礼拝説教から 2020年11月8日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙7章14-25節
  • 説教題:惨めな人間の感謝

 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的なものでり、売り渡されて罪の下にある者です。私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。(14-15節)

 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。(19節)

 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(24-25節)

 

 パウロは律法が霊的なものだと言っています。

 霊的というのは、どういうことでしょうか。それは、神様が与えてくださったものということです。律法が霊的だというのは、神様から与えられたものだということです。だからこそ、その律法を通して、私たちは神様の御心を知ることができるということになります。そして、律法が私たちに与えられているのは、神様が、私たちを愛していてくださり、私たちをご自分との交わりに招いていてくださるということを意味しています。私たちは、神様の言葉である律法を通して、神様との関係の中に生きることができるということです。神様の祝福を受けて生きることができるということです。

 しかし、パウロは、同時に、律法が霊的であるのに対して、自分が肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者だと言っています。

 肉的というのは、霊的の反対を意味する言葉です。本質的に神様から離れている、神様に背を向けているということです。だからこそ、罪の下に売り渡されているということにもなります。つまり、パウロは、律法そのものについては、良いものであるけれども、その律法を受け取る自分自身については、罪の下に置かれているということを言っているわけです。そして、パウロは、そんな自分のしていることが分からないと言っています。

 皆さんは、自分のしていることが、ちゃんと分かっているでしょうか。

 私は、自分が何をしているのか、分からなくなることが、しばしばあります。二階に何かを取りに行って、いざ二階に行くと、まったく別のことをして、戻って来てから、「あれ、何をしに行ったんやったかいな」と、悩んでしまうことが、しょっちゅうです。40代でこんな調子だと、ちょっと危ないですね。

 繰り返しになりますが、パウロは、自分のしていることが分からないと言いました。しかし、それは、ちょっとボケてしまったとか、頭がこんがらがってしまったとかして、自分のしていることが分からないということではありません。そうではなくて、自分がしたいと願うことではなくて、反対に、憎んでいることをしているのだということです。

 パウロは善を行うことを願っています。善というのは、神様の御心に適うことです。神様が願っておられることです。神様の願っておられることが、パウロの言う善であり、パウロのしたいことです。しかし、パウロは、実際には、その反対のことをしているのだということです。神様の願っておられる善ではなくて、神様の願っておられない悪を行っているのだということです。そして、それは、自分の中に罪が住んでいるからだということです。パウロ自身は、神様の御心に適ったことを行いたいと願っているけれども、自分の中に住んでいる罪が、悪を行うのだということです。

 どうでしょうか。何だか、言い訳をしているような感じがしないことはないでしょうか。責任を罪に押しつけて、「自分は悪くない」とでも言っているような感じがするかも知れません。

 しかし、パウロが言っているのは、「自分は何にも悪くない」ということでは、決してないでしょう。パウロは、自分の中にある罪が悪いのだと言って、その罪に責任を押しつけようとしているのではありません。そうではなくて、パウロは罪の下にある自分の現実を見つめているということです。神様の律法を喜んでいるにもかかわらず、その自分の歩みが、なおも罪の下に置かれている現実を見つめているということです。だからこそ、パウロは、そんな自分の現実を見て、本当に惨めな人間だと嘆いているということです。

 皆さんはどうでしょうか。自分は本当に惨めだと感じたことがあるでしょうか。どんな時に惨めだと感じるでしょうか。私は、能力のない自分を見た時に、惨めだなぁと感じさせられることが多いように思います。

 小学校の時は図工と言っていたでしょうか、中学校の時は美術だったと思います。私は、図工や美術の時間が大嫌いでした。なぜなら、絵を描くことが、大の苦手だからです。下手などというレベルをはるかに越えていました。いつもクラスの友だちから、「何これー」と笑われていました。いつも自分の絵を隠すようにしていました。もちろん、上手に描きたいわけです。でも、描けないわけです。図工や美術の時間、私は自分が惨めで仕方がありませんでした。そして、高校に入って、美術が選択になったことは、私にとっては、救い以外の何ものでもありませんでした。

 パウロは、どうして自分が本当に惨めだと言っているのでしょうか。

 パウロは、「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と言っています。叫んでいると言った方がいいのかも知れません。

 「死のからだ」というのは、死に定められた体ということです。そして、それは、死に定められているだけでなく、同時に、死に至る実を結ぶ体でもあります。私たちの体によって営まれる日々の歩み、私たちの人生全体は、死に至る実を結びながら、死に向かって進んでいるということです。そして、その死というのは、私たちの肉体が終わりの時を迎えるということではありません。神様の愛から引き離されるということです。パウロは、その死に至る実を結ぶ自分の体と歩みを見つめながら、自分の惨めさを嘆いているということです。自分の死の体に気づきながらも、どうすることもできない自分自身に嘆いているということです。そして、だからこそ、パウロは救いを求めて叫んでいるということです。パウロの嘆きと叫びは、とても深刻なものでした。

 ちなみに、パウロは、今日の本文の中で、罪の下にある自分の現実を、過去のこととしてではなくて、現在のこととして語っています。「かつては罪の下にあったけれども、救われた今はそうではない」、「かつては自分のしていることが分からなかったけれども、救われた今はそうではない」、「かつてはしたいと願う善ではなくて、悪を行っていたけれども、救われた今はそうではない」、「かつては本当に惨めな人間だったけれども、救われた今はそうではない」ということではありません。パウロは、救われた後のこととして、「自分が罪の下にある」、「自分のしていることが分からない」、「したいと願う善ではなくて、したくない悪を行っている」、「本当に惨めな人間だ」ということを語っているということです。

 先週にも、分かち合いましたが、パウロは、ユダヤ人として、その中でも、ファリサイ派と呼ばれるグループの一人として、律法を徹底的に行うことを目指していました。それは、神様の御心に適うことだと考えられていました。そして、パウロは、自分が律法をちゃんと行っている、神様からも認められていると確信していました。パウロは、自分が、したくない悪ではなくて、したいと願う善を行っていると思い込んでいたわけです。そもそも、自分が悪を行っているなどとは、これっぽっちも思っていなかっということです。律法を行っている自分が、実は、罪の下にあるのであり、罪に利用されているだけだというようなことは、思いもよらなかったということです。自分が死に至る実を結んでいるなどということは、想定外のことだったということです。そして、そのパウロが、イエス・キリストと出会って救われた後の自分を、惨めだと言っているということです。それは、パウロが、イエス様と出会って、その後に、惨めな人間になったということではありません。そうではなくて、イエス様と出会って、初めて、自分が罪の下にあるのであり、本当に惨めな人間であることに気づかされたということです。神様の律法を喜びながらも、神様の御心を行うことを願いながらも、その反対の悪を行う自分の惨めさに気づかされたということです。

 もしかしたら、私たちもパウロと同じような経験をしていると言えるのかも知れません。私たちもまた、イエス様に救われて、神様の御心に生きることを願いながらも、その反対の悪を行っているということがあるかも知れません。そして、今日の本文の中で分かち合われているパウロの嘆きを見て、本当にそうだなぁということを感じるかも知れません。あるいは、「使徒パウロのような人でも、神様の御心に生きることのできない自分の罪に苦しんでいるんだ」と思って、慰めや励ましを感じたりすることがあるかも知れません。

 しかし、どうでしょうか。パウロが、したいと願う善ではなくて、したくない悪を行っていると言っているのは、単純に「分かってはいるけれども、できない」ということでしょうか。「愛したいけれども、愛せない」、「これをしたらあかんのは分かっているけれども、ついしてしまう」というようなことでしょうか。パウロが、別の手紙の中で、かつての自分のことを「律法による義については非難されるところがない者」と言っていることからすると、そうではないのではないかということを思います。

 もちろん、私たちのように、「分かってはいるけれども、できない」というようなことも含まれているでしょう。しかし、パウロが言っているのは、より深刻なことではないでしょうか。それは、善を行っているつもりの自分が、神様の御心を行っているつもりの自分が、そっくりそのまま、罪に利用されているということではないでしょうか。霊的な神様の律法を喜んで、善を行っているつもりの自分が、そっくりそのまま、罪の下にあって、罪の働く拠点になってしまっているということではないでしょうか。パウロは、その罪の下にあって、罪に利用される自分に気づかされて、本当に惨めだと言っているわけです。そして、それは、イエス様と出会う前には、気づかなかったことです。イエス様と出会って、新しい人生をスタートさせて、初めて、罪の下で、罪に利用される自分に気づいたということです。しかし、その惨めな自分から目をそらせることなく、しっかりと見つめているということです。

 パウロは、自分が本当に惨めな人間だと嘆くと同時に、神様に感謝しています。そして、それは、主イエス・キリストを通してだと言っています。

 パウロが、イエス・キリストを通して、神様に感謝しているのは、イエス様と出会って救われた時のことではありません。パウロが言っているのは、救われた時のことではなくて、救われた後のことです。パウロは、すでに、救われているけれども、なおも、したいと願う善ではなくて、したくない悪を行うような自分を、決して見捨てることなく、救いの完成へと導いてくださるイエス・キリストを見つめながら、神様に感謝しているということです。

 教会では、クリスチャンのことを「赦された罪人」と言うことがあります。罪が赦されて、これ以上、罪を問われることはないけれども、本質的に罪人であることは変わらないということです。救われた後も、罪人として、罪に悩まされることがあるということです。そして、それは、本当に惨めだと思わされるほどにです。

 しかし、その私たちの中に、イエス様はいてくださいます。救われたにもかかわらず、罪に悩まされる私たちの中に、イエス様の霊が、聖霊が住んでいてくださいます。そして、その聖霊が、私たちの中で、完全な救いの拠点となっていてくださいます。大切なことは、そのイエス様の霊によって、聖霊によって、救いの確信をいただき続けながら、希望を持って生きることです。

 私たちはどうでしょうか。神様の御心に生きることを願いながらも、その反対のことを行っていることは、あるでしょうか。あるいは、神様の御心に生きようとすることそのものが、罪の働く拠点になってしまっているようなことは、あるでしょうか。そして、そんな自分の姿に気づかされながら、惨めだと嘆くことがあるでしょうか。

 私たち自身には、何の希望もないかも知れません。しかし、私たち自身ではなくて、私たちの中に住んでいてくださる聖霊によって、完全な救いへと導かれていることを覚えたいと思います。そして、その救いの恵みの中に置かれていることを覚えながら、イエス・キリストを通して、神様に感謝して歩みたいと思います。

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