礼拝説教から 2021年1月31日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙8章31-39節
  • 説教題:神様が味方なんだから

 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。↩ 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、↩ 屠られる羊と見なされています。」↩ しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 

 パウロは、手紙の最初の所で、ローマの教会の人々に「福音を伝えたい」と語っていました。福音というのは、「良い知らせ」、「喜びの知らせ」ということです。具体的には、神様が、ご自分の御子であるイエス・キリストを通して、罪人の私たちに与えてくださった救いに関する知らせです。8章は、その福音を伝える手紙のクライマックスとも言える部分になります。そして、今日の本文である31-39節は、その中でも結論のような部分と言えるでしょう。

 パウロは、それまでに語ってきたまとめとして、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言っています。「味方であるなら」というのは、「もし、味方であるなら」ということではありません。神様は味方だということです。神様が味方である以上は、誰も自分たちに敵対することはできないということです。そして、それが、パウロの語ってきた福音のまとめだということになるでしょう。福音というのは、神様が私たちの味方であるといこうことです。神様が私たちの味方であるからこそ、誰も私たちに敵対することはできないということです。

 皆さんは、どうでしょうか。味方になってくれる人がいて、助かったという経験はあるでしょうか。反対に、誰も味方になってくれる人がいなくて、辛い思いをしたということはあるでしょうか。あるいは、皆さん自身が、誰かの味方になるということもあるでしょうか。いずれにしろ、私たちの人生において、誰か味方がいてくれるというのは、とても大切なことです。味方がいるというのは、とても心強いことです。そして、その味方が、他でもなく、神様ご自身だということです。

 それでは、神様が私たちの味方であるというのは、どういうことなのでしょうか。

 もしかしたら、私たちは、神様が私たちの味方であると聞けば、神様が私たちの願いを何でもかなえてくださるということを考えるかも知れません。あるいは、思い通りにいかないことばかりの連続で、「神様が味方だなんて、嘘だ」と思ったりするかも知れません。

 しかし、神様が私たちの味方であるというのは、神様が、私たちの僕となって、私たちの願いを何でも実現させてくださるということではありません。神様は、のび太が、ジャイアンやスネ夫にいじめられても、勉強ができなくても、泣きついて頼めば、どんな願いでもかなえてくれるドラえもんのようなロボットではありません。

 パウロは、神様が、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された」と言っています。神様というのは、私たちのために、ご自分の御子の命でさえも、惜しみなく差し出してくださった方だということです。

 御子というのは、要するに、自分の子どもということです。神様にとっては、イエス・キリストです。

 どうでしょうか。私たちは、自分の子どもを差し出すということが、できるでしょうか。誰かの命を救い出すために、自分の子どもの命を差し出さなければならないとすれば、私たちは、自分の子どもを惜しみなく差し出すことができるでしょうか。

 私は、「絶対にできないなぁ」ということを思います。もちろん、不完全な親として、子どもたちと、いつも適切に向き合っていくことができるかどうかは分かりません。もしかしたら、カッとなって、躾という言葉の範囲を超えたことをしてしまうようなことが、起こってくるかも知れません。仕事ができなくなって、養ってあげることができなくなるようなこともあるかも知れません。しかし、誰かの命が救われるために、身代わりに子どもを差し出さなければならないとすれば、「やっぱりできないなぁ」ということを思います。たとえ、社会のために大きな貢献をしている人のためだとしても、自分の子どもを身代わりにすることはできないでしょう。私の命の恩人だとしても同じです。なぜなら、子どもたちは、私にとって、かけがえのない存在だからです。

 神様は、かけがえのない御子イエス・キリストを、「私たちすべてのために」、惜しみなく差し出してくださいました。

 どうしてでしょうか。それは、神様が、私たちのことを、大切に思ってくださったからではないでしょうか。かけがえのないご自分の御子を犠牲にしてでも、私たちが生きることを願ってくださったからではないでしょうか。かけがえのない御子の命を引き換えにしても惜しくないほどに、私たちを愛してくださったということではないでしょうか。

 ちなみに、その「私たち」というのは、神様のお気に入りだったわけではありません。むしろ、その反対に、神様と敵対していた「私たち」です。「神様なんかいらない」と言って、神様から顔を背けている「私たち」です。しかし、その「私たちすべてのために」、神様は、御子イエス・キリストを、十字架にかけてくださったということです。神様に敵対する私たちの罪が赦されるために、私たちが滅びないために、私たちが神様と共に生きるために、神様は御子イエス・キリストの命を差し出してくださったということです。それほどに、神様は私たちのことを大切に思っていてくださるということです。

 ちなみに、31節で「味方」と訳されている部分と、32節で「私たちすべてのために」の「のために」と訳されている部分は、実は、同じ言葉が使われています。「神が私たちの味方であるなら」と訳されている部分は、ちょっとぎこちないですが、「神が私たち『のために』であるなら」と訳すこともできます。

 神様は、私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されました。それは、神様が、私たちの味方として、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されたということです。逆に言うと、神様が私たちの味方であるというのは、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡されたほどに、私たちを愛していてくださるということです。しかも、神様の方を向いている私たちではなくて、神様から顔を背けている罪人の私たちを、神様は、御子イエス・キリストの命を差し出してまで、大切にしていてくださるということです。

 そして、だからこそと言えるでしょうか。御子イエス・キリストを与えてくださった神様は、すべてのものを私たちに与えてくださいます。そして、それは、神様が、私たちの救いについて、最後まで責任を持っていてくださるということを意味しています。まさに、命を懸けて、私たちを救い出してくださった神様は、最後まで、私たちの救いに責任を持っていてくださるということです。そして、だからこそ、誰も私たちに敵対することはできないということです。

 パウロは、次の33節以降の所で、繰り返して「だれが」と言っています。「だれが、神に選ばれた私たちを訴えるのですか」、「だれが、私たちを罪ありとするのですか」、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」。

 「誰が」というのは、どういうことでしょうか。それは、「誰も」ということではないでしょうか。誰かが、私たちを訴えることができるということではありません。誰かが、私たちを「罪ありとする」ことができるということではありません。誰かが、私たちを神様の愛から引き離すことができるということではありません。そうではなくて、誰も、私たちを訴えることはできないということです。誰も、私たちを罪に定めることはできないということです。誰も、私たちを神様の愛から引き離すことはできないということです。むしろ、その反対に、私たちは圧倒的な勝利者なのだということです。辛うじて勝利することができるということではありません。圧倒的な勝利者なのだということです。しかも、それは、後に圧倒的な勝利者になるということではなくて、今すでに、圧倒的な勝利者なのだということです。なぜなら、神様が私たちを愛していてくださっているからです。私たちに大勝利を収める力があるということではなくて、神様が私たちを愛していてくださるからだということです。

 パウロは、私たちの救いを脅かす、いくつかのことを挙げています。それは、苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣です。

 パウロは8章18節で「今の時の苦難」ということを言っていました。「今の時」を生きる私たちには、苦難があるということです。

 私たちはどのような苦難を経験しているでしょうか。経済的に苦しむことがあるでしょうか。体の病気やケガで苦しむことがあるでしょうか。人間関係で苦しむことがあるでしょうか。クリスチャンであるならば、クリスチャンとして生きようとすることそのものが、困難なものだと言えるでしょう。

 いずれにしろ、今の時を生きる私たちは、様々な苦難を経験します。そして、その苦難の中で、苦悩をします。悩み苦しみます。誰かを恨んだり、憎んだりすることがあるでしょうか。愛することのできない自分を赦せなくなることがあるでしょうか。神様を信じることができなくなることもあるでしょうか。「こんな自分が赦されていいはずがない」、「こんな自分が愛されていいはずがない」と思い込んで、自分で自分を苦しめたりすることもあるでしょうか。

 神様が私たちの味方だというのは、神様が、そんな私たちを愛してくださっているということです。苦難の中で苦悩する私たちをそのままに受け入れてくださっているということです。だからこそ、その私たちが赦されて新しく生きるために、十字架にかかってくださったということです。復活して、天に昇られたイエス様は、今も天において、私たちのために祈っていてくださるということです。私たちの中にいてくださる聖霊もまた、私たちのために祈っていてくださるということです。

 私たちが経験する苦難というのは、とても大きく感じられるかも知れません。実際に、私たちにはどうすることもできないかも知れません。しかし、どのような苦難も、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。どのような権力者も、どのような出来事も、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。そして、大切なことは、その神様の愛を見つめるということです。どのような出来事の中にあっても、決して私たちを手放すことのない神様の愛を確信するということです。

 今日からの新しい一週間も、その神様の愛に支えられていることを覚えて、スタートしたいと思います。そして、私たちもまた、神様の愛に答えて、神様を愛し、隣人を愛する者とならせていただきたいと思います。

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