礼拝説教から 2021年1月3日

  • 聖書箇所:イザヤ書40章27-31節
  • 説教題:主を待ち望んで

 ヤコブよ、なぜ言うのか。 イスラエルよ、なぜ言い張るのか。 「私の道は主に隠れ、 私の訴えは私の神に見過ごされている」と。 あなたは知らないのか。 聞いたことがないのか。 主は永遠の神、 地の果てまで創造した方。 疲れることなく、弱ることなく、 その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、 精力のない者には勢いを与えられる。 若者も疲れて力尽き、 若い男たちも、つまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、 鷲のように、翼を広げて上ることができる。 走っても力衰えず、歩いても疲れない。

 

0.はじめに

 今年は、新型コロナウィルスの影響もあって、元旦礼拝を行いませんでした。今日が一年で最初の礼拝になります。

 昨年の元旦礼拝では、旧約聖書のホセア書10章12節から、「耕地を開拓せよ」というテーマで話をしました。私たちが開拓する耕地というのは、まず、私たち自身であり、次に、私たちの生きる世界ということでした。すぐにカチコチに固まってしまいやすい私たちの心は、神様ご自身によって、いつも柔らかく耕されなければならないのであり、そのように柔らかくされてこそ、世界を耕していけるということでした。

 皆さんの一年はどうだったでしょうか。柔らかく耕されたでしょうか。そして、世界を耕していったでしょうか。

 今日は、一年の始まりに、イザヤ書41章27-31節を開きました。そして、その最後の31節を今年の年間聖句とさせていただきました。

1.

 イザヤは、「若者も疲れて力尽き、若い男たちも つまずき倒れる」と言っています。

 どうでしょうか。皆さんは、疲れておられませんか。あるいは、疲れを感じることがあるとすれば、それはどんな時でしょうか。

 激しい運動をして疲れることがあるでしょうか。仕事に疲れることがあるでしょうか。人間関係に疲れることがあるでしょうか。面白くない牧師の説教に疲れることもあるでしょうか。教会に疲れることもあるでしょうか。あるいは、生きることそのものに、「もう疲れた」と思うことがあるでしょうか。

 昨年は、新型コロナウィルスに揺れた一年となりました。そして、その新型コロナウィルスを取り巻く状況の中で、私たちは、新しい疲れ方と付き合っていかなければならなくなったと言えるのかも知れません。それは自粛疲れです。

 「不要不急の外出を控える」、「ステイホーム」、「おうち時間」、様々な合言葉と共に、外に出ることから始まって、様々な活動の自粛を余儀なくされました。緊急事態宣言が解除された後は、少しずつ様々な活動が再開されていったりもしましたが、完全に安心をして、何でも自由にすることができるようになったわけではありません。皆が、多かれ少なかれ、何らかの形で自粛をしていると言えるのだと思います。そして、その自粛の期間が長引く中で、多くの人が疲れを感じているのではないでしょうか。冬になって、感染が再び拡大して、改めて、「不要不急の外出を控える」、「帰省も控える」ということが叫ばれる中で、「もうやってられない」と思う人も多いかも知れません。そして、それは、高齢者も若者も、幼子も関係ないでしょう。皆が疲れているのだと思います。そして、そんな疲れのたまった状態で、新しい一年を迎えることになったということになります。

 人間には限界があります。体力にも限界があり、精神力にも限界があります。そして、その限界を超えるようなことになると、疲れて倒れます。それは、高齢者だけでなく、若者も同じです。疲れを知らないかのように遊ぶ幼子たちも、最後には疲れて寝ます。

 しかし、イザヤが今日の本文の中で、最後に言っていることは何でしょうか。それは、主である神様を待ち望む人が、新しく力を得るということではないでしょうか。神様を待ち望む人は、新しく力を得るのであり、鷲のように、翼を広げて上ることができるのであり、走っても力が衰えず、歩いても疲れないということです。何と素晴らしいことではないでしょうか。

 それでは、神様を待ち望むというのは、どういうことでしょうか。それは、信仰を持って待つということではないでしょうか。神様を信頼して待つということではないでしょうか。神様の時を期待して待つということではないでしょうか。神様のなさることは、すべて時にかなって美しいことを信じて、期待して待つということではないでしょうか。大切なことは、神様を待ち望むということです。

 しかし、待つというのは、どうでしょうか。とても難しいことなのではないでしょうか。あるいは、21世紀に生きる私たちは、大人も子どもも、過去のどの時代の人々よりも、待つことが苦手になっていると言えるのではないでしょうか。なぜなら、私たちは待たなくてもいい時代に生きているからです。

 電車や車、飛行機に乗るようになって、私たちはとても早く遠い所まで移動できるようになりました。しかも快適です。しかし、その一方で、ちょっと長い信号に引っかかったりすると、途端にイライラとしてしまいます。また、インターネットの登場によって、何でもすぐに調べることができるようになりました。学校の宿題やレポートなんかも、とても助かります。しかし、そのインターネットのスピードがちょっとでも遅くなると、これまた途端にイライラとしてしまいます。クリックして、次の画面に変わるまでが、何と長く感じることでしょうか。

 私たちは、待つことがとても苦手になっていることを、つくづく感じさせられます。そして、それは、信仰生活においても、例外ではないと言えるのだと思います。あるいは、神様を待ち望むことこそが、もしかしたら、何よりも難しいことと言ってもいいのかも知れません。

 今日の本文全体を見る時、神様の民であるイスラエルの人々も、神様を待ち望んでいなかったということが分かります。

 27節には、ヤコブという名前とイスラエルという名前が出てきました。イスラエルというのは、神様がご自分の民に与えられた名前です。そして、それは、ヤコブという人から始まりました。ヤコブが、神様からイスラエルという名前をいただいて、その子孫たちが、神様の民として生きてきたということです。

 しかし、その神様の民であるイスラエルの人々が、神様に文句を言っているようです。それは、「私の道は主に隠れ、↩ 私の訴えは私の神に見過ごされている」ということです。

 どういうことでしょうか。それは、簡単に言うと、神様がちゃんと自分たちのことを見ていてくださらないということです。「自分たちはとても苦しんでいるのに、神様はその自分たちを助けてくださらない、見ていてくださらない、自分たちの祈りを聞いてもくださらない、知らんぷりをしておられると」いうことです。具体的な状況は正確には分かりませんが、イスラエルの民は、自分たちの味方であるはずなのに、何もしてくれない神様に文句を言っているということです。そして、それは、彼らが疲れ切っているということでもあるのかも知れません。疲れがたまると、文句も多くなるということです。ちなみに、私の妻も、子どもたちも、疲れると、とても機嫌が悪くなって、文句ばかり言っています。

 イザヤは、イスラエルの民に対して、「知らないのか」、「聞いたことがないのか」と問いかけています。「知らないのか」、「聞いたことがないのか」というのは、「知っているだろう」、「聞いたことがあるだろう」ということです。「なのに、なぜ、そんなに文句を言っているのか」ということです。「神様が、知らんぷりをしていて、聞いていないのではなくて、あなたたちイスラエルの民の方が、神様のことを何も分かっていないんじゃないのか」ということです。

 主である神様は永遠なる方であり、地の果てまで創造された方です。それは、神様が、世界そのものを造られた方であり、支配しておられる方だということです。そして、神様は、決して疲れることなく、弱ることもない方です。それどころか、疲れた者に力を与え、精力のない者に勢いを与えてくださる方です。その神様が、愛するご自分の民に対して、知らんぷりをしたり、訴えを聞いてくださらないようなことはないということです。神様は、私たちには計り知れない英知によって、最善へと導いていてくださるということです。そして、大切なことは、その神様の時を待ち望むということです。神様を信頼して待ち望むということです。

 イザヤは、神様を待ち望む人が、新しく力を得ると言っています。新しく力を得るというのは、前提になっていることがあります。それは、力を失うことがあるということです。疲れて倒れることがあるということです。神様を信じているならば、いつも元気モリモリだというのではなくて、疲れ切って倒れ込んでしまうことがあるということです。信仰生活には、谷底に突き落とされるような時、暗くて長いトンネルの中を進むような時があるということです。しかし、神様を待ち望むならば、新しく力を得るのだということです。

 イザヤは、神様を待ち望む人が、新しく力を得ることについて、「鷲のように、翼を広げて上ることができる」と説明しています。「鷲のように」です。

 どうでしょうか。皆さんは、鷲が飛ぶ姿をご覧になったことがあるでしょうか。

鷲というのは、飛ぶ時に、翼をバタバタとさせないようですね。小鳥のように、翼をバタつかせて飛ぶのではなくて、翼を大きく広げて飛ぶということです。自分の力で飛ぶというよりは、風に乗って飛んでいる感じでしょうか。あるいは、自分で翼をバタバタしてではなくて、風に身を委ねて飛ぶからこそ、疲れないと言えるのかも知れません。

 風というのは、目には見えません。それは、私たちの目だけではなくて、鷲の目にも見えないでしょう。しかし、風というのは、あります。感じることができます。鷲は、その風に身を委ねて、風に乗って、舞い上がります。

 ちなみに、風というのは、聖書の中では、聖霊を示す場合がある言葉です。例えば、イエス様は、ニコデモという人との会話の中で、「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」と言っておられます。イエス様は、聖霊のことを風という言葉で説明されているわけですが、そもそもが、風と訳されている単語と聖霊と訳されている単語は、実はまったく同じです。

 待つというのは、簡単ではありません。そして、待つことができなくなると、不安になったり、焦ってジタバタしたりしてしまいます。自分で動きたくなります。しかし、一生懸命に自分で翼をバタつかせると、私たちは、神様の御声に耳を傾けることができなくなります。聖霊の風に乗ることができなくなります。そして、疲れてしまいます。

 大切なことは何でしょうか。それは、どれだけ走っても疲れないような体力を身につけることではありません。どんなストレスにも負けないような精神力を養うことではありません。そうではなくて、神様を信頼して待ち望むことです。神様の時を期待して待ち望むことです。そして、神様を信頼して待ち望むなら、私たちは神様の御声に耳を傾けることができます。神様ご自身に導かれて、聖霊の風に乗って、大空を舞い上がることができます。疲れて倒れることがあるとしても、新しい力が与えられて、大空に舞い上がることができます。

 2021年が始まりましたが、状況は去年と何も変わっていません。むしろ、より厳しい状況になっていると言ってもいいのかも知れません。しかし、神様はその状況のすべてを御手の中に置いておられます。そして、私たちを導いていてくださいます。

 改めて、永遠なる神様を信頼しながら、新しい一年の歩みに向かっていくことができることを、心から願います。そして、自分で翼をバタバタさせるのではなくて、静かに神様の御声に耳を傾けて、聖霊の風に乗って、神様ご自身に助けられて、大空に舞い上がりたいと思います。

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