礼拝説教から 2020年11月22日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙8章12-17節
  • 説教題:神様の子どもとされて

 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

1.御霊によってからだの行いを殺す

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、自分たちには義務があると言っています。義務というのは、しなければならないことということです。

 義務と言われると、ギクッとするかも知れません。「何だ、行いによってではなくて、神様の一方的な恵みによって救われたんじゃないのか、それなのに、また義務があるのか、それじゃ恵みでもなんでもないじゃないか」と思ってしまうかも知れません。

 パウロは、その義務について、「肉に従って生きなければならない」ということではないと言っています。パウロの言っている義務というのは、肉に対するものではないということです。

 肉に従って生きるというのは、人間的な努力をするということです。人間的な努力によって、神様に認めてもらおうとすることです。そして、パウロが言っているのは、そのような人間的な努力が、義務として求められているのではないということです。そもそも、人間的な努力によって、神様に認めてもらうなどということは、私たちにはできないということです。だからこそ、肉に従って生きるなら、死ぬことになるということです。

 それでは、パウロが義務と言っているのは、何なのでしょうか。パウロは、「御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」と言っています。パウロが義務と言っているのは、聖霊によって、体の行いを殺すことだということになりそうです。

 どうでしょうか。体の行いを殺すなどと言えば、これもまた、何か修行や訓練のようなものをイメージしてしまうかも知れません。外に現れる行動にしろ、心の中の思いにしろ、神様が嫌っておられることを、とにかく徹底的に抑え込まなければいけないというようなことをイメージするかも知れません。「憎んだらあかん、愛さなあかん」ということになるかも知れません。

 パウロは、体の行いを殺すことについて、「御霊によって」と言っています。体の行いを殺すのは、聖霊によってだということです。

 どういうことでしょうか。それは、人間的な努力によってではないということです。むしろ、人間的な努力を止めるということです。自分が、人間的な努力によって、体の行いを殺すことのできない者であることを弁え続けるということです。そして、だからこそ、聖霊に委ねるということです。罪人の自分を愛して、罪人の自分の中に住んでいてくださる聖霊に任せるということです。あるいは、聖霊によってというのは、神様の恵みによってと言ってもいいのかも知れません。

 イエス様は、私たちを愛するが故に、十字架にかかってくださいました。十字架にかかって、私たちの罪を処罰してくださいました。私たちにはどうすることもできない罪の問題を、イエス様は解決してくださいました。それは、私たちが心を改めたからではなく、私たちが良い行いをしたからではなく、神様ご自身が罪人の私たちを愛してくださったからです。私たちは、神様の一方的な恵みによって、罪の問題の解決をいただいたということです。

 そして、そんな私たちが、クリスチャンになったからと言って、自分の力で体の行いを殺すことのできる者になるわけではありません。妬んではならないと教えられたら、「分かりました、もう妬みません」と言って、決して妬まない者になれるわけではありません。

 しかし、そんな私たちの中に、聖霊は住んでいてくださるということです。救われたにもかかわらず、なおも、まとわりついてくる罪の問題に悩まされる私たちの中で、聖霊は働いていてくださるということです。そして、大切なことは、その聖霊にすべてをお任せするということです。

 私たちが人間的な努力を続けるなら、聖霊は働くことができません。しかし、十字架のイエス様の前で、自分の罪を覚えて、体の行いに対する無力さを認めて、人間的な努力を止めるなら、聖霊は働いてくださいます。そして、私たちは、自分の人間的な努力によってではなくて、聖霊の力によって、体の行いを殺すことになるでしょう。私たちは神様との関係の中で生きることになります。

 イエス様の十字架の前で、自分の罪を覚えながら、体の行いに対する無力さを認め続けたいと思います。そして、そんな私たちを愛して、私たちの内側に住んでいてくださる聖霊にすべてを委ねたいと思います。

 

2.神の子ども

 パウロは、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」と言っています。神様の聖霊に導かれる人というのは、イエス様を信じて、洗礼を受けたすべてのクリスチャンということになるでしょう。すべてのクリスチャンは神様の子どもだということです。そして、だからこそ、「アバ、父」と叫ぶのだということです。

 それでは、クリスチャンが神様の子どもであるというのは、どういうことでしょうか。パウロは、奴隷と比較しながら説明をしています。

 パウロは、ローマ人への手紙の始まりの部分から、奴隷という言葉を何度も使ってきました。それは、必ずしも否定的な意味においてではありませんでした。

 しかし、今日の本文においては、パウロは、奴隷という言葉を否定的な意味で使っています。それは、奴隷が主人の前で恐怖を感じてビクビクしているということです。奴隷というのは、主人の目をうかがいながら、ビクビクしているのだということです。あるいは、神様の律法を忠実に行うことによって、神様から認めてもらおうとする人々こそが、パウロの言う奴隷のように、実は神様の前でビクビクしているということになるのかも知れません。何か、ちょっとでも落ち度があれば、神様から罰を受ける、神様から見捨てられるかのように思って、ビクビクと震えているということになるのかも知れません。

 しかし、パウロが言っているのは、クリスチャンが、そのような奴隷とは異なるということです。クリスチャンは神様の子どもだということです。そして、それは、私たちクリスチャンが、神様から無条件に受け入れられていることを意味しています。

 私たち夫婦には、二人の子どもが与えられています。そして、この二人の子どもを育てながら、親に対する子どもたちの信頼というのは、不思議なものだなぁということを思うことがあります。

 子どもたちは、親のいない所では、例えば、幼稚園ではそれなりに賢く過ごしているようです。しかし、家庭の中では、なかなかのやんちゃ者です。親の前では手に負えないやんちゃ者です。まだ6歳と4歳ですが、毎日のように、叩く蹴るのケンカをしています。親に対しても、体当たりでぶつかってきます。自分の要求を通すために、泣いて喚いて大騒ぎをします。もちろん、私も妻も、子どもたちをきつく?りつけます。時には怒鳴り散らすこともあります。しかし、それで、少ししゅんとしたり拗ねたりすることはあっても、すぐに擦り寄って来て元に戻ります。

 どういうことでしょうか。私は、子どもたちが、良くも悪くも、親のことを信頼してくれているのかなぁということを思います。もちろん、不平や不満を持っていることもあるでしょう。しかし、親が自分たちのことをどれだけ怒鳴り散らしたとしても、それでも、自分たちを見捨てないということを、子どもたちなりに確信しているように思います。どんなに怒られることがあるとしても、ちゃんと愛されていて、受け入れられていることを確信しているように思います。

 もちろん、私たちの現実の親子関係には様々な問題があります。私も妻も不完全な親です。子どもたちを愛することができなくなって、躾という名前の虐待をしてしまう可能性もあるわけです。

 しかし、天の父なる神様は違います。神様は、何の条件もなく、決して変わることなく、私たちを愛していてくださいます。だからこそ、私たちが救われるために、十字架にかかってくださったのであり、その神様の恵みを信じて受け入れた私たちの中に住んでいてくださいます。やんちゃをしたり、しゅんとしたり、拗ねたりする私たちの中に住んでくださって、私たちを導いていてくださいます。そして、その神様を、私たちはアバと呼ぶことができるということです。お父ちゃんと呼ぶことができるということです。子どもとして、父である神様と共に生きることができるということです。そして、そこにあるのは、恐怖ではありません。奴隷が主人に対して抱くような恐怖ではなくて、安心です。完全に愛されている、完全に受け入れられていることから来る安心です。

 私たちはどうでしょうか。神様との関係の中に、安心があるでしょうか。完全に愛されている、完全に受け入れられている安心があるでしょうか。

 神様の子どもとされている幸いを覚えたいと思います。そして、神様のことを「お父ちゃん」と呼びながら、神様との関係の中に生かされていきたいと思います。

3.神の共同相続人

 パウロは、子どもであることの意味を、もう一つ説明しています。それは、相続の権利を持っているということです。神様の子どもである私たちは、神様の相続人であるということです。何か立派な働きをしたからというような理由によってではなくて、子どもであるという理由において、相続人だということです。そして、神様が私たちに相続を約束してくださっているのは、神様のから栄光です。私たちは神様からの栄光を受け取るのだということです。そして、それは、キリストと共に、イエス様と一緒に受け取るのだということです。具体的には、天の王座に着いておられるイエス様がもう一度来られる時、私たちはイエス様の完全なご支配の中に生かされる者になるということです。

 パウロは、「栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから」と言っています。

 どういうことでしょうか。栄光を受け取るためには、必ず苦難を受けなければならないということでしょうか。そうではなくて、クリスチャンの歩みには苦難が伴ってくるということではないでしょうか。神様の子どもとされたからと言って、苦難がなくなるということではなくて、むしろ、神様の子どもであるからこそ、苦難を経験することがあるということです。しかし、その苦難は、単なる苦難で終わるのではなくて、神様の栄光につながるということです。

 クリスチャンになるというのは、問題がなくなるということを意味しているのではありません。苦しみがなくなるということではありません。問題はあります。苦しむこともあります。しかし、その問題の中で、苦しみを経験する中で、私たちは神様に「アバ、父」と叫ぶことができるということです。「お父ちゃん」と叫ぶことができるということです。そして、この世界においてだけでなく、生と死を越えて、永遠なる神様の下に生かされる希望をいただいているということです。

 イエス様が十字架の苦しみを受けてくださったからこそ、神様の子どもとされている恵みを覚えたいと思います。イエス様の故に、神様の相続人とされている恵みを覚えたいと思います。そして、イエス様を見つめながら、「アバ、父よ」と叫びながら十字架への道を歩まれたイエス様を見つめながら、信仰と希望をいただいて、日々の歩みに誠実でありたいと心から願います。

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