礼拝説教から 2020年11月29日

  • 聖書箇所:イザヤ書9章1-7節
  • 説教題:大いなる光?

 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。↩ 先にはゼブルンの地と↩ ナフタリの地は辱めを受けたが、↩ 後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、↩ 異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。↩ 闇の中を歩んでいた民は↩ 大きな光を見る。↩ 死の陰の地に住んでいた者たちの上に↩ 光が輝く。(1-2節)

 

0.はじめに

 教会暦という教会独自のカレンダーでは、今日から「アドベント」という期間に入ります。アドベントというのは、12月25日のクリスマスを前にした四週間のことです。漢字では、「待つ」、「降る」、「節」の三文字で、「待降節」と書かれます。救い主であるイエス様の誕生、難しい言葉で降誕を記念するのがクリスマスであるなら、そのイエス様の降誕を待ち望むのがアドベントの期間ということになるでしょう。そのアドベントが、今日からということになります。ちなみに、一般的なカレンダーでは、一年の始まりは一月からになりますが、教会のカレンダーではアドベントからということになります。

 この4月から、日曜日の礼拝では、ローマ人への手紙を通して神様の御声に耳を傾けてきました。このアドベントの期間は、特別にクリスマスに関わるテーマで、神様の御声に耳を傾けていきたいと思っています。今日の本文であるイザヤ書9章1-7節は、旧約聖書の中で、救い主イエス・キリストの誕生が預言された箇所の一つになります。イエス様の誕生よりも、さらに七百年ほど前の時代になります。

1.

 イザヤという預言者が生きていた所、活動の舞台としていた所は、イスラエルと呼ばれていました。イスラエルが王国として建てられた頃には、ダビデという強い王が統治をしていました。また、ダビデ王の息子であるソロモン王の名声は、広く世界中に響き渡っていました。

 しかし、そのイスラエルの王国も、ソロモン王の後、すぐに南北に分かれて、次第に衰えていくことになりました。最終的には、北・南の順番で、滅んでしまいました。

 今日の本文の中で、ゼブルンの地やナフタリの地が「辱めを受けた」というのは、ゼブルンやナフタリと呼ばれる地域が、当時の世界帝国であるアッシリアの攻撃を受けて、占領されてしまったことを示しています。中には、アッシリアの捕虜として、何の関係のない所に連れて行かれた人々もいました。反対に、何の関係もない所から、ナフタリやゼブルンの地に連れて来られた外国人たちもいました。そして、そのナフタリやゼブルンが、後にイエス様の時代には、ガリラヤと呼ばれることになります。外国人の血が混じっているガリラヤの人々は、ユダヤ人たちから「異邦の民」として軽蔑されることにもなりました。

 ゼブルンやナフタリの人々は、苦しみの中にありました。そして、その苦しみを、イザヤは「闇」という言葉で表現しています。人々は闇に覆われていたのであり、イザヤはその闇を見つめていました。

 しかし、イザヤが見つめていたのは、人々を覆う闇だけではありませんでした。イザヤは、闇の中に輝く光を見つめていました。闇の中を歩んでいた人々が、大きな光を見るのだと言っています。死の陰の地に住む人々の上に、光が輝くのだと言っています。そして、その闇の中に光が輝く出来事は、イザヤの預言から約七百年後に実現しました。それが、クリスマスの出来事です。イエス・キリストの誕生です。「ひとりのみどりご」が生まれたことによって、闇の中に光がもたらされたということです。

 ちなみに、新約聖書を見ると、クリスマスにまつわる出来事が、いくつか紹介されていますが、それらの物語は、すべて夜という時間の中で進んでいます。例えば、「東方の博士」と呼ばれる人々は、夜空に輝く星を見上げながら旅をしました。イエス様は夜の時間にお生まれになりました。羊飼いたちが、天使から救い主誕生の知らせを聞いたのも、夜の時間でした。

 新約聖書に描かれたクリスマスの物語、その舞台は、昼間の明るい時間ではなくて、暗い夜の時間に設定されています。そして、それは、クリスマスが、イエス様の誕生が、闇を前提とした出来事だったということを意味しています。さらには、イエス様の誕生を記念するクリスマスが、12月25日と定められたことにもつながっていきます。

 クリスマスは、どうして12月25日なのでしょうか。クリスマスがイエス様の誕生を記念する日であるなら、イエス様の誕生日が12月25日だったということでしょうか。

 イエス様の誕生日について、聖書には何も書かれていません。イエス様の誕生日がいつであるのかは、誰にも分かりません。しかし、後に、イエス様の誕生を記念するクリスマスが祝われるようになる時、教会はその日を12月25日としました。

 12月25日というのは、一年の中で、昼の時間が最も短くなり、夜の時間が最も長くなる時期です。冬至の時期です。それは、夜の闇の深さを、最も実感させられる時期です。イエス様の誕生を記念するクリスマスは、その冬至の時期である12月25日に定められたということです。そして、それは、他でもなく、教会が、イエス様の誕生を、クリスマスを、闇の中に光が輝く出来事として理解したということを意味しています。

 どうでしょうか。もしかしたら、クリスマスと言えば、とても華やかな場面をイメージすることになるかも知れません。きれいな飾りつけをした部屋で、おいしいケーキや七面鳥を食べたり、プレゼント交換をしたりする場面をイメージするかも知れません。あるいは、日本のような国においては、恋人同士がロマンチックな時間を過ごす日と考えられていたりするかも知れません。いずれにしろ、それは楽しくて華やかな時間です。

 しかし、聖書に描かれたクリスマスというのは、単なる喜ばしい出来事ではありません。単なるお祝いではありません。それは、深い闇を前提とした出来事です。世界が闇の中にあるということ、私たちが闇の中にあるということ、私たちの心の中に闇があるということを前提とした出来事です。そして、その闇を前提としているからこそ、そこに照らされる光に、私たちが喜んで、感謝して、祝うことのできる出来事だということです。

 預言者イザヤの時代、そして、イエス様の時代、人々は闇に覆われていました。そして、その闇の現実は、現在も変わりがありません。あるいは、今年は、日本中の人々が、世界中の人々が、いつも以上に、闇の深さを実感させられているのではないだろうかということを思います。そして、それは、もちろん、新型コロナウィルスの影響によってということになります。

 3月や4月頃から様々な活動が制限されてきました。緊急事態宣言が解除された後、徐々に様々な活動が再開されてはいますが、それでも完全に元に戻っているわけではありません。むしろ、寒い冬に向かって、感染が再び増加している中で、営業時間の短縮が要請されたりする事態が起こっています。すでに、収入が大きく減ったり、仕事そのものを失ってしまったりする人々もいます。もうこれ以上はもたないという人々もいます。

 また、問題は経済的な面だけではないでしょう。交わりの場を失った人々、居場所を失った人々、必要な助けを失った人々も、たくさんいると思います。緊急事態宣言が出されていた頃には、自粛警察という言葉も流行りました。一部の人々のことなのかも知れませんが、互いに労わり合うよりは、互いに監視し合い、互いに傷つけ合うような場面が見られたことは、本当に残念なことだと思います。

 社会全体が、深い闇に包まれた長いトンネルの中から、なかなか抜け出せないでいるような感じがします。しかし、その深い闇の中に、光は輝いているのだということです。

 今日の本文に戻って、預言者イザヤは、闇の中を歩む人々が、「大きな光」を見ると言っています。ただの光ではありません。大きな光です。

 大きな光というのは、どれぐらいのものなのでしょうか。ガリラヤ地方全体を照らすほどの光でしょうか。あるいは、世界全体を照らすほどの光でしょうか。いずれにしろ、大きな光であるなら、その光は、どこにいても気づくような、人々が大騒ぎをするような、目立つものだったでしょうか。しかし、新約聖書に描かれたクリスマスの物語を見る時、その光は、むしろ、とても小さなものだったのではないかということを思います。

 イエス様の時代、世界の中心はローマ帝国の都でした。広大な世界を支配するローマ帝国の都は、光輝いていました。栄光に包まれていました。ローマ皇帝こそが、神であり、救い主であり、大きな光でした。

 そして、そのローマ帝国の支配する一つの地域で、イエス様はお生まれになったということです。しかも、人々のいるべき場所でではなくて、家畜のいる場所でお生まれになりました。それは、決して大きな光が照り輝いたと言えるような出来事ではありませんでした。広大なローマ帝国の片隅で起こった、小さな出来事に過ぎませんでした。ごくわずかな人々に影響を与えはしましたが、ローマ中心の世界に生きる人々の目には、取るに足りない出来事に過ぎませんでした。イエス様の誕生は、小さな光が輝いた出来事に過ぎませんでした。しかし、そのイエス様の誕生について、イザヤは、人々が大きな光を見るのだと言っているわけです。

 新改訳2017で「大きな光」と訳されている部分は、聖書協会共同訳やフランシスコ会訳では、「大いなる光」と訳されています。「大いなる」というのは、単純に「大きい」ということではありません。「偉大な」ということです。人々は、大いなる光、偉大な光を見るのだということです。

 大きな光というのは、たくさんの人がすぐに気づきます。しかし、大いなる光、偉大な光というのは、どうでしょうか。それは、分かる人には分かるという類のものです。例えば、どのような素晴らしい油絵であるとしても、私のように、絵の価値が分からない人間の目には、素晴らしくとも何ともないわけです。しかし、だからと言って、その価値がなくなるというわけではありません。

 イエス様によってもたらされた光、それは、決して大きなものではありません。むしろ、その反対に、とても小さな光です。しかし、本当に大いなる光です。そして、それは、私たちが神様から離れた罪によって、私たちの心の中に生まれた闇を照らす光だからです。神様なしに生きる罪人の私たちが作り出す世界の闇を照らす光だからです。他のどのような光によっても、どうすることもできない罪の問題に、解決の道を開く光だからです。だからこそ、大いなる光だということです。

 繰り返しになりますが、クリスマスというのは、闇の中に光が輝いた出来事です。イエス様が、世界の闇を照らす光として、私たちの闇を照らす光として、来てくださった出来事です。私たちが闇の中にあるからこそ、光であるイエス様が来てくださった出来事です。

 そして、クリスマスを祝い喜ぶというのは、私たちが闇の中にあることに気づかされることから始まります。私たちが闇の中にあることを知り、その上で、私たちのために、闇を照らす光として、イエス様がお生まれになってくださった恵みを覚えて喜ぶことです。

 私たちはどうでしょうか。まさに、出口の見えない闇の中を歩いているということはないでしょうか。心の中に深い闇が居座っているということはないでしょうか。あるいは、闇の中にあることにも、気づいていないということはないでしょうか。

 この世界にはたくさんの大きな光があります。しかし、大いなる光はたった一つです。私たちを愛し、私たちと共に生きることを願っておられる神様から顔を背ける罪人の私たちに、救いの道を開いてくださった御子イエス・キリストの光だけです。私たちが生きるために、命をささげてくださった御子イエス・キリストの愛の光だけです。そして、その光は、どのような深い闇の中でも、決して消えることなく、私たちの進む道を照らしてくれます。私たちの歩みを導いてくれます。

 今日からアドベントに入ります。例年なら、クリスマスの準備で、教会全体が、慌ただしくしている頃でしょうか。しかし、幸か不幸か、今年は、新型コロナウィルスの影響で、とても静かにアドベントを迎えることになりました。

 今日から始まるアドベントの時、闇の深さを肌で感じながら、静かにクリスマスを待ち望むことができればと思います。イエス様によってもたらされた大いなる光が、本当に大いなる光であることに気づかされたいと思います。そして、そのイエス様の大いなる光に照らされて、大いに喜びたいと思います。

コメントを残す