礼拝説教から 2020年12月13日

  • 聖書箇所:ルカの福音書1章26-38節
  • 説教題:お言葉どおり

 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。(35-38節)

 

 ガブリエルという名前の天使が、神様から遣わされて、マリアの所に来ました。天使はマリアに「おめでとう」と言いました。それは、主である神様がマリアと共におられるからだということでした。

 「おめでとう」と言われたら、何と答えるでしょうか。普通なら、「ありがとう」ではないでしょうか。しかし、マリアは戸惑ったようです。「いったい何の挨拶か」ということです。確かにそうでしょう。天使がいきなり現れて、「おめでとう」と言われても、戸惑うのは、当たり前と言えば、当たり前のことなのかも知れません。

 そして、そのマリアの反応を、もしかしたら、予想していたでしょうか。天使はちょっと長めの説明をします。

 天使は、神様の恵みによって、マリアが妊娠することを告げました。そして、イエスと名づけることを命じました。その男の子は、大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれ、また、神様からダビデの王位を与えられ、ヤコブの家を治めるのだということです。

 いと高き方というのは、神様のことでしょう。その子どもというのは、神様の子どもということになります。人間の子どもが人間であるように、神様の子どもは神様です。その神様の子どもを、マリアは産むのだということです。

 マリアは天使の言葉をどれほど理解できたでしょうか。正確なことは分かりませんが、いずれにしろ、その反応を見ると、マリアは、男性との性的な関係を持っていない処女の自分が、子どもを産むことはできないと思ったようです。

 クリスマスの出来事、救い主イエス様の誕生は、処女であるマリアによって実現しました。それは、人間の理解や常識を超えた出来事です。そして、それは、現在の私たちにとってだけではありません。天使の言葉を聞いたマリア本人にとっても、同じだったということです。マリアもまた、処女である自分が子どもを産むというのは、ありえないことだと思っていたということです。そして、そのマリアに、天使は最後の説明をしました。

 天使は、聖霊が、いと高き方である神様の力が、マリアを覆うのだと言いました。マリアの妊娠は、聖霊による、神様の力によるのだということです。

 そして、天使は、マリアの親類でもあるエリサベツが妊娠した出来事を語ります。それは、すでにマリアも知っていたことでしょう。ずっと不妊と言われていて、しかも高齢のエリサベツが、妊娠して六か月になるという出来事です。そのエリサベツの妊娠を、天使は、神様の力と結び付けているわけです。エリサベツは神様の力によって妊娠をしたのだということです。神様にとって、不可能なことは、何もないということです。

 どうでしょうか。神様には、不可能なことが、何もないのでしょうか。

 新約聖書はギリシア語で書かれていますが、「不可能なこと」の「こと」と訳されている単語は、基本的には「語られたこと」という意味になります。「語られた言葉」ということです。すぐ後の所で、マリアは「あなたのおことばどおり」と言っていますが、その「おことば」と訳されている部分でも、実は同じ単語が使われています。

 つまり、どういうことでしょうか。神様には、不可能なことが何もないというのは、ただ単に、神様は何でもできるという意味ではありません。そうではなくて、神様の語られたことは、必ず実現するということです。神様は、ご自分の語られたことを、必ず実現させる方だということです。私たちの目には、どれだけ不可能なことに見えるとしても、神様はご自分の言葉を必ず実行されるということです。

 クリスマスの出来事、イエス様誕生の出来事は、何の前触れもなく、いきなり起こったことではありません。旧約聖書の中で、預言者たちを通して語られてきたことです。神様ご自身が約束されていたことです。その神様の言葉の通りに、救い主イエス様はお生まれになったということです。聖霊によって、処女であるマリアを通して、お生まれになったということです。あるいは、クリスマスというのは、神様の言葉の確かさ、神様の言葉は信頼できるということを、確認することのできる出来事だと言ってもいいのかも知れません。

 私は、今日の本文を見ながら、確かな言葉と出会う、信頼することのできる言葉と出会うというのは、とても大切なことだなぁということを感じます。

 私たちは、どのような言葉と出会っているでしょうか。確かな言葉、信頼することのできる言葉でしょうか。あるいは、不確かな言葉、信頼することのできない言葉でしょうか。「言ってることと、やってることが違うやん」と、突っ込みたくなるような言葉でしょうか。

 確かな言葉、信頼することのできる言葉というのは、私たちの歩みを支えてくれます。私たちを生かします。しかし、確かでない言葉、信頼することのできない言葉は、どうでしょうか。確かでない言葉、信頼することのできない言葉に取り囲まれる時、私たちは、何を根拠にして行動すればいいのかも分からなくなります。逆に、不信感ばかりが増してくるということになるのかも知れません。

 兄弟の影響があったでしょうか。私は小学校に入った頃から野球が好きでした。4年生の時には、少年野球のチームにも入りました。しかし、チームに入ってから、私は野球を楽しむことができなくなりました。監督やコーチから怒られてばかりだったからではありましたが、何よりも困ったのは、コーチによって言うことが違ったことです。あるコーチは、「こうやって投げろ、打つ時はこう構えろ」と言います。しかし、別のコーチからはまったく違うことを言われます。投げること、打つことだけではありません。何かにつけて、違うことを言われます。私は、何が正しいのか、まったく分からなくなりました。誰の言うことに従って練習すればいいのかも分からなくなりました。そして、いつもビクビクと震えながら練習をしていました。ちなみに、このような指導で、自分のプレーを見失うようなことは、プロ野球の世界でもあったりするようです。

 大切なことは、何でしょうか。それは、確かな言葉と出会うことです。信頼することのできる言葉と出会うことです。そして、クリスマスの出来事を見つめる時、私たちは、そこで確かな言葉、信頼する言葉と出会うことができます。神様の言葉の通りにお生まれになった赤ちゃんのイエス様を見つめながら、私たちは、決して変わることのない神様の言葉、神様の確かな言葉と出会うことができます。私たちの歩みを支える言葉、私たちを生かす命の言葉と出会うことができます。

 天使の言葉を聞いたマリアは、自分が主である神様に仕える者であることを認めながら、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言いました。

 福音書をずっと見ていく時、マリアは、必ずしも、天使の言葉を完全に理解していたわけではないことが分かります。マリアは、天使の言葉を完全に理解したわけではありません。しかし、神様の言葉が確かであることを信じて受け入れました。マリアは、理解しきることこそできないけれども、確かであることを確信して、神様の言葉を受け入れたということです。それが、信じることだと言ってもいいのかも知れません。

 繰り返しになりますが、マリアは、「おことばどおり、この身になりますように」と言いました。神様の言葉通りのことが、自分の身に起こることを願ったということです。そして、それは、マリアが、神様の言葉によって、自分が変えられることを受け入れたということを意味しています。言い換えると、マリアは、自分を神様の言葉に委ねたということです。マリアは、自分を神様に委ねたということです。

 「座右の銘」というものがあります。いつも自分の心に留めておいて、戒めや励ましとする短い言葉です。ことわざや有名人の言葉の中から選ばれたりするでしょうか。聖書の言葉が選ばれたりすることもあると思います。いずれにしろ、この座右の銘というのは、自分が選ぶものです。気に入った言葉、役に立つ言葉を選んで、自分の人生に役立てていくものです。そして、座右の銘を持つというのは、素晴らしいことです。自分の人生に役立つ言葉、自分の人生の糧となる言葉と出会うことは、素晴らしいことです。

 しかし、マリアが、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったことは、神様の言葉を信じることは、座右の銘を持つこととは、根本的に異なります。

 マリアは、素晴らしい神様の言葉を自分の人生に役立てようとしたのではありません。その反対に、神様の言葉に自分を委ねたということです。神様の言葉によって自分が変えられることを受け入れたということです。自分が自分のものでなくなることを受け入れたということです。そして、そのマリアを通して、クリスマスの出来事は実現しました。

 ちなみに、今日の本文ではありませんが、マリアは、自分が、どの時代の人々からも、「幸いな者」と呼ばれると歌っています。自分を神様の言葉に委ねていくことこそ、幸いな生き方だということです。

 繰り返しになりますが、私たちはどのような言葉と出会っているでしょうか。テレビの中で、インターネットの中で、与えられている関係の中で、私たちはどのような言葉と出会っているでしょうか。もしかしたら、確かな言葉、信頼することのできる言葉、私たちの歩みを支える言葉とは、なかなか出会えないのが、私たちの現実ではないでしょうか。

 クリスマスの出来事は、神様の確かな言葉との出会いを与えてくれます。そして、その確かな言葉を信じ受け入れて、神様の言葉によって変えられることを受け入れていく時、私たちの歩みは神様ご自身によって支えられます。不確かな言葉に満たされた世界の中で、鋭い刃物のような言葉が飛び交う世界の中で、私たちの歩みは神様ご自身によって支えられます。

 来週はいよいよクリスマスの礼拝です。クリスマスに向けて、飼葉桶に寝かせられた赤ちゃんのイエス様を見つめながら、神様の確かな言葉を信じて、マリアとともに、自分を神様に委ねていきたいと思います。そして、赤ちゃんのイエス様を喜びながら、イエス様によって、変えられて生かされる幸いな人生を歩みたいと思います。

コメントを残す