礼拝説教から 2021年1月24日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙8章26-30節
  • 説教題:すべてのことが益となる

 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(28-30節)

 

1.

 パウロは、「すべてのことがともに働いて益となる」と言っています。

 「すべてのこと」というのは、私たちが経験するすべてのことになりますが、考えられているのは、良いことというよりは、悪いことでしょう。辛いこと、苦しいこと、あるいは、二度と経験したくないようなこともあるかも知れません。

 しかし、そのすべてのことが共に働いて益となるということです。私たちの経験するすべてのこと、辛いことや苦しいことも、どのようなことも、最終的には、益となるように、共に働くのだということです。

 皆さんは、どうでしょうか。辛いことや苦しいことが、失敗や挫折が、逆に、良いことにつながった、成長につながったというような経験はあるでしょうか。「あの失敗があったからこそ、今の自分がある」と言えるような経験があるでしょうか。恐らくは、何らかの経験があるのではないでしょうか。そして、そのような経験があるなら、すべてのことが共に働いて益となるというパウロの言葉は、納得したり共感したりすることができるのではないでしょうか。あるいは、そのような経験をしてきた人々が、若者たちに、「苦労は買ってでもしろ」と教えてきたのかも知れません。

 すべてのことが共に働いて益となる、それは、多くの人にとって、慰めや励ましとなる言葉です。すべてのことが共に働いて益となるという言葉を覚える時、私たちは、辛いことや苦しいことも、挫折や失敗も、前向きに捉えることができるようになるのかも知れません。

 しかし、パウロが、すべてのことが共に働いて益となると言っているのは、「一般的なこととして」ではありません。パウロは、多くの人の経験を踏まえて、すべてのことが共に働いて益となるということを言っているのではないようです。

 パウロは、すべてのことがと共に働いて益となるのは、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのため」だということを言っています。パウロは、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのために」、すべてのことが共に働いて益となるのだということを言っているわけです。そして、その「神を愛する人たち」というのは、直接的には、パウロの手紙を受け取るローマの教会の人々のことであり、クリスチャンたちのことになるでしょう。パウロは、すべてのことが共に働いて益となるのは、神様の愛するクリスチャンたちのためだと言っているということです。もちろん、すべてのことが共に働いて益となる、その背後におられるのは、神様に他なりません。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。

 すべてのことが益となるために働くのは、神様を愛するクリスチャンたちのためだけであるのなら、神様は、ご自分を愛する人々以外の益については、どうでもいいと思っておられるのでしょうか。神様は、ご自分を愛する人々以外には、関心を持っておられないということになるのでしょうか。

 そういうことではないでしょう。神様は、すべての人を愛していてくださいます。すべての人の益を願っていてくださいます。だからこそ、すべての人の救いを願って、十字架にかかってくださいました。

 しかし、反対に、すべての人がその神様の愛を受け入れているわけではありません。すべての人が、自分たちを愛していてくださる神様の御心を受け入れているのではありません。そして、それは、すべてのことが共に働いて益となるというパウロの言葉を、すべての人が、受け入れるのではないということにつながります。逆に言うと、すべてのことが共に働いて益となるというパウロの言葉を受け入れることができるのは、神様を愛する人々だけだということです。

 そもそも、「益となる」というのは、良いことであるには違いないと思いますが、いったいどういうことなのでしょうか。何がどうなれば、それは、益となると言えるのでしょうか。そもそも、私たちは、何が「益」であるのかが、分かっているのでしょうか。実は、分かっていないというのが、私たちの現実なのではないでしょうか。

 私たちは、相手の益となることを願って、何かをすることがあるのだと思います。子どものためを思って、社会のためを思って、あるいは、教会のためを思って、何かをします。それは、「懲らしめてやろう」と思ってのことではありません。「良かれ」と思ってのことです。「益となる」ことを願ってのことです。

 しかし、「残念ながら」ということになるでしょうか。私たちが良かれと思ってすることは、必ずしも相手のためになるとは限りません。むしろ、傷つけてしまうこともあります。良かれと思ってすることが、逆に、相手を傷つけることもある、それが、私たちの現実なのではないでしょうか。私たちは、何が益であるかも分からないような者であり、その益のために、どうするべきなのかも分からないような者だということです。

 パウロが、すべてのことが共に働いて益となると言う時、それは、自分の願い通りになるということではありません。自分が益と考える通りになるということではありません。そうではなくて、神様が益と考えておられる通りになるということです。神様の御心が実現するということです。そして、神様が益と考えていてくださることこそが、私たちにとって、本当の益だということです。

 神様が私たちの益と考えていてくださること、それは、私たちの考える益とは、必ずしも一致するわけではありません。神様が考えていてくださる問題の解決が、私たちの考える問題の解決とは、異なるかも知れません。しかし、その神様が考えていてくださる私たちの益を、自分の益として受け止めていくことが、神様を愛するということに他なりません。自分の考える益ではなくて、神様の考えていてくださる益こそが、自分にとって、本当の益であることを信じて受け入れていくこと、それが、神様を愛するということです。そして、神様を愛する者とされる時、私たちは、大きな痛みや悲しみの中にあるとしても、どのような状況の中においても、あらゆることを益としていてくださる神様を信頼して歩むことができます。神様ご自身に支えられて歩むことができます。神様はすべての人をその祝福の中に招いていてくださいます。

 私たちはどうでしょうか。何か辛い状況があるでしょうか。苦しみや痛みの中にあるでしょうか。あるいは、自分の思い通りにならない状況が続く中で、神様の御心が分からなくて苦しんでいることがあるでしょうか。

 神様は、私たち自身よりも、私たちの益が何であるかを知っていてくださる方であることを覚えたいと思います。すべてのことを、私たちの益となるように働かせていてくださる方であることを覚えたいと思います。そして、その神様を愛して、神様に支えられて歩みたいと思います。

2.

 パウロは、「あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言っています。「あらかじめ知っている人たち」というのは、神様を愛する人々のことであり、クリスチャンたちのことです。そして、そのクリスチャンたちを、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」のだということです。

 何だかよく分からないことですが、どういうことでしょうか。それは、要するに、救いの完成を意味しています。すでに神様の子どもとされているにもかかわらず、神様の子どもとして生きることのできない私たちを、神様は、御子イエス様と同じ姿にしてくださるということです。そして、それは、私たちの「死のからだ」が贖われるということであり、私たちがイエス様と共に栄光を受け取るということです。天におられるイエス様がもう一度来られる時、私たちは、イエス様と同じ復活の体をいただいて、イエス様と共に永遠の命に生きる者とされるということです。神様は、その救いの完成のために、私たちの経験するすべてのことが益となるように、働かせていてくださるということです。辛いことも、苦しいことも、何の意味もないように思えることも、私たちの救いを完成させるために、用いていてくださるということです。

 パウロは、神様を愛するクリスチャンたちのことを、「あらかじめ知っている人たち」と言っています。さらには、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言っています。

 パウロは、「あらかじめ」という言葉を繰り返しています。神様は、私たちのことを、「あらかじめ」知っていてくださったのであり、御子イエス様と同じ姿に「あらかじめ」定めていてくださったのだということです。そして、それは、神様が私たちの救いを、「あらかじめ」計画していてくださったということを意味しています。「あらかじめ」というのは、私たちが神様を信じる前から、この世界が造られる前からということです。私たちの救いは、最初から、神様の深い計画の中にあるのだということです。

 どうでしょうか。「だとしたら、神様を愛していないノンクリスチャンたちは、神様の救いの計画の中に入っていないのか、そんな不公平な神様なんか、こっちからごめんだ」と思う人が、もしかしたら、いるかも知れません。しかし、パウロが言おうとしているのは、「誰が、神様の救いの計画の中に入っているか、誰がそうでないか」ということではありません。そんなことは、パウロにも分からないわけです。神様も何も語っておられないわけです。神様が願っておられるのは、私たちのすべてが、神様の愛を知り、神様を愛して生きる者になることだけだということです。

 そうすると、パウロが言おうとしていることは、何でしょうか。それは、神様の救いが決して揺れ動くものではないということです。パウロは、私たちがいただいた神様の救いの確かさを語っているのだということです。私たちが神様を知る前から、この世界が造られる前から、私たちを知っておられ、私たちをご自分の子どもとしてくださった神様の救いは、決して揺れ動くものではないということです。

 「あらかじめ知っている」、「あらかじめ定めた」、「召した」、「義と認めた」というのは、過去のことです。私たちが神様を愛するクリスチャンとされている時点で、すでに起こっていることです。しかし、最後の「栄光をお与えになりました」というのは、究極的には、まだ起こっていないことです。それは、天におられるイエス様が、もう一度来られる時に起こることです。そうであるにもかかわらず、パウロは、「栄光をお与えになりました」と言っているわけです。すでに起こったことであるかのように語っているわけです。

 どういうことなのでしょうか。その理由の一つは、繰り返しになりますが、それが確実だということではないでしょうか。神様を信じるクリスチャンとされた私たちが、イエス様と共に栄光を受け取るのは、確実だということです。そして、だからこそ、「今の時の苦難」の中で、栄光を待ち望みたいということです。どれだけ呻くようなことがあるとしても、どのような失敗や挫折を繰り返すようなことがあるとしても、確実に与えられる栄光を待ち望みたいということです。

 私たちは、自分自身には希望を持つことができないかも知れません。自分自身には信頼を置くことができないかも知れません。しかし、その私たちを、知っていてくださり、そのままに受け入れていてくださる神様は、信頼することができます。

 難しい状況は続きますが、イエス様がもう一度来られる日を待ち望みながら、すべてのことを益としてくださる神様を信頼して礼拝したいと思います。そして、神様を愛する者として、日々の生活の中に遣わされていきたいと思います。

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