礼拝説教から 2020年12月27日

  • 聖書箇所:マタイの福音書2章1-12節
  • 説教題:イエス様への贈り物

 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。(1-3節)

 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(11節)

 

0.はじめに

 新型コロナウィルスに揺れた2020年も、いよいよ最後の週になりました。途中で礼拝に集まることができなくなる期間があったりするなど、とても難しい一年でしたが、無事に今日の礼拝に集まることができて、心から感謝します。

 先週のクリスマス礼拝は、例年のように、積極的に人をお招きしたりすることができませんでしたが、それでも、クリスマスを覚えて、集まってくださった方々を見ながら、とても感謝することになりました。事前に収録した子どもたちの賛美や朗読劇、また、生の証しも、とても素晴らしかったと思います。難しい状況の中で、私たちの喜びとなり、力や励ましとなってくださるイエス様の素晴らしさを、改めて実感する礼拝だったように思います。

 その先週の礼拝では、ルカの福音書2章1-7節から、お生まれになったイエス様が飼葉桶に寝かせられた場面を見ながら、私たちに命を与えるパンとして、十字架への道を歩んでくださったイエス様の救いを分かち合いました。

 今日の本文であるマタイの福音書2章1-12節には、そのイエス様に会うために、遠い所から旅をしてきた三人の人のことが描かれています。一般的に「東方の博士」と呼ばれる人々です。クリスマスの劇などでは、イエス様が生まれた時の出来事のように描かれることがあるかも知れませんが、実際には、少し時間が経ってからの出来事だったと考えられています。

1.ヘロデ王の動揺

 イエス様がお生まれになった時、クリスマスの舞台であるユダヤの地は、ヘロデという王が治めていました。「ヘロデ大王」と呼ばれたりする人です。

 旧約聖書の時代、ダビデ王によって確立されたイスラエル王国は、ソロモン王の後、南北に分裂して、最終的には南北ともに滅亡することになりました。先に、北側の王国が滅亡し、後に、南側の王国が滅亡しました。南側の王国が滅亡したのは、紀元前587年です。そして、その後、ユダヤ人たちは、独立を勝ち取った期間もありましたが、ほとんどの期間は、外国の支配を受けることになります。最終的にはローマ帝国の支配を受けることになりました。そして、そのローマ帝国の支配の中で力を蓄えたのが、ヘロデの父親であり、ヘロデ自身でした。ヘロデは、ローマ帝国の権力者たちと結びつきながら、「ユダヤ人の王」という称号を手に入れました。紀元前37年のことです。

 ちなみに、ヘロデ王というのは、異常とも言えるほどに、警戒心の強い人だったようです。自分を脅かす人々、あるいは、少しでも脅かしそうな気配のある人々を、次々に抹殺して、王の地位を守り続けました。それは、自分の妻や子どもたちであっても、例外ではなかったようです。時の最高権力者であるローマ皇帝アウグストゥスは、「ヘロデの息子であるよりは、豚であるほうがましだ」と語ったと伝えられています。「まし」というのは、「安全だ」ということです。それほどに、警戒心が強い人だったということです。

 イエス様がお生まれになったのは、そのヘロデ王の時代でした。そして、イエス様がお生まれになった時に、東の方から博士たちがエルサレムにやってきました。

 「博士」というと、現在の私たちの社会では、大学のような所で研究をしたり学生たちに教えたりするような立場の人々もいれば、近所の物知りなおじさんやおばさんのような人々もいるかも知れません。私は、今日の本文を見て、「いったいどんな博士たちなんやろう」ということを思いました。

 「博士たち」と訳されているギリシア語の単語を調べると、星占いと関わっていたような人々と推測することができます。天文学の博士たち、あるいは、占星術の博士たちとでも言えば、いいでしょうか。いずれにしろ、三人の博士たちは、自分たちの国では、力のある人々だったということになるのかも知れません。

 その博士たちが尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」そして、博士たちの言葉を聞いたヘロデ王は、動揺しました。動揺するというのは、心が揺れ動くことであり、不安になることです。

 どういうことでしょうか。それは、ヘロデが、王である自分の地位が脅かされることを感じたということではないでしょうか。ヘロデは、博士たちの言う「ユダヤ人の王」の登場によって、自分の地位が危険にさらされることを感じたということではないでしょうか。そして、それは、ヘロデが選択や決断を迫られたということを意味しています。それは、「生まれた赤ちゃんを新しい王として迎えるか」、それとも、「あくまでも、自分が王であり続けるか、自分が王であり続けるために、生まれた赤ちゃんを追い払うか」という選択であり決断です。なぜなら、一つの国に二人の王が立つことはできないからです。そして、今日の本文をずっと見ていくと、ヘロデは、自分が王であり続けるために、生まれた赤ちゃんを殺してしまおうとすることが分かります。

 クリスマスというのは、何でしょうか。それは、イエス様が「ユダヤ人の王」としてお生まれになった出来事だということです。イエス様が「ユダヤ人の王」としてお生まれになったというのは、イエス様が真の王としてお生まれになったということです。そして、そのクリスマスを喜び祝うというのは、イエス様こそが真の王であることを認めて受け入れるということです。イエス様を自分の王として、「私の王」として、認めて受け入れるということです。真の王であるイエス様の支配を受け入れて、イエス様に導かれて生きるということです。

 もちろん、王と言っても様々です。良い王もいれば、悪い王もいることでしょう。

 福音書を最後まで見ていくと、真の王であるイエス様は、ご自分の民を守るために、生かすために、十字架にかかられたことが分かります。イエス様は、ご自分が王であり続けるために、ご自分の民を傷つける王ではなくて、ご自分の民を守り生かすために、ご自分の命を差し出す王だということです。

 イエス様がお生まれになった時、そこにはヘロデ王の姿がありました。最初のクリスマスの物語には、ヘロデ王の姿がありました。新しくお生まれになった真の王の前で、自分が王であり続けることにこだわるヘロデ王の姿がありました。

 先週は、私たちも、礼拝の中でクリスマスを喜び祝いました。その私たちの喜び祝うクリスマスは、どうでしょうか。そこにヘロデ王の姿はないでしょうか。私たち自身がヘロデ王のようになっていることはないでしょうか。

 もちろん、私たちはどこかの国の王であることはないでしょう。しかし、クリスマスを喜び祝いながら、真の王であるイエス様の支配を受け入れるのではなく、あくまでも、自分自身にこだわり続けているのなら、私たちもまた、ヘロデのような王であるということになるのだと思います。真の王としてお生まれになったイエス様の支配に自分を委ねるのではなくて、自分の立場にこだわり、自分の願いにこだわり、自分を支える何かにこだわり続けるのなら、私たちもまた、ちっぽけな自分の国の王であり続けようとしているに過ぎないということです。

 私たちはどうでしょうか。

 今日の礼拝に集まった一人一人が、私たちを愛するが故に、私たちを守り生かすために、ご自分の命を差し出してくださったイエス様を、王として心の中にお迎えすることができることを願います。

2.黄金、乳香、没薬

 博士たちは、幼子のイエス様が母であるマリアと一緒にいるのを見ると、ひれ伏して礼拝しました。そして、贈り物として、黄金、乳香、没薬を献げました。黄金は文字通りの黄金でしょうか。乳香や没薬というのは、私はよく分からないのですが、聖書の辞書で意味を調べると、どちらも「かんらん科の植物の樹脂」と説明されていました。乳香は、古代のエジプトでは、神に献げる薫香として使われ、没薬はミイラ作りになくてはならないものだったようです。いずれにしろ、黄金、乳香、没薬というのは、とても高価な物だということになります。博士たちは、とても高価な物を献げたということです。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。イエス様を礼拝するためには、とても高価なものを献げなければならないということでしょうか。イエス様を礼拝するためには、手ぶらではいけない、手ぶらではいけないどころか、とても高価な物が必要だということでしょうか。

 博士たちは、星占いに関わっていたような人々だということを言いました。天文学の博士たち、占星術の博士たちです。そして、その博士たちにとって、黄金、乳香、没薬というのは、星占いの道具だったと考えられたりもしているようです。それは、博士たちにとっては、自分たちの生活を支えるものだったと言ってもいいでしょう。

 つまり、どういうことでしょうか。それは、博士たちが、ただ単に、とても高価な物を献げたのではないということになるのではないでしょうか。博士たちは、ただ単に、高価な物を贈り物としてイエス様に献げたのではないということです。そうではなくて、自分たちの人生を支えてきたものを献げたということです。あるいは、それは、博士たちの人生そのもの、生き方そのものだったと言ってもいいのかも知れません。博士たちは、黄金、乳香、没薬という高価な物を献げたのではなくて、黄金、乳香、没薬によって、自分たちの人生そのものを献げたということです。自分たちの生き方そのものを献げたということです。そして、それは、博士たちが、それまでの人生や生き方に別れを告げて、新しい人生の一歩を踏み出そうとしているということを意味しています。あるいは、クリスマスを喜び祝うというのは、古い人生に別れを告げて、真の王であるイエス様を中心として、イエス様に導かれて生きる新しい人生のスタート地点に立つことと言ってもいいのではないでしょうか。

 私たちはどのような人生を歩んできたでしょうか。どのような人生を歩んでいるでしょうか。立派な人生でしょうか。誇らしい人生でしょうか。あるいは、恥ずかしくなるような人生でしょうか。「イエス様が喜んで受け取ってくださるような献げ物なんて何もない」というような人生でしょうか。

 大切なことは、たくさんのものを献げるということではありません。珍しい物を献げるということではありません。たくさんの時間を献げるということでもありません。熱心に奉仕をするということでもありません。そうではなくて、自分自身を献げるということです。自分自身を王とする古い自分の人生や生き方を献げて、真の王であるイエス様に自分自身を委ねることです。真の王であるイエス様の支配を受け入れて生きるということです。イエス様は、その私たちを、最高の贈り物として、かけがえのない贈り物として、受け取ってくださいます。

 私たちがどのような人生を歩んできたかと関係なく、イエス様は、ご自分の所に来た私たちを、喜んで受け入れてくださいます。「何を持って来たか」、「どんなことをしてきたか」ではなくて、私たち自身を喜んで受け入れてくださいます。そして、私たちの新しい人生を導いてくださいます。元気な時も、苦しい時も、悩む時も、イエス様を見ていないような時すらも、私たちと共に歩んでくださいます。

 繰り返しになりますが、クリスマスの礼拝に集まる私たち一人一人が、真の王であるイエス様を、「私の王」として信じ受け入れることができることを願います。そして、どのような時にも共にいてくださるイエス様に導かれて歩む人生の祝福を味わって喜びたいと思います。

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