礼拝説教から 2020年12月20日

  • 聖書箇所:ルカの福音書2章1-7節
  • 説教題:飼葉桶に寝かせられて

 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

0.はじめに

 クリスマスおめでとうございます。

 今から約二千年前、ユダヤのベツレヘムという町で、私たちの救い主であるイエス・キリストがお生まれになりました。クリスマスはそのイエス様の誕生を記念する日です。お誕生日会と言ってもいいでしょうか。

 例年なら、12月には、いろいろな所で、クリスマスの飾りつけがなされたり、様々なイベントが開催されたりしているでしょうか。しかし、今年は、新型コロナウィルスの影響で、クリスマスの過ごし方も完全に変わりました。栗東キリスト教会でも、例年なら、今日は、クリスマス・セレブレーションという名前で、食事や出し物を準備して、盛大に祝っていますが、今年は礼拝のみということになりました。

 少し寂しい感じもありますが、それでも、周りの状況と関わりなく、周りの状況がどれほど変わっても、クリスマスがクリスマスであることには何の変わりもないことを覚えたいと思います。クリスマスの喜びは決して損なわれるものではないということです。

 今日は、そのクリスマスの物語の中心的な場面、イエス様がお生まれになった場面を見ながら、イエス様誕生の恵みを覚えたいと思います。

1.

 まず、簡単に、今日の本文全体を見ておきたいと思います。

 皇帝アウグストゥスという名前が出てきました。「尊厳ある者、尊敬されるべき者」というような意味になるそうですが、本名はオクタヴィアヌスと言います。ローマ帝国の初代皇帝オクタヴィアヌスです。そして、そのローマ帝国の皇帝アウグストゥスが、「全世界の住民登録をせよ」という勅令を出したようです。

 「住民登録」というのは、今日の日本で言えば、国勢調査のようなものだと考えられています。各地の人口を把握して、国の様々な政策を立てるために役立てていこうとしたのだと思います。住民登録はとても大切なことでした。

 そして、その住民登録というのは、「自分の町」で行うものだったようです。そして、「自分の町」というのは、実際に住んでいる町ではなくて、本籍地のような所になりそうです。それで、人々は住民登録のために移動をすることになりました。

 アウグストゥスがローマ帝国の皇帝だった時、クリスマスの舞台であるユダヤの地は、ローマ帝国の支配下に置かれていました。それで、ヨセフとその妻であるマリアも、住んでいたガリラヤのナザレという町から、本籍地であるユダヤのベツレヘムという町へ移動しなければなりませんでした。

 ユダヤのベツレヘムというのは、旧約聖書に登場するイスラエル王国の偉大な王ダビデの出身地でした。そのダビデの家系に生まれたヨセフは、すでに妊娠をしている妻のマリアを伴って、ダビデの町であるベツレヘムに向かったということです。そして、そのベツレヘムの町で、イエス様はお生まれになりました。

 もしかしたら、予定よりもちょっと早かったということになるのでしょうか。正確なことは分かりませんが、マリアはベツレヘムで赤ちゃんを産むことになりました。しかし、宿屋はどこも人がいっぱいだったのでしょうか。宿屋には、マリアが赤ちゃんを産む所がありませんでした。そして、恐らくは「家畜小屋で」ということになるのだと思います。お生まれになったイエス様は飼葉桶に寝かせられました。

 世界で最初のクリスマス、私たちの救い主であるイエス様誕生の出来事は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に、家畜小屋で起こりました。21世紀の現在に至るまで、時代と場所を越えて、多くの人々に祝われてきたクリスマスの出来事は、王様の宮殿のような場所で起こったのではありませんでした。小さくても、きれいな部屋の中ででもありません。家畜小屋の中で起こりました。そして、それは、広大な領土を支配するローマ皇帝アウグストゥスの目から見ると、何の意味もない出来事だったということになるのかも知れません。しかし、福音書を書いているルカが訴えているのは、このイエス様こそが、真の王だということです。ローマ皇帝のアウグストゥスではなくて、イエス様こそが、暗闇に光をもたらし、人々に平和と喜びをもたらす真の救い主だということです。だからこそ、イエス様誕生の出来事であるクリスマスは、21世紀の現在に至るまで、時代と場所を越えて、祝われてきたということになるのではないでしょうか。

2.

 今日は、説教のタイトルを、「飼葉桶に寝かせられて」としました。救い主であるイエス様は飼葉桶に寝かせられたということです。あるいは、飼葉桶のような物にしか、寝かせてもらうことができなかったと言った方がいいのかも知れません。

 ちなみに、飼葉桶というのは何でしょうか。それは家畜の餌を入れる桶です。家畜が餌を食べる時に使う入れ物、それが飼葉桶です。人間である私たちであるならば、ご飯の茶碗や様々な食器ということになるでしょうか。いずれにしろ、母親のマリアは、赤ちゃんのイエス様を飼葉桶に寝かせました。家畜の餌を入れる飼葉桶に寝かせました。

 どういうことなのでしょうか。その意味する所の一つは、イエス様が食べられるためにお生まれになったということではないでしょうか。イエス様は、食べられるためにお生まれになったということです。

 今日は、ルカの福音書を見ていますが、同じ新約聖書のヨハネの福音書を見ると、後に、大人になったイエス様は、いくつかの言葉で、ご自分のことを紹介しておられることが分かります。

 例えば、「世の光」です。イエス様は、ご自分のことを、「わたしは世の光です」と紹介されました。イエス様は、闇の中に輝く光としてお生まれになったということです。

 そして、イエス様は、同じように、ご自分のことを、「わたしはいのちのパンです」と紹介しておられます。ちなみに、イエス様がお生まれになった町、ベツレヘムは「パンの家」という意味になるそうです。

 パンというのは、ごはんと言い換えてもいいでしょうか。もちろん、お米だけではなくて、肉や魚、野菜や果物、私たちの食べ物全般と言ってもいいのかも知れません。そして、そのごはんというのは、私たちが生きていくために必要なものです。

 10月頃だったでしょうか。今年もノーベル賞の発表がありました。そして、その中の一つ、平和賞に選ばれたのは、WFPという国連の機関でした。最近は、何文字かのアルファベットで表される名前がとてもたくさんあって、よくこんがらがってしまいますが、WFPというのは、日本語では「世界食糧計画」ということになるようです。世界各地で食糧支援の活動を行っておられるようです。世界には、生きるために必要な食べ物のない人々が、現在もたくさんいるのであり、その人々に対する支援の活動が評価されたということになるでしょう。

 ごはんがなければ、私たちは生きていくことができません。どれだけきれいごとを言っても、ごはんがなければ、どうしようもないわけです。ごはんは、私たちが生きていくために、決して欠かすことのできないものです。私たちの命そのものです。そして、その生きていくために必要なごはんとして、命のパンとして、イエス様はお生まれになったということです。私たちに食べられるために、私たちの命となるために、イエス様はお生まれになってくださったということです。そして、それは、イエス様が、神様が、私たち一人一人のことを大切に思っていてくださるからに他なりません。私たち一人一人のことを愛していてくださるからに他なりません。神様は、私たち一人一人を愛していてくださるからこそ、私たち一人一人を大切に思っていてくださるからこそ、私たちの命となるために、飼葉桶に寝かせられる赤ちゃんとして、生まれてくださったということです。そして、十字架への生涯を歩んでくださったということです。神様を拒み、神様なしに生きる罪人の私たちのために、十字架の死と復活によって、赦されて、新しく生きる道を開いてくださったということです。命のパンであるイエス様を食べるというのは、そのイエス様を、自分の救い主として信じ受け入れることです。

 ちなみに、教会の礼拝では、聖餐式というものが行われます。具体的には、パンとブドウの汁をいただくことです。パンは、十字架の上で引き裂かれたイエス様の体、ブドウの汁は、流された血です。イエス様を信じて洗礼を受けたクリスチャンは、具体的に、命のパンであるイエス様をいただいて養われていくということです。

 世の中には実に様々な食べ物があります。甘いもの、辛いもの、あっさりしたもの、こってりしたもの、様々な食べ物があります。それらは、私たちが生きるために必要なものであり、大切なものです。また、楽しむことのできるものです。

 しかし、神様の愛を教え、神様に支えられて生きる命へと導く食べ物は、たった一つしかありません。この世界だけでなく、死んだ後に至るまで、神様と共に永遠に生きる命を与える食べ物は、たった一つしかありません。それは、イエス・キリストです。飼葉桶に寝かせられた赤ちゃん、十字架への道を歩んでくださったイエス様です。そして、私たちには、そのイエス様の命が必要だということです。だからこそ、イエス様誕生の出来事であるクリスマスは、私たちの喜びだということです。周りの状況と関わりなく、クリスマスの喜びは、決して損なわれることがないということです。

 今年は、新型コロナウィルスの影響で、一緒においしい食事を楽しむということができません。それは、とても残念なことです。

 しかし、何よりも大切なことは、イエス様ご自身を食べることです。楽しい交わりの中で、おいしい料理を食べながら、イエス様に感謝することも、素晴らしいことですが、それ以上に大切なことは、イエス様ご自身をいただくことです。私たちが生きるために、そして、自分自身にも、イエス様が必要な方であることに気づかされて、イエス様の命をいただく者になることです。

 新型コロナウィルスの影響で、今年の冬は例年以上に厳しさを感じさせられることになるでしょうか。神様がそのすべての問題を一気に解決してくださることはないかも知れません。しかし、神様はその中で苦しむ私たち一人一人と共にいてくださいます。私たちの命となって、私たちを養ってくださいます。

 今日のクリスマス礼拝に集まった一人一人が、飼葉桶に寝かせられたイエス様を、十字架への生涯を歩んでくださったイエス様を、しっかりと見つめることができることを願います。そして、そのイエス様の愛に気づかされて、イエス様が自分にも必要な方であることに気づかされて、命のパンであるイエス様をいただく者になることを願います。だからこそ、そのイエス様の誕生を心から喜び祝う者になることを、心から願います。

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