礼拝説教から 2020年11月15日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙8章1-11節
  • 説教題:律法の要求が満たされるために

 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(1-4節)

 

1.

 ローマ人への手紙8章は、手紙全体の中で、中心的な位置にあると言われています。クライマックスと言ってもいいのかも知れません。

 その8章の冒頭部分で、パウロは、これまでの内容を前提とした結論を述べています。それは、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないということです。

 パウロは、自分が本当に惨めな人間だと嘆いていました。それは、イエス様と出会う前の自分が、本当に惨めな人間だったということではありません。パウロは、イエス様と出会って救われた後の自分を見つめながら、本当に惨めな人間だと嘆いているということです。あるいは、イエス様と出会って、パウロは、初めて、自分の惨めさに気づかされたと言った方がいいのかも知れません。神様の言葉である律法を行いたいと願いながら、その反対のことを行ってしまうような者であることに気づかされたということです。神様に従っているつもりでいて、実は、罪の虜となって、その正反対のことを行っているに過ぎないような自分の現実に気づかされたということです。そして、そんな自分を見つめながら、パウロは、自分が本当に惨めな人間だと嘆いているということです。

 パウロの嘆き、それは、クリスチャンであるなら、誰もが共感することではないかと思います。そして、それは、ローマの教会の人々も例外ではなかったということになるでしょう。ローマの教会の人々もまた、パウロと同じように、神様の言葉である律法を喜びながら、その反対のことを行ってしまうような自分を見つめながら、本当に惨めだと嘆かざるを得なかったということです。それは、本当に苦しいことであり、場合によっては、自分の救いを疑ったりすることにもつながってしまうかも知れません。

 しかし、だからこそということになるでしょうか。パウロは、ローマの教会の人々に対して、決して罪に定められることはないと断言しています。イエス様と出会って救われたにもかかわらず、それでもなお、しつこくまとわりついてくる罪の力に悩まされるローマの教会の人々に対して、決して罪に定められることはないと断言しているということです。

 私たちの信仰生活には、いろいろなことが起こってきます。どんな波風も立たない、穏やかな信仰生活を送るというのは、あり得ないことでしょう。

 なかなか解決されない罪の問題に悩み苦しむことがあるでしょうか。聖書の言葉を信じることができなくなるようなこともあるでしょうか。何気ない牧師の一言に傷ついて、教会から離れてしまうことがあるでしょうか。教会で熱心に奉仕をしていて、いつのまにか燃え尽きてしまうことがあるでしょうか。誰かを傷つけてしまって、罪の意識に苦しまなければならないことがあるでしょうか。

 そんな私たちに、パウロが断言していることは何でしょうか。それは、決して罪に定められることはないということです。私たちの信仰生活がどれだけ不安定なものであったとしても、決して罪に定められることはないということです。そして、それは、「キリスト・イエスにある者が」ということです。決して罪に定められることがないのは、「キリスト・イエスにある者」だということです。

 キリスト・イエスにあるというのは、「キリストに結び付けられている」ということです。「キリスト・イエスと一つになっている」ということです。そして、私たちをキリスト・イエスと一つに結び付けるのが、洗礼ということになります。つまり、イエス様を信じて洗礼を受けた者であるなら、私たちは、キリスト・イエスに結び付けられているのであり、決して罪に定められることがないということです。

 ちょうど半月前の10月31日は、宗教改革記念日でした。500年ちょっと前、ドイツで宗教改革が始まった日です。そして、その中心人物だったマルティン・ルターという人は、自分の信仰が動揺すると、「わたしは洗礼を受けている」と、自分に向かって叫んだそうです。ルターは、信仰が動揺した時に、「しっかりしろ、信仰を固く持つんだ」と、自分に言い聞かせたのではありません。「わたしは洗礼を受けている」と叫んだということです。ルターは、自分が洗礼を受けているという事実によって、自分がキリスト・イエスと結びつけられていることを確信したということです。洗礼を受けているという事実によって、ルターの信仰は、支えられ、固くされたということです。

 私たちは、行いによってではなくて、信仰によって救われます。私たちは、心を改めて善い人間になったからということではなくて、罪人である自分を愛するが故に、十字架の上で死んで復活してくださったイエス様を、救い主として信じ受け入れて救われるということです。大切なのは、信仰だということです。

 しかし、その私たちの信仰というのは、決して盤石のものではありません。非常に不安定なものです。ちょっとしたことで揺り動かされるものです。私たちは、いつでも、教会を離れたり、信仰を失ったりする準備のできている者です。

 そして、だからこそと言えるでしょうか。イエス様は、そんな私たちのために、洗礼の恵みを備えてくださいました。イエス様を信じる私たちを、洗礼によって、イエス様ご自身に結び付けてくださいました。そして、その洗礼を受けているという事実によって、私たちは、自分が、キリスト・イエスと結びつけられているのであり、決して罪に定められることのない者であることを確信することができます。

 私たちの信仰は、すぐに動揺します。しかし、父と子と聖霊の御名によって授けられた洗礼は、決して撤回されることがありません。そして、その洗礼を受けているなら、私たちはキリスト・イエスと結ばれています。その信仰生活がどのようなものであったとしても、洗礼を受けて、キリスト・イエスに結び付けられているのであれば、決して罪に定められることはありません。そして、いつでも、どこからでも、やり直すこともできます。

 私たちはどうでしょうか。どのような信仰生活を送っているでしょうか。まとわりついてくる罪に悩まされているでしょうか。信仰が揺り動かされて、あるいは、信仰を失って、自分の救いを疑ったりするようなことがあるでしょうか。

 「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

 洗礼を受けて、キリスト・イエスと一つにされている私たちに与えられたこの約束の言葉を、いつも覚えたいと思います。

 パウロは、神様が、「ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において処罰された」と言っています。それは、律法にはできないことでした。

 ご自分の御子というのはイエス様です。罪深い肉と同じような形というのは、イエス様が罪人である私たちと同じ姿になられたということです。それは、イエス様が私たちと同じように罪を犯されたということではありません。イエス様は、神様であり、罪がないにもかかわらず、罪人の私たちと同じ人間となって、私たちの世界に来てくださったということです。そして、私たちの罪を処罰するために、罪のないイエス様が十字架にかかってくださったということです。

 イエス様は、十字架の上で罪を処罰してくださいました。そして、その理由として、パウロは、律法の要求が満たされるためだということを言っています。

 律法というのは神様の言葉です。神様からの語りかけです。そして、神様が私たちに語りかけてくださっているのは、私たちを愛していてくださるからです。神様は、私たちを愛していてくださるからこそ、私たちの祝福を願っていてくださるからこそ、私たちに語りかけていてくださるということです。そして、神様は、私たちが、ご自分の語りかけに答えて、ご自分との交わりの中で、生きることを願っていてくださるということです。つまり、律法というのは、私たちが、神様との交わりの中で、神様からの祝福を受け取って生きるために、神様から与えられた言葉だということになるでしょう。そして、その律法の要求というのは、神様と私たちとの関係が回復することに他なりません。

 パウロは、律法の要求が満たされることについて、「肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに」おいてだということを言っています。

 どういうことでしょうか。

 肉に従うというのは、人間的な努力をするということです。イエス様と出会う前のパウロは、律法を忠実に行うことによって、神様との正しい関係を回復させることができると考えていました。それは人間的な努力でした。現在のクリスチャンである私たちであるならば、聖書の言葉を忠実に行うということになるでしょうか。聖書の言葉に従うということ自体は、大切なことですが、その自分の努力によって、神様に認めてもらおうとするならば、それは、人間的な努力に過ぎないのであり、肉に従っているということになるでしょう。

 その反対に、御霊に従うというのは、人間的な努力を止めるということです。そして、それは、自分が、人間的な努力によっては、神様に認めてもらうことのできない者であることを弁え続けるということです。自分は、神様の前で何も誇ることのできない貧しい罪人であることを弁え続けるということです。しかし、その貧しい罪人の自分を愛して、イエス様が十字架にかかって、死んで復活してくださったのであり、洗礼によって、自分がそのイエス様と一つにされていることを覚え続けるということです。罪と死に支配される惨めな者であることを覚えながら、しかし、その自分の中に、イエス様の霊が住んでいてくださる恵みを覚えながら、生かされることです。そして、その歩みの中で、神様と私たちの関係は相応しいものに変えられていくということです。自分の何かを誇るのではなくて、自分の正しさを主張するのではなくて、何も誇ることのできない貧しい罪人の自分を愛していてくださる神様だけを誇りとして生きる者に変えられていくということです。

 クリスチャンになるというのは、神様だけをほめたたえて生きる者になるということです。神様だけを誇りとして、神様ご自身に支えられて生きる者になるということです。

 しかし、その具体的な信仰生活の中で、私たちは、いつの間にか、神様ではなくて、自分を誇りとしていることがあります。自分の持っている何か、自分のしている何かを誇り、それを支えとして生きていることがあります。そして、その何かを得るために努力をしたり、反対に、得ることができなくて落ち込んだりすることがあります。それは、必ずしも、信仰生活の何たるかを知らないからではありません。そうではなくて、文字通りに、いつの間にかということです。あるいは、いつの間にか、神様に支えられてではなくて、自分の努力で自分を支えようとするのが、罪人である私たちの本質ということになるのかも知れません。

 大切なことは何でしょうか。それは、受け取る資格のない私たちに与えられた洗礼の恵みの中に留まることです。洗礼の恵みの中で、罪人の私たちを生かしていてくださる神様の愛を味わうことです。そして、その神様の愛に満たされる時、私たちは、あらゆる人間的な努力から解放されて、聖霊に従うことになるでしょう。聖霊に従う私たちの内に、律法の要求は満たされることになります。

 私たちはどうでしょうか。人間的な努力を続けていることはないでしょうか。聖霊に従っているでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝で、イエス様の十字架の死と復活の御業を見つめたいと思います。洗礼によって、そのイエス様と一つに結び付けられている恵みを覚えたいと思います。そして、あらゆる人間的な努力から解放されて、聖霊の働きの中で、罪人の自分を生かしていてくださる神様をほめたたえ、神様ご自身に支えられて生きる者でありたいと思います。

コメントを残す