礼拝説教から 2021年1月10日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙8章18-25節
  • 説教題:まだ見ていないものを

 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。(18)

 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。(25)

 

0.はじめに

 昨年11月の最後の週から、クリスマスに関連する箇所を見てきましたが、約一ヶ月半ぶりに、ローマ人への手紙に戻ってきました。

 前回は、8章12-17節から、神様の子どもとされた恵みについて、分かち合いました。主イエス様を信じて洗礼を受けた私たちは、神様に敵対していた罪人であったにもかかわらず、神様の子どもとされたのであり、イエス・キリストと共に、神様の栄光に与る相続人なのだということです。

1.

 パウロは、「今の時の苦難」と言っています。「今の時」には苦難があるということです。苦しみがあるということです。

 「今の時」というのは、いつのことでしょうか。それは、パウロの時であり、パウロの手紙を見ている私たちの時です。しかし、それは、ただ単純に、私たちが生きている現在の時ということではありません。そうではなくて、天におられるイエス・キリストが、もう一度来られるまでの時ということです。ベツレヘムの馬小屋で生まれて、十字架の上で死んで、三日目に復活して天に昇られたイエス様が、もう一度来られるまでの時ということです。

 先週は、新年最初の礼拝から、「疲れていませんか」と、質問をしました。今日も同じような質問で申し訳ないのですが、どうでしょうか。皆さんは、苦しんでおられますか。あるいは、どのような時に、私たちは苦しむことになるでしょうか。経済的に苦しむことがあるでしょうか。人間関係で苦しむことがあるでしょうか。自然災害で苦しむこともあるでしょうか。最近は、新型コロナウィルスによって苦しめられていると言ってもいいのかも知れません。クリスチャンであるならば、クリスチャンであるがゆえに、経験する苦難というものもあるでしょう。

 そして、次の19-22節を見ると、「今の時の苦難」を経験しているのは、私たち人間だけではないということが分かります。「被造物」全体が「今の時の苦難」を経験しながら、呻いているのだということです。

 被造物というのは、一般的にはほとんど使われない言葉ですが、簡単に言うと、神様によって「造られたもの」を意味しています。私たちを含めて、神様によって造られた動物、植物、海や山、すべてのものです。あるいは、自然界と言ってもいいでしょうか。その被造物全体が呻いているのだということです。

 今回の冬はとても寒くなっています。12月中旬から雪もたくさん降っています。すでにたくさんの影響や被害が出ています。反対に、夏は猛暑日と言われるような日が続くようになりました。台風の勢力も毎年のように大きくなっています。一般的には、異常気象と言われますが、それは、まさに、被造物が呻いていると言ってもいいのだと思います。そして、その根本的な原因は、私たち人間の罪ということになります。

 全世界を造られた神様は、私たちにその世界を「支配せよ」と命じられました。「支配する」というのは、好き勝手にするということではなくて、「大切にする」ということです。適切に管理するということです。

 しかし、神様に対して罪を犯した私たちは、神様の命令とは反対に、世界を自分たちの好き勝手に扱ってきました。そして、その結果として、世界は秩序を失って、虚無に服することになったということです。虚無に服するというのは、目的を失う、目的を達成できないということです。その目的というのは、神様をほめたたえることです。世界は、神様をほめたたえるために造られたにもかかわらず、神様をほめたたえることができなくなって、呻いているということです。私たちと共に呻いているということです。

 今は苦難の時です。私たちは、人生のどこかで苦難と呼べるものを経験することになるのだと思います。大きな苦難、小さな苦難の違いはあるかも知れませんが、私たちは、人生のどこかで苦難を経験します。それは、決して喜ばしいものではありません。私たちの人生にとって、とても重たいものです。

 しかし、パウロが言っていることは何でしょうか。それは、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないということです。私たちが経験している「今の時」の苦難というのは、やがて私たちに啓示される栄光の素晴らしさに比べれば、取るに足りないのだということです。

 啓示というのは、隠されているものが明らかにされるということです。神様の栄光が、今は隠されていて見えないけれども、後に明らかにされる時が必ず来るということです。私たちには、その神様の栄光が約束されているということです。そして、その栄光と比べれば、「今の時の苦難」というのは、何でもないということです。

 昨年は東京でオリンピックが開かれる予定でした。延期された今年も、どうなるかは分からない状況ですが、そのオリンピックでメダルを取る選手たちというのは、ものすごい努力を積み重ねるのだと思います。もちろん、努力がいつも素晴らしい実を結ぶということではないのだと思います。そこには、苦難の連続だったと言わなければならないような時も、あるのだと思います。失敗や挫折を繰り返しながら、「もう止めよう」と思うこともあるかも知れません。しかし、そうであるにもかかわらず、その苦難を乗り越えて努力をするわけです。

 どうしてでしょうか。その最大の理由は、メダルを取るためではないでしょうか。光り輝く栄光を見つめているからではないでしょうか。メダルの栄光に比べたら、その過程で経験する苦難などは、取るに足りないものになってしまうからではないでしょうか。

 スポーツの選手たちが、大きな舞台でメダルを手にするのは、決して保証されているわけではありません。選手たちは、メダルを取ることができないかも知れない状況の中で、努力を積み重ねていくわけです。そして、だからこそ、そこには、常に不安が付きまとったりもするのだと思います。失敗や挫折の連続の中で、もう諦めようかと思うこともあるでしょう。実際に、大きな舞台でメダルを取ることができるような選手は、限られているわけです。

 それに対して、パウロが言っている栄光というのは、どうでしょうか。それは、必ず明らかにされるものです。「がんばったら、栄光を勝ち取ることができる、努力が足りなかったら、栄光はない」ということではありません。そうではなくて、栄光は約束されているということです。

 私たちにとって、苦しいことの一つは、先が見えなくなることです。苦難そのものも苦しいですが、その中で、先が見えなくなることは、何よりの苦しみになります。新型コロナウィルスが私たちに大きな不安や苦しみ、あるいは、絶望をもたらすのも、その大きな原因の一つは、先が見えないということです。しかし、先が見えるなら、私たちは「もうちょっとがんばろう」と思えたりもするわけです。

 私たちが人生の中で経験する苦難というのは、決してなくなるわけではありません。クリスチャンだから、苦難があっても、軽くしてもらえるというわけではありません。しかし、私たちは、苦難が苦難で終わるものではないことを教えられています。今は隠されている栄光が明らかにされる時のあることを教えられています。そして、その栄光を待ち望んで生きるのが、私たちの信仰生活です。

 それでは、パウロが言っている栄光というのは、何でしょうか。

 パウロは、私たちが心の中で呻きながらも、待ち望んでいると言っています。そして、それは、「御霊の初穂をいただいている私たち自身」が、「子にしていただくこと」であり、「私たちのからだが贖われること」です。

 パウロは、御霊の初穂をいただいている私たち自身が、子どもにしていただくのだと言っています。それは、聖霊を受け取った私たちが、神様の子どもにしていただくのだということです。

 繰り返しになりますが、私たちは、イエス様を信じて、洗礼を受けて、聖霊をいただいているなら、すでに神様の子どもとされています。クリスチャンであるなら、私たちはすでに神様の子どもとされているということです。だからこそ、私たちは、神様のことを、「天のお父様」と呼ぶことができるわけです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、改めて、私たちが神様の子どもとされることを待ち望んでいるのだと言っています。

 どういうことでしょうか。それは、私たちの救いが完成するということです。そして、それは、「私たちのからだが贖われる」ということでもあります。

 パウロは、私たちの「からだが贖われる」と言っています。キリスト教というのは、ただ単に、魂が救われるということを言っているのではありません。イエス様がもう一度来られる時には、体が贖わるのだということです。

 パウロは、自分のことを「本当に惨めな人間」だと言いながら、「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいました。

 どうしてでしょうか。それは、パウロが、神様の子どもとして、神様の御心に適うことを行いたいと願いながらも、実際には、その反対のことを行ってしまうような自分の姿に気づかされたからです。パウロは、すでに神様の子どもとされながらも、神様の子どもとして生きることができない自分の姿に気づかされたということです。パウロは、すでに神様の子どもとされながらも、その体が、なおも罪と死に支配されている現実に気づかされながら、苦しみの叫び声を上げたということです。

 しかし、その死の体が贖われるのだということです。死の体が救われるのだということです。そして、それが、救いの完成であり、やがて明らかにされる栄光だということです。私たちは、もう一度来られるイエス様と共に、神様の子どもとしてふさわしく生きることができるようになるということです。そこには何の苦難もありません。

 栄光は、イエス様がもう一度来られる時まで隠されています。今はまだ明らかにされていません。しかし、イエス様は必ず来てくださるのであり、私たちをご自分の栄光に与らせてくださいます。そして、その栄光を待ち望む時に、私たちは苦難の中で忍耐を与えられます。

 私たちの歩みはどうでしょうか。今まさに、大きな苦難の中に置かれているという方もおられるでしょうか。耐え難い苦難の中で、先の見えない苦難の中で、希望を失っているということはないでしょうか。

 私たちの出会う苦難というのは、決して軽いものではありません。慰めや励ましの言葉一つすら、かけることもできないような苦難もあります。しかし、そうであるにもかかわらず、その苦難は苦難で終わるものではないということを覚えたいと思います。今はまだ隠されている栄光が約束されていることを覚えたいと思います。そして、その栄光を待ち望みながら、「今の時の苦難」の中を歩く力が与えられることができればと思います。

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