礼拝説教から 2020年1月17日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙8章26-30節
  • 説教題:聖霊に助けられて

 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。(26)

 

1.

 パウロは、神様の霊である聖霊が「弱い私たちを助けてくださいます」と言っています。「弱い私たち」と言っています。私たちは弱いということです。

 どうでしょうか。皆さんは、自分が弱いと思うでしょうか。自分の弱さを感じることがあるでしょうか。あるいは、弱さを感じることがあるとすれば、それはどのような時でしょうか。若い頃は何でもできたのに、年を取って、体の衰えを感じさせられる時でしょうか。やる気はあるけれども、能力や知識が追い付いてこない時でしょうか。精神的な弱さというものもあるでしょうか。ちなみに、私は幼い頃から「気が弱い」と言われてきました。

 私たちは、様々な場面で、様々な部分で、自分の弱さを感じさせられることがあるのではないかと思います。そして、もしかしたら、その弱さを克服するために、努力をしていることがあるかも知れません。あるいは、その背景には、社会の中で、「弱い人間ではいけない」と言われているように感じさせられたりすることもあるでしょうか。

 パウロは、「弱い私たち」と言っています。「私たち」と言うからには、そこにはパウロ自身も含まれていることでしょう。

 どうでしょうか。私は、このパウロの言葉を聞いて、ちょっと不思議に思います。なぜなら、パウロというのは、とても強い人だからです。

 パウロというのは、とてもできる人でした。とても頭のいい人でした。エリート中のエリートでした。神様の言葉である律法を、誰よりも熱心に学んで、誰よりも忠実に行うことのできる人でした。強い意思と能力を兼ね備えた人でした。そして、パウロ自身は、そんな自分こそが、正しい者であり、神様から合格と認めてもらうことのできる者だと考えていました。パウロは、そんな自分の強さを誇っていたと言ってもいいでしょう。

 しかし、そのパウロが「弱い私たち」と言っているということです。自分の手紙を受け取るローマの教会の人々だけではありません。後に、自分の手紙を読むことになる現在の私たちだけではありません。強さを誇っていた自分自身をも含めて、弱いのだと言っているということです。

 「教会というのは、弱い人間の行く所だ」という言葉を聞くことがあります。そして、そのような言葉を聞いたクリスチャンの人が、「カチンときた」と言われるのを聞くことがあります。

 どうでしょうか。私は、「教会というのは、弱い人間の行く所だ」という言葉を聞くと、「まさに、その通りだなぁ」ということを思います。もう少し正確に言うと、「教会というのは、自分の弱さを認めている人が行く所だ」ということになるでしょうか。クリスチャンになるというのは、クリスチャンであるというのは、自分の弱さを認めることであり、認め続けていくことだということです。そして、それは、決して恥ずかしいことではありません。自分の価値が否定されることではありません。むしろ、その反対に、とても幸いなことなのではないでしょうか。

 どうしてでしょうか。なぜなら、クリスチャンが自分の弱さを認めるというのは、その弱い自分を愛していてくださる神様に助けられて生きるということだからです。

 私たちが人間であるというのは、どこかに弱さを抱えているということです。もちろん、勉強をしたり、筋トレをしたり、修行をしたり、様々な努力をして、弱さを克服していくこともできるでしょう。そして、それは、とても素晴らしいことです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、どこかで限界にぶつかることもあるのが、私たちの現実なのではないでしょうか。どこかで自分の弱さを認め受け入れなければならなかったりするのが、私たちの現実なのではないでしょうか。そして、神様は、そんな私たちをそのままに受け入れていてくださるということです。条件付きの愛によってではなくて、無条件の愛によって、そのままに受け入れていてくださるということです。だからこそ、弱い私たちを助けてくださるということです。

 私たちは弱い者です。すぐにフラフラしてしまう者です。思い悩む者です。しかし、その弱い私たちを、神様は助けたいと願っていてくださいます。そして、その神様に助けられて歩むなら、私たちは決して弱いとは言えないでしょう。むしろ、本当の強さをいただいていると言ってもいいのかも知れません。それは神様の愛が土台にある強さです。神様の愛が土台にあるからこそ、自分の弱さと向き合うことのできる強さです。自分の力や正しさを認めさせるような強さではなくて、誰かを傷つけるような強さではなくて、自分の弱さと向き合うことのできる強さです。他人の弱さを優しく見つめることのできる強さです。

 私たちはどうでしょうか。自分の弱さとどのように向き合っているでしょうか。弱いままで、神様の前に出ているでしょうか。強くあろうとして、逆に、神様から離れてしまっていることはないでしょうか。

 私たち一人一人が、私たちを愛するが故に、十字架にかかってくださったイエス様の前で、自分の弱さと向き合うことができることを願います。そして、その弱さをそのままに受け入れていてくださる聖霊に助けられながら、生きることができることを願います。

2.

 私たちは、どのような時に自分の弱さを感じさせられるでしょうか。いろいろあると思いますが、パウロが今日の本文の中で見つめているのは、祈りにおける弱さです。私たちは、「何をどう祈ったらよいか分からない」、そんな弱い者だということです。私たちの弱さは、何よりも、祈りにおいて明らかにされるということです。

 皆さんは、どうでしょうか。私は、「祈りって、難しいなぁ」と、よく思わされます。何かの集まりで、祈りが当てられたりすると、「あぁ、きたぁ」ということを、いつも思ってしまいます。まさに「何をどう祈ったらよいか分からない」からです。実際に、祈りながら、訳が分からなくなって、祈った直後から、恥ずかしくなることもしょっちゅうです。

 また、とても苦しい時などは、祈ることそのものができなかったりもします。祈る力が出てこないわけです。思い通りにいかないことばかりの中で、心も体も疲れ果てて、絶望をして、祈ることができなくなります。それこそ、「何をどう祈ったらよいか」、完全に分からなくなってしまいます。あるいは、その言葉にならない苦しみの声こそが、「呻き」と言ってもいいのかも知れません。

 祈りについて書かれたある本を見ていたら、「祈りは神の息によって生きる者とされている人間の魂の呼吸です」という言葉がありました。祈りというのは、神様の息吹によって生きる者とされた私たち人間にとっては、魂の呼吸だということです。

 私たちは、呼吸をすることができなければ、生きることができません。呼吸をするというのは、私たちが生きるためには、必要不可欠なことです。そして、パウロは、その呼吸、魂の呼吸とも言える祈りにおいて、私たちが弱いと言っているわけです。

 ちなみに、新約聖書はギリシア語で書かれていますが、「弱い」と訳されている言葉をギリシア語の辞書で調べてみると、最初に「無力」という意味が出てきました。無力というのは、「力がない」ということです。それは、「ちょっと弱い」というどころの話ではありません。「決定的に力がない」ということです。そして、そうすると、パウロが「弱い」と言っているのは、「私たちの祈る力が弱い」というよりは、「私たちには祈る力がない」という意味に近い感じがします。生きるために必要な呼吸とも言われる祈りにおいて、私たちは力がないということです。そして、それは、私たちの生死に関わる問題です。

 私たちの弱さは、何よりも祈りにおいて明らかになります。しかし、パウロが言っているのは、その弱い私たちを、神様の霊である聖霊が助けてくださるのだということです。祈る力のない私たちを、聖霊が助けてくださるということです。そして、その聖霊の助けについて、パウロは、聖霊が、「ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」と言っています。

 先週の本文には、私たち人間の呻きと、神様によって造られた世界全体の呻きが出てきました。そして、今日の本文には、三つ目の呻きが出てきました。それは、聖霊の呻きです。聖霊もまた呻いておられるということです。それは、私たちと同じように、世界全体と同じようにということです。しかし、同じように呻くのではあっても、私たちや世界全体の呻きと、聖霊の呻きには、違いもあります。

 私たちや世界全体は、神様の完全な救いを待ち望みながら、「今の時の苦難」の中で呻いています。それに対して、聖霊は、呻きながら、私たちを助けていてくださるということです。あるいは、聖霊は、私たちの痛みや悲しみを共にしながら、私たちを助けていてくださるということです。私たちが苦難の中で呻くことは、聖霊にとっても、苦しいことであり、呻きとなることであり、しかし、聖霊は、それで終わるのではなくて、私たちを助けていてくださるということです。そして、それが「とりなし」という言葉で表されています。

 『広辞苑』で、「執り成す」という言葉を調べてみると、「仲裁する、仲直りさせる」という意味が出てきます。壊れた関係の間に入って、回復に努めるということです。

 一般的には、どうでしょうか。仲直りをさせる場合、その間に立つ人は、中立な立場にあるのでしょうか。あるいは、どちらか一方の側に立つのでしょうか。様々な場合があるのではないかと思います。

 それでは、聖霊の執り成しはどうでしょうか。聖霊は、中立な立場で、父なる神様と私たちの間に立ってくださるのではありません。そうではなくて、私たちの側に立ってくださっているということです。弱い私たちの側に立って、私たちのために、私たちの代わりに、祈ってくださっているということです。そして、それは、十字架へと向かうイエス様が、弱い弟子たちのためにしてくださったことと同じです。「目を覚まして祈っていなさい」と言われたにもかかわらず、すぐに眠りこけてしまった弟子たちの側に立って祈られたイエス様と同じように、聖霊は、私たちの側に立って祈っていてくださるということです。だからこそ、聖霊をいただいている私たちは、「今の時の苦難」の中にあっても、神様の子どもとして、神様から約束されている栄光を待ち望んで生きることができるということです。

 もちろん、「聖霊が祈っていてくださるなら、私たちは祈らなくてもいいじゃないか」ということではありません。聖霊の執り成しによって、イエス様の十字架の上に明らかにされた神様の愛へと目を向けられるからこそ、その神様の愛に答えて祈っていきたいということです。諦めることなく祈っていきたいということです。私たちを愛していてくださる神様の言葉を聞いて答える、そんな神様との交わりの中に生かされたいということです。

 私たちはどうでしょうか。「今の時の苦難」の中で、祈りを失うことはあるでしょうか。忙しくて、疲れ果てて、傷ついて、祈りを失うことはあるでしょうか。神様よりも他のことに夢中になって、祈りを失うことはあるでしょうか。あるいは、熱心に祈っているにもかかわらず、神様に対する期待や信仰を失っていることはないでしょうか。

 聖霊が、弱い私たちの側に立って執り成していてくださることを覚えながら、感謝したいと思います。聖霊が執り成していてくださることを覚えながら、私たちが生きるために、十字架へと向かってくださったイエス様の愛へと、目を向けたいと思います。そして、その愛に答えて祈り続ける者でありたいと思います。私たちを愛していてくださる神様の言葉を聞きながら、その神様に答えて祈る交わりの中に生かされたいと思います。

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