礼拝説教から 2020年11月1日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙7章7-13節
  • 説教題:イエス・キリストを通して

 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。(7節)

 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(9-10節)

 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。(12節)

1.

 律法というのは、神様の言葉です。神様からの語りかけです。そして、神様が私たちに語りかけてくださるのは、神様が私たちを愛していてくださるからです。神様は、私たちを愛していてくださるからこそ、私たちの祝福を願っていてくださるからこそ、私たちに語りかけてくださるということです。律法は、私たちに対する神様の愛のメッセージ、祝福のメッセージだと言ってもいいのかも知れません。しかし、その律法について、パウロは、「罪なのか」と問いかけています。

 先週の本文になりますが、パウロは、「律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」と言っていました。律法によって、罪の欲情が目覚めたと言っているわけです。そして、そのパウロの言葉に従うなら、「罪の欲情を目覚めさせるような律法は罪じゃないのか」という疑問が出てくるということです。あるいは、そのような疑問をぶつけて、パウロを批判する人々も、実際にいたということになるのかも知れません。

 パウロは、「律法は罪なのか」という問いかけに対して、「決してそんなことはない」と言っています。律法は決して罪ではないと言っています。罪ではないどころか、聖なるものだと言っています。「聖なるもの」というのは、この世界のものではないということです。聖なる神様のものだということです。律法は、聖なる神様から与えられたものだということです。だからこそ、その律法の戒めは、正しいものであり、良いものだということです。

 繰り返しになりますが、パウロは、律法が罪なのではないと宣言する一方で、「律法によらなければ、私は罪を知ることがなかった」と言っています。そして、その具体的な例として、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、欲望を知らなかったということを挙げています。逆に言うと、パウロは、律法によって、欲望を知ったのであり、罪を知ったのだということです。

 ちなみに、「隣人のものを欲してはならない」というのは、十戒の最後の戒めです。十戒というのは、神様がモーセを通して与えてくださった律法の中心とも言えるものです。その律法の中心である十戒の最後の戒めが、「隣人のものを欲してはならない」ということです。欲望に対する戒めとでも言えるでしょうか。

 皆さんには欲望があるでしょうか。恐らくは、何らかの欲望があるのだと思います。そして、その欲望の対象というのは、実に様々であるということになるのだと思います。

 例えば、十戒の5番目から9番目は、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽りの証言をしてはならない」となっていますが、殺すのも、姦淫するのも、盗むのも、偽りの証言をするのも、その根本には、欲望があるということになるのではないでしょうか。自分の欲望を満たすことが、自分の欲望を第一にすることが、殺すこと、姦淫すること、盗むこと、偽りの証言をすることにつながることもあるということです。

 欲望というのは、様々な罪の中の一つではありません。罪の根本とも言えるようなものです。パウロは、単なる罪の一つとしてではなくて、あらゆる罪の根本にあるものとして、欲望を取り上げているということです。そして、欲望が罪の根本であるのは、罪の始まりと言える出来事においても、例外ではありません。あるいは、パウロが「隣人のものを欲してはならない」という戒めによって念頭に置いていたのは、罪の始まりの出来事だと言ってもいいのかも知れません。アダムとエバが、神様の命令に背いて、善悪の知識の木の実を食べた出来事です。

 神様に造られた最初の人、アダムとエバは、エデンという園で、神様と共に生きていました。エデンには、たくさんの木の実があって、アダムとエバは、自由に取って食べることができました。しかし、神様は、そのアダムとエバに対して、一つの戒めを与えられました。最初の戒めと言ってもいいでしょう。それは、園の中央にある木、善悪の知識の木から、その実を取って食べてはならないという戒めでした。なぜなら、その木の実を食べると、必ず死んでしまうからだということでした。神様は、アダムとエバが、死ぬことではなくて、生きることを願って、善悪の知識の木の実を取って食べてはならないという戒めを与えられたということです。神様の戒めというのは、アダムとエバを生かすためのものだったということです。

 しかし、結果はどうだったでしょうか。アダムとエバは、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。どうしてでしょうか。それは、蛇に唆されたからです。蛇が、神様の戒めを逆に利用して、「食べても決して死なない、むしろ、神のようになることができる」と唆したからです。その蛇の言葉に従って、アダムとエバは、神様の戒めに逆らって、善悪の知識の木の実を食べたということです。そして、それは、アダムとエバが、ただ単に、食欲を満たそうとしたということではありません。まさに神のようになりたいという欲望を持ったということです。神様の言葉に従って生きるのではなくて、自分自身が神のようになって、自分の思い通りに生きることを願ったということです。しかし、その結果として、アダムとエバは、反対に、罪の支配の下に置かれることになったということです。罪の奴隷となって、死に至る実を結ぶ者になったということです。そして、パウロは、まさにその罪に気づかされたということです。自分もまた、神のようになろうとする欲望を持っている罪人として、死に至る実を結ぶ者であったことに気づかされたということです。

 繰り返しになりますが、欲望にはいろいろなものがあるでしょう。しかし、パウロが言っている欲望というのは、神のようになることです。神様の律法の中で戒められていて、私たちが気づかなければならないのは、神のようになろうとする欲望だということです。そして、その神のようになろうとする欲望に気づかせてくれるのが、他でもなく、神様の律法です。神様からの語りかけです。私たちは、神様の律法によってのみ、神様からの語りかけを聞いてのみ、自分が神のようになろうとする欲望を持っていることに気づかされるということです。神様との関係の中で、神様の言葉に従って生きるのではなくて、自分が神のようになって、思い通りに生きようとしている自分の欲望に気づかされるということです。

 私たちの礼拝に集まる一人一人が、自分もまた、アダムとエバの欲望、神のようになろうとする欲望を持っている者であることに気づかされることを、心から願います。そして、その欲望に従って、神様から顔を背けて生きる罪人であることに気づかされることを、心から願います。

2.

 パウロは、律法によって罪を知ったと言っています。

 パウロはユダヤ人です。ユダヤ人というのは、神様から律法を受け取った人々です。旧約聖書の時代から、パウロの時代に至るまで、生活の中心に神様の律法があった人々です。そして、パウロは、その中でも、ファリサイ派と呼ばれるグループの一人でした。ファリサイ派というのは、律法を厳格に行って生きようとした人々です。律法を徹底的に行うことによって、神様から認められることを目指した人々です。そして、彼らは、自分たちが律法をちゃんと行っている、神様からも合格点をいただいていると信じていました。パウロは、その中でも、特にずば抜けていた人でした。他の手紙では、「律法による義については非難されるところがない者でした」とまで言っています。パウロは、自分が律法をちゃんと行っている、神様から認められていると信じていたということです。逆に言うと、パウロは、自分が罪人だなどとは思っていなかったということです。律法を学び、律法を行いながら、自分の罪には気づいていなかったということです。しかし、そのパウロが、今日の本文の中で言っているのは、律法によって罪を知ったのだということです。

 パウロは、10節で、「私はかつて律法なしに生きていました」と言っています。律法と共に生きてきたパウロが、律法なしに生きていたと言っているわけです。

 パウロは、自分がとても幼かった時のことを言っているのでしょうか。パウロは、まだ言葉もよく分からないほどに幼い時、律法と関係なく生きていたということなのでしょうか。

 パウロが、大人になって、律法を行いながら、自分の罪に気づいていなかった時があったことを考えるなら、「かつて律法なしに生きていました」というのは、必ずしも幼い時のことを言っているのではないのだと思います。そうではなくて、それは、パウロが律法の本当の意味を分かっていなかったということではないでしょうか。パウロは、ファリサイ派の一人として、律法を厳格に行いながらも、律法の本当の意味がまったく分かっていなかったということではないでしょうか。そして、それは、パウロが神様からの生きた語りかけを聞いていなかったということです。だからこそ、パウロは、律法を持っていながらも、律法なしに生きていたということになるのではないでしょうか。

 パウロは、戒めが来た時に、罪が生きて、自分が死んだのだと言っています。戒めというのは、律法の具体的な要求ということになるでしょうか。律法が要求することを、具体的な戒めとして聞いたということです。しかも、表面的にではなくて、神様との関係の中で、神様からの生きた語りかけとして聞いたということです。そして、その神様からの生きた語りかけによって、罪が生きて、パウロは死んだのだということです。死んだというのは、自分の罪に気づかされて、その罪の故に死んだ者であることを知ったということです。律法を行うことのできない者であることを知り、律法を行うことによっては、神様に認めてもらうことのできない者であることを知り、自分が死に定められた者であることを知ったということです。自分もまた、神様の一方的な恵みによって、救われなければならない罪人であることを知ったということです。

 使徒の働きや、パウロの他の手紙を見る時、パウロが自分の罪に気づいたのは、イエス様と出会った時であることが分かります。神様の御心を行っていると思いながら、イエス様を信じるクリスチャンたちを迫害していたパウロを、イエス様が捕えてくださった時です。パウロは、イエス様に捕えられて、イエス様の語りかけを聞いて、神様の御心を行っていたつもりでいて、実は、反対のことを行っていた自分の罪に気づかされたということです。そして、同時に、イエス様がその自分を赦していてくださることを知ったということです。

 律法は、神様の言葉であり、聖なるものです。正しいものであり、良いものです。私たちを生かすものです。しかし、イエス様を通して律法を受け取るのでなければ、律法は罪に利用されることになります。イエス様を通して、自分の罪を知ることなく、同時に、その自分の罪が赦されていることを知ることなく、律法を受け取るのであれば、律法は、行うことによって救いを得るための道具に過ぎないものとなります。そして、律法を完全に行うことのできない私たちにとっては、律法は苦しいだけのものとなるでしょう。あるいは、ファリサイ派時代のパウロのように、ちゃんと行っていると錯覚するならば、自分の罪に気づかないままでいることになるでしょう。いずれにしろ、律法は、私たちに死をもたらすものになってしまいます。

 大切なことは何でしょうか。それは、律法によって証しされたイエス様の前に立つことです。イエス様と出会って、自分の罪を知り、その罪が赦されていることを知ることです。イエス様の救いの恵みの中に生かされることです。そして、そのイエス様の恵みの中で、律法を受け取る時、律法は行うことによって救われるためのものではなくなります。神様の恵みの言葉である律法は、私たちを死に導くものではなくて、命に導くものとなるでしょう。私たちは、まさに神様の言葉によって生かされる者となるでしょう。

 毎週日曜日の礼拝の中で、イエス様の十字架の前に立たせていただきたいと思います。イエス様の十字架の前で、自分が神であり続けるために、真の神様であるイエス様を十字架に追いやった自分の罪を知りたいと思います。しかし、その罪が赦されていることを知りたいと思います。そして、そのイエス様の救いの恵みの中で、神様の言葉を聞き続ける者でありたいと思います。神様の言葉を喜び、神様の言葉に生きる者でありたいと思います。

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