礼拝説教から 2020年12月6日

  • 聖書箇所:マタイの福音書1章18-25節
  • 説教題:神様が私たちと共におられる

 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。↩ 「見よ、処女が身ごもっている。↩ そして男の子を産む。↩ その名はインマヌエルと呼ばれる。」↩ それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(22-23節)

 

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 先週からアドベントに入っています。今年もアドベントの期間は、クリスマスに関わる箇所から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思っています。

 先週は、イザヤ書9章1-7節を見ました。旧約聖書の中で、救い主であるイエス様の誕生が預言された箇所の一つです。その中で、イエス様は、闇の中に輝く光であることが示されました。クリスマスは、闇の中にある私たちを照らす光として、イエス様がお生まれになった出来事だということです。

 今日は、新約聖書に移って、マタイの福音書1章18-25節を開きました。イエス様の誕生にまつわるエピソードの一つが紹介されています。具体的には、天使が、イエス様の育ての親となるヨセフに対して、彼の婚約者であるマリアの妊娠を告げる場面です。難しい言葉で受胎告知と言われたりしているでしょうか。

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 イエス・キリストは、ヨセフとマリアという若い夫婦の間に生まれました。しかし、それは、聖霊によってでした。聖霊というのは、神様の霊ということです。マリアは、正式な結婚をする前に、神様ご自身の力によって、イエス様を妊娠したということです。そして、マリアは、このことを、すでに、天使から告げられていました。

 その一方で、婚約者のヨセフは、どうだったでしょうか。自分の身に覚えのない所で、婚約者が妊娠をしたわけです。大変なことです。もしかしたら、マリアから、天使の言葉について聞かされていたかも知れませんが、いずれにしろ、随分と悩んだようです。最終的に、ヨセフは、ひそかにマリアを離縁することにしました。

 しかし、今度は、そのヨセフの夢の中に、天使が現れました。そして、その夢の中で、ヨセフは、マリアの妊娠が聖霊によるものであること、生まれてくる男の子がご自分の民を罪から救う方であること、マリアを妻として迎え、子どもにイエスと名づけるべきことを告げられました。ヨセフは、天使の言葉に従って、マリアを妻に迎え、生まれてきた男の子にイエスと名づけました。

 このエピソードを紹介しているマタイは、イエス様誕生の出来事を、旧約聖書の預言の成就と結び付けています。それは、「見よ、処女が身ごもっている。↩ そして男の子を産む。↩ その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉です。

 預言者は、救い主イエス様について、「インマヌエルと呼ばれる」と言っています。インマヌエルというのは、日本ではあまり馴染みのない言葉だと思いますが、旧約聖書の言葉であるヘブル語の単語の音を、そのままカタカナにしたものです。意味は、「神が私たちとともにおられる」ということです。

 インマヌエル、神様が私たちと共におられる、どうでしょうか。実に簡単な表現ですが、私はすごいことだなぁということを思います。

 共にいる、誰かと一緒にいるというのは、どうでしょうか。それは、とても大変なことなのではないでしょうか。とても難しいことなのではないでしょうか。

 私たち夫婦は結婚して8年が経ちました。その8年の結婚生活を振り返ると、離婚の危機と言えるほどの出来事はなかったように思いますが、大変だったなぁということを思います。テレビのリモコンが飛んでくるなどという話をしたことがあったでしょうか。よくケンカをしたなぁということを思います。ほとんど口も利かずに、何日かを過ごすこともあったりします。

 私たちは、どこか遠く離れた国の誰かによって、悩み苦しまされることは、ほとんどありません。もちろん、政治家や大企業のトップなど、大きな力を持つ人々によって、私たちの生活が影響を受けるということはあるでしょう。しかし、どこか遠く離れた国の誰かと、見たいテレビのことでケンカをするとか、互いの趣味や性格が合わなくて悩むなどということはないわけです。浮気も虐待もイジメも、ささいなケンカも、共に生きる関係の中で起こる出来事です。夫や妻、親や子ども、兄弟姉妹、学校の先生や友だち、地域の人々や同じ職場の人々、そして、教会、私たちは、共にいる人々との関係の中で、傷つけたり傷つけられたりしながら生きているのではないでしょうか。だからこそ、私たちは、共にいるよりも、一人でいる方が楽じゃないかと思ったりもするわけです。

 問題があって、離れることは簡単です。その反対に、問題を抱えながら、共にいることは、共に生きることは、決して簡単なことではありません。とても難しいことです。そして、それは、神様にとっても、同じことなのではないでしょうか。新約聖書の福音書を見ていくと、罪人の私たちと共にいることは、神様にとっても、決して簡単なことではないということが分かります。

 クリスマスの出来事は、家畜を飼うような場所で起こりました。それは、人間の子どもが生まれる所としては、決して相応しくありません。イエス様は、生まれる時から、人々の中に居場所を見つけることができませんでした。さらに、幼子のイエス様は、ヘロデという王から命を狙われたりもしました。成長してからも、権力を持った人々から、妬まれて、命を狙われました。そして、最終的には、罪人として、十字架にかけられることになりました。何の罪もないにもかかわらず、罪人として、十字架にかけられることになりました。

 罪人の私たちが、共にいるということ、共に生きるということ、それは決して簡単なことではありません。そして、それは、神様にとっても同じです。神様にとっても、罪人の私たちと共にいることは、決して簡単ではないということです。簡単ではないどころか、命がけのことです。神様は、まさに命がけで、私たちの世界にお生まれになってくださったということです。

 どうしてでしょうか。それは、神様が私たちを愛してくださったからではないでしょうか。愛する私たちと共に生きることを願われたからではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、神様は、私たちと共にいてくださいます。神様は、遠く離れた天から、私たちを見下ろしておられるのではありません。私たちと共におられるということです。罪人の私たちと共にいてくださるということです。そして、それが、インマヌエルと呼ばれる御子イエス様の誕生によって実現する神様の救いだということです。クリスマスを通して実現していく神様の救いというのは、神様が、遠く離れた天から、ひょいと問題を解決してくださるということではなくて、問題だらけの私たちと共にいてくださることそのものだということです。神様が罪人の私たちと共にいてくださる、そのこと自体が私たちの救いだということです。

 教会では、いつも罪ということを言います。すべての人は罪人だと言います。そして、その罪というのは、根本的には、神様を拒むことに他なりません。この全世界を造り、私たち一人一人を造られた神様との関係を拒むことです。積極的に否定するにしろ、無関心であるにしろ、その形は様々ですが、神様との関係の中に生きるのではなくて、神様なしに生きること、それが、聖書で言われている罪の本質です。

 皆さんは、朝の連続テレビ小説を見ておられるでしょうか。新型コロナウィルスの影響で、長い中断期間もあった『エール』が終わり、『おちょやん』が始まりました。浪花千栄子という女優さんをモデルにした女性の人生を描くドラマです。ドラマの中では、千代という名前です。

 第一週目は、早くに母親を亡くし、ろくに仕事もしない父親の仕事を手伝いながら、小学校にも通わせてもらうことのできない幼少期が描かれていました。最終的には、継母に嫌われて、道頓堀の芝居小屋へ奉公に出されます。客観的に見ると、とてもかわいそうな境遇ですが、千代ちゃんは、「うちは、かわいそやない」と言い張っていました。すごいですね。とても気の強い女の子です。そして、最後に父親と別れる時にも、「うちは、捨てられたんやない、うちが、捨てたんや」と言い放っていました。とても悲しい言葉ですが、千代ちゃんの言葉を聞いた父親は、どんな思いだったでしょうか。

 もちろん、捨てたのは、千代ちゃんではありません。親が千代ちゃんを捨てたわけです。千代ちゃんは捨てられたわけです。

 神様と私たちの場合はどうでしょうか。神様と私たちの場合は、その反対になるのではないでしょうか。神様が私たちを捨てたのではありません。私たちが神様を捨てたということです。私たちが神様に対して、「あんたなんか、いらん」と言い放って、自分勝手に生きているということです。それが、私たちの罪だということです。

 悲惨な出来事ばかりの現実を見る時、「神様がおられるなら、どうしてこんなことが」と、私たちは言うかも知れません。

 実際には、どうなのでしょうか。それは、私たちが神様を捨てたということではないでしょうか。私たちが、神様なしに生きる道を選んで、その結果として、悲惨な出来事が繰り返される世界を生み出したということです。闇に包まれた世界を生み出したということです。しかし、その私たちの所に、神様は来てくださったということです。

 神様は何をしに来られたのでしょうか。私たちの頬っぺたをひっぱたくためでしょうか。そうではありません。それは、私たちと共にいるためです。私たちと共に生きるためです。神様は、私たちと共にいるために、私たちと共に生きるために、人間の赤ちゃんとして生まれてくださったということです。そして、それは、神様が私たちを愛していてくださるからに他なりません。神様は、ご自分を捨てた私たちを愛していてくださるからこそ、人間の赤ちゃんとして生まれてくださったということです。それが、クリスマスの出来事だということです。そして、その赤ちゃんを自分の救い主として受け入れて生きることが、クリスマスを喜び祝うということです。神様の方を向いて、神様と共に生きることが、クリスマスを喜び祝うということです。

 私たちは、どうしてクリスマスを喜び祝うのでしょうか。習慣でしょうか。みんながそうしているからでしょうか。自分の願いを聞いてもらうためでしょうか。

 神様が私たちと共にいてくださるということ、それは決して当たり前のことではないということを覚えたいと思います。そして、クリスマスを待ち望みながら、私たちから捨てられたにもかかわらず、私たちと共にいることを願って、私たちの世界にお生まれになってくださった神様の愛を覚えたいと思います。神様から愛されている者であることを覚えながら、神様の方を向いて、クリスマスを喜び祝うことができればと思います。

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