れて、新しく神様の民とされた教会の兄弟姉妹たちを苦しめたりもしているということです。

 これは、どういうことなのでしょうか。神様がユダヤ人たちをご自分の民として選ばれたことは、神様の見込み違いだったということになるのでしょうか。ユダヤ人たちをご自分の民とされた神様の選びそのものに、問題があったということになるのでしょうか。あるいは、ユダヤ人たちが神様の民として選ばれたことは、彼らが神様ご自身である主イエス様を受け入れないことで、取り消されてしまったということになるのでしょうか。そして、そうだとするならば、神様の救いというのは、神様の恵みによって与えられるものではなくて、やぱり、自分たちの努力で勝ち取らなければならないものであり、守らなければならないものだということになるのでしょうか。神様の愛は、無条件のものではなくて、条件付きのものということになるのでしょうか。誰も神様の愛から私たちを引き離すことができないのではなくて、私たちの方で、神様の愛に必死にすがりついていなければならないということになるのでしょうか。

 いずれにしろ、多くのユダヤ人たちがイエス様を受け入れようとしていないことは、パウロの語る福音にとっては、大きな問題です。福音を根本から揺るがす問題だと言ってもいいでしょう。そして、だからこそ、それは、ユダヤ人たちの問題だけではなくて、イエス様を信じて神様の民とされている私たちの問題でもあるということです。なぜなら、神様の民として選ばれていたユダヤ人たちの救いが、不確かな自分たちの努力にかかっているのだとするならば、イエス様を信じて神様の民とされた私たちの救いも、同じように、不確かな私たち自身の努力にかかってくることになるからです。ユダヤ人たちの救いの問題は、まさに、私たち自身の問題でもあるということです。

 今日の本文からは外れますが、9-11章までの所を見ていくと、パウロは、神様が、ご自分の民として選んだユダヤ人たちを、決して見捨てられたのではないということを言っています。神様は、御子イエス・キリストを受け入れようとしない罪によって、ユダヤ人たちを見捨てられたわけではないということです。むしろ、その彼らの罪をも用いて、ご自分の救いの計画を推し進めておられるのだということです。あるいは、すべてのことが共に働いて益となるようにしていてくださると言ってもいいのかも知れません。いずれにしろ、神様は、その無条件の愛によって、私たちを支えていてくださるのであり、私たちの救いに最後まで責任を持ってくださるということです。

 ユダヤ人たちの問題については、来週以降の礼拝の中で、続けて見ていきたいと思いますが、今日は、彼らを、神様が変わることのない愛によって支えていてくださることを覚えて終わりたいと思います。そして、その同じ神様が、イエス・キリストによって、神様の民とされた現在の私たちをも支えていてくださることを確信したいと思います。何によっても引き離されることのない愛の中に受け入れられていることを覚えながら、その自分を愛し、同じように愛されている回りの人々を愛していきたいと思います。

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