礼拝説教から 2020年10月25日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙7章1-6節
  • 説教題:私の兄弟たちよ

 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか――私は律法を知っている人たちに話しています――律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ人への手紙7章1-6節)

 

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にある」ということを宣言していました。「律法の下にある」というのは、神様の言葉である律法を行うことによって、神様から合格をいただいて救われるということです。神様の救いは、私たちが神様の言葉である律法を行うことによって、獲得しなければならないということです。

 しかし、パウロが訴えていたのは、イエス様を信じて洗礼を受けているのなら、律法の下にではなくて、恵みの下にあるのだということです。「恵みの下にある」というのは、「律法を行うことによって」ということから解放されているということです。私たちの救いは、私たちのどのような行いとも関係がなくて、私たちを愛するが故に、私たちを赦し、私たちをご自分のものとしてくださった神様の恵みによって保証されているということです。

 パウロは、今日の本文の中で、律法について、改めて説明をしています。あるいは、7章全体のテーマが律法だと言ってもいいのかも知れません。

 パウロは、「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけ」だということを、結婚に例えて説明しています。女性が結婚をして、夫が生きている間は、律法によって、その夫に結び付けられているけれども、夫が死んだら、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるということです。律法の下で、夫婦として結び付けられたけれども、夫が死んでしまえば、自分を夫に結びつけていた律法から自由になるということです。だからこそ、夫が死んだ後は、他の男性と結ばれることもできることになります。それは、姦淫の罪を犯すことでもなんでもないということです。

 パウロは、結婚の例えの中で、「夫が死んだら」ということを、やたらと強調しています。しかし、その夫が誰なのかというようなことは、曖昧にされています。むしろ、パウロが次の4節以降の部分で言っているのは、夫が死ぬことではなくて、自分が死ぬことです。

 パウロは、ローマの教会の人々が、律法に対して死んでいると言っています。ローマの教会の人々が、律法と結婚をしていて、その律法が死んだと言っているのではありません。神様の言葉である律法が廃止された、律法が無効になったと言っているのではありません。そうではなくて、ローマの教会の人々が律法に対して死んだと言っているということです。

 パウロが言いたいのは、「律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけ」だということです。律法に対して死んだのなら、律法の支配は無効だということです。律法から自由にされているということです。そして、パウロが言っているのは、ローマの教会の人々が、すでに律法に対して死んでいるのだということです。ローマの教会の人々が律法に対して死んでいるであり、死者の中からよみがえった方のものとなっているのだということです。そして、それは、「キリストのからだを通して」実現したということです。

 キリストの体というのは、どのようなものでしょうか。それは、十字架につけられた体です。十字架につけられて死んだ体です。しかし、死者の中からよみがえった体です。復活の体です。そして、そのキリストの体を通してということです。キリストの体を通してというのは、キリストの体に結び付けられてということです。キリストの体と一つになってということです。キリスト・イエスと一つになってということです。

 パウロは、ローマの教会の人々が、キリスト・イエスと一つになったのは、バプテスマ、洗礼によってだということを、すでに語っていました。ローマの教会の人々は、洗礼を受けて、イエス様と一つになって、律法に対して死んでいるのであり、死者の中からよみがえられたイエス様のものとされているのだということです。

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、「私の兄弟たちよ」と呼びかけています。

 教会では、よく「兄弟」や「姉妹」という言葉を使います。あるいは、初めて教会に来て、兄弟や姉妹という言葉を聞いて、違和感を持った方がおられるかも知れません。なぜなら、兄弟や姉妹というのは、家族の中の関係を表す言葉だからです。私たちは、同じ親の下に生まれた兄や姉、弟や妹のことを、兄弟や姉妹と呼ぶわけです。

 しかし、教会では、血を分けた兄弟や姉妹ではなくても、互いに兄弟とか姉妹などと呼び合います。それは、教会が、キリスト・イエスを頭とする神様の家族だからです。私たちは、イエス様を信じて、神様の家族になったということです。

 パウロは、ローマの教会の人々に「兄弟たち」と呼びかけています。それは、パウロが、ローマの教会の人々を、同じ家族として認めていることを示しています。パウロは、ローマの教会の人々が、イエス様を信じて、神様の家族とされていることを認めて、「私の兄弟たち」と呼びかけているということです。

 ちなみに、ローマの教会というのは、全世界で評判になっていました。広大な世界を支配する皇帝のお膝元であるローマで、イエス様を信じる彼らの信仰は、全世界に語り伝えられていました。その彼らの信仰を、パウロも神様に感謝していました。

 しかし、だからと言って、ローマの教会に問題がなかったわけではありませんでした。だからこそ、パウロは、すでにイエス様を信じているはずの人々に対して、「ぜひ福音を伝えたい」のだと語っていたわけです。

 実際に、ローマ人への手紙を6章の終わりまで見てきた中で、感じさせられることの一つは、パウロの語る救いの恵みが、必ずしもよく理解されていたわけではなかったということではないでしょうか。パウロは、一生懸命に神様の救いの恵みを語ってきましたが、そのパウロの教えはなかなか理解されていなかったということです。パウロが、「罪の増し加わる所に、恵みも満ち溢れた」などと語れば、「だったら、『恵みが増し加わるために、罪に留まるべきか』ということになってしまうじゃないか」と、一部の人々からは、揚げ足を取るような批判を受けたりしたわけです。パウロの語る神様の救いの恵みは、なかなか理解されなかったそして、それは、ローマの教会においても、似たり寄ったりだったということです。

 しかし、そのローマの教会の人々に対して、パウロは「兄弟たち」と呼びかけているということです。パウロは、神様の恵みが分からなくて、自分を批判する人々に対して、「あなたがたは兄弟ではありません」と言ったのではありません。神様の恵みが分からなくて、自分を批判する人々をも含めて、「兄弟たち」と呼びかけているということです。

 どうしてでしょうか。それは、彼らが、イエス様を信じて、洗礼を受けた人々だからではないでしょうか。パウロは、神様の恵みがよく分かっていないにもかかわらず、イエス様を信じて洗礼を受けているという事実に基づいて、「私の兄弟たち」と呼んでいるのだということです。そして、それは、パウロが、ローマの教会の人々を、ご自分の救いの恵みの中に招き入れてくださった神様を信頼しているということの証しではないでしょうか。パウロは、ものすごく分からず屋の人々を、ご自分の恵みの下に置いていてくださる神様を信頼していたからこそ、彼らのことを「私の兄弟たち」と呼んだのではないでしょうか。

 私たちもまた、ローマの教会の人々に負けず劣らずの分からず屋です。だからこそ、神様の恵みの下にありながらも、自分の行いによって、神様や他の誰かに認めてもらおうとしたりすることがあります。自分や他の人々の言葉や行いを見て、救われていないのではないかと思ったりすることもあるでしょうか。あるいは、自分の罪を正当化するために、神様の恵みを利用したりすることもあるかも知れません。

 私たちが、イエス様を信じて洗礼を受けたというのは、神様が、そんな私たち一人一人をご自分に結び付けてくださったということを意味しています。分からず屋ではあるけれども、イエス様を信じて洗礼を受けた私たち一人一人を、ご自分に結び付けて、ご自分の恵みの下に置いていてくださっているということです。そして、大切なことは、その恵みの下に招き入れてくださった神様を信頼することです。互いに兄弟姉妹と呼び合う関係の中に招き入れてくださった神様の故に、自分を受け入れ、自分を愛することです。自分を愛するように、互いに愛し合うことです。あるいは、神様を信頼して、神様に従って、自分を愛し、互いに愛し合うことこそが、神様のものとされた私たちが、神様のために結ぶ実だと言ってもいいのかも知れません。

 パウロは、「私たちが肉にあったとき」と言っています。それは、私たちが罪人としての性質のままに生きていた時ということです。罪の支配の下にあった時と言ってもいいでしょうか。そして、パウロは、私たちが肉にあった時には、「死のために実を結びました」と言っています。罪人の歩みというのは、死に至る実を結んでいるようなものだということです。そして、その死というのは、私たちが人生の終わりを迎えるということではなくて、神様の愛から引き離されるということです。

 パウロは、自分たちが、罪人としての性質のままに、死に至る実を結んでいたのは、律法によって目覚めた罪の欲情が自分たちの体の中に働いてのことだと言っています。罪人としての性質のままに生きていた時には、律法によって目覚めた罪の欲情によって、死に至る実を結んでいたのだということです。それは、律法自体が悪いものではないけれども、むしろ、素晴らしいものであるけれども、その律法によって、罪の欲情が目覚めて、体の中でエネルギーとなって、死に至る実を結ぶのだということです。

 しかし、パウロは、イエス様を信じて、洗礼を受けた現在は、自分たちが、律法から解かれているのだと言っています。そして、古い文字によってではなくて、新しい御霊によって仕えているのだと言っています。

 どういうことでしょうか。古い文字に仕えるというのは、律法の下にあるということです。律法を行うことによって、神様から認めてもらおうとすることだということです。逆に言うと、律法を、救われるために行わなければならないものとして捉える時、律法は単なる古い文字に過ぎないということです。神様の言葉であるはずの律法が、単なる古い文字に過ぎないものになるということです。しかし、新しい御霊によって仕えるというのは、その律法を行うことによってということから解放されるということです。

 後に、パウロは、この新しい御霊のことを、「キリストの御霊」と呼んでいます。新しい御霊というのは、キリストの御霊だということです。つまり、新しい御霊によって仕えるというのは、他でもなく、イエス様ご自身を信じて生きる、イエス様ご自身に仕えて生きることだと言ってもいいのかも知れません。そして、それは、自分が律法を行うことのできない罪人であることを認め、しかし、イエス様こそが律法を完全に行ってくださった方であり、自分がそのイエス様と結び付けられていることを信じて生きるということです。そして、自分とイエス様の結び付きを保証する目に見える印、確かな印、それが洗礼だということです。私たちは、洗礼によって、新しい御霊、キリストの御霊を受け取ったのであり、そのキリストの御霊に従って生きるのだということです。そして、その歩みは、もはや死に至る実を結ぶようなものではなくて、神様に対して実を結ぶものになるということです。

 私たちの歩みはどうでしょうか。

 パウロは、現在の私たちに対しても、「私の兄弟たちよ」と呼びかけています。そして、このパウロの呼びかけを通して、改めて、洗礼を受けた恵みを覚えたいと思います。洗礼によって、私たちは律法に対して死んだのであり、私たちの内にいてくださるイエス様の御霊に仕えていのだということを覚えたいと思います。そして、死に至る実ではなくて、神様に対して実を結ぶ者でありたいと思います。

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