礼拝説教から 2020年10月18日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙6章15-23節
  • 説教題:聖潔に進みなさい

 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。(ローマ人への手紙6章16-19節)

 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手貝6章22-23節)

1.

 パウロは、奴隷という言葉を繰り返して使っています。

 奴隷というのは、どのような人々でしょうか。その最大の特徴は、主人がいるということです。自分が自分の主人なのではなくて、自分の主人が他にいるということです。そして、その主人の言葉に従わなければならないということです。自分が自分の主人となって、自分の自由に生きることができるのではなくて、主人の言葉に従って動かなければならないということです。

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷になると言っています。そして、その上で、二種類の奴隷を示しています。それは、「罪の奴隷」と「従順の奴隷」です。私たちは、罪の奴隷になるなら、死に至るのであり、従順の奴隷になるなら、義に至るのだということです。少し後の所では、罪の奴隷は「汚れと不法の奴隷」、従順の奴隷は「義の奴隷」、「神の奴隷」と言い換えられたりもしています。

 パウロは、「自分自身を奴隷として献げて服従すれば」と言っています。「自分自身を奴隷として献げて服従すれば」という言葉には、奴隷として献げて服従しない選択の自由があるかのように感じられます。しかし、パウロが言っているのは、「私たちには、自分自身を奴隷として献げて服従するかしないかの選択をする自由があって、その上で、自分自身を誰かに奴隷として献げて服従するなら」ということではありません。そうではなくて、私たちは、自分自身を奴隷として献げて服従しているということです。そして、その相手は、罪か神様かのどちらかだということです。私たちは、罪の奴隷となっているか、神様の奴隷となっているか、どちらか一つだということです。私たちは、神様の奴隷でもなく、罪の奴隷でもなく、どちらにも属さない自由な者として生きることができるということではなくて、神様の奴隷となるか、罪の奴隷となるか、二つに一つしかないということです。

 どうしてでしょうか。なぜなら、神様に従わないということそのものが、罪だからです。神様に従わないということそのものが、罪の支配の下にあるということであり、罪の奴隷になっているということだからです。神様に従わないことは、私たちが、自由を獲得しているということではなくて、罪の奴隷になっているということです。神様に従っているなら神様の奴隷なのであり、そうでなければ、罪の奴隷になっているということです。誰の奴隷にもならないなどと思っている時点で、すでに、罪の奴隷になっているということです。罪の支配の下に閉じ込められているということです。

 パウロは、私たちが、罪の奴隷であるならば、その行き着く所は死であり、神様の奴隷であるならば、その行き着く所は義だということを言っています。義は、少し後の所では、永遠の命と言い換えられています。

 ここでパウロが死と言っているのは、ただ単純に、私たちの人生が終わりを迎えるということではありません。そうではなくて、神様から引き離されるということです。神様の愛を受け取ることができなくなるということです。

 逆に、パウロが永遠の命と言っているのは、私たちが不老不死の体を手に入れるということではありません。そうではなくて、永遠なる神様によって、新しく生かされる者になるということです。この世界を造られた神様、御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、ご自分が生と死を支配する方であることを示された神様、その永遠なる神様によって、新しく生かされる者になるということです。そして、その神様に生かされる者となる時、私たちは必要以上に死の問題を恐れなくなります。なぜなら、生と死を支配し、私たちを愛していてくださる神様によって、私たちは死んでも生きる者となるからです。

 私たちは誰の奴隷となっているでしょうか。罪でしょうか。神様でしょうか。

 私たちの礼拝に集まる一人一人が、神様の奴隷となって、永遠なる神様によって、新しく生きる者となることを心から願います。

2.

 パウロは、かつては罪の奴隷だったローマの教会の人々が、現在は、罪から解放されて、義の奴隷になったと言っています。義の奴隷というのは、従順の奴隷であり、神様の奴隷だということです。そして、それは、ローマの教会の人々が、「伝えられた教えの規範に心から服従し」たからだと説明されています。パウロは、罪の奴隷だったローマの教会の人々が、伝えられた教えの規範に心から服従して、神様の奴隷になったと言っているわけです。

 どうでしょうか。私たちの考えでは、奴隷になるというのは、決して良いことではありません。奴隷になるというのは、自由が奪われることです。現在の日本であれば、憲法で保障されている基本的人権が奪われることだと言ってもいいかも知れません。そもそも、奴隷という存在そのものが、認められていいものではないでしょう。

 しかし、パウロが言っているのは、どういうことでしょうか。それは、ローマの教会の人々が、伝えられた教えの規範に心から服従して、神様の奴隷になったということではないでしょうか。ローマの教会の人々は、嫌々ではなくて、誰かから強制されてでもなくて、伝えられた教えの規範に心から服従して、神様の奴隷になったということです。

 それでは、ローマの教会の人々が心から服従した、伝えられた教えの規範というのは、何なのでしょうか。

 パウロの時代には、まだ現在のような形の聖書はありませんでした。しかし、そのパウロの時代に、教会では、すでにまとまった内容の教えが規範として伝えられていたようです。規範というのは、規準とも訳される言葉です。自分たちが何を信じて生きるのかについて、その基準、規範となる教えです。あるいは、信仰の基準、信仰の規範と言ってもいいのかも知れません。

 パウロの他の手紙を見ると、パウロ自身も、教会において、その教えを受け取って、他の人々に伝えていたことが分かります。そして、その教えの中心は、イエス・キリストの十字架の死と復活ということになるでしょう。それは、イエス・キリストが、ご自分を拒む私たちの罪の赦しのために、私たちの代わりに、十字架にかかって、私たちの罪の罰を受けてくださったのであり、三日目に死者の中から復活されたということです。そして、それは、神様が私たちを愛してくださったからだということです。神様は、ご自分の愛を拒み、ご自分から離れた罪人の私たちを愛するが故に、人となって、十字架にかかってくださったということです。そして、その神様の愛に気づかされた時、私たちは、強制されてではなくて、嫌々ながらではなくて、心からその教えに従って、神様の奴隷になるのだということです。罪の支配から解放されて、神様の奴隷になるのだということです。

 神様の奴隷というのは、神様によって、自由を奪われた人々、がんじがらめに縛られている人々ということではありません。そうではなくて、神様の愛に気づいた人々です。私たちが罪の支配から救い出されるために、かけがえのないご自分の命を犠牲にまでしてくださった神様の愛に気づいた人々です。そして、その真実の愛に気づかされたからこそ、その愛に応えて生きる人々です。神様を愛して、神様に自分を委ねて生きる人々です。そして、だからこそと言えるでしょうか。パウロは、ローマの教会の人々に対して、改めて、自分の手足を義の奴隷として、神様に献げることを命じています。

 パウロは、ローマの教会の人々に、自分の手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさいと命じています。

 「せいけつ」という言葉を聞くと、私たちは、一般的に、「清水寺」の「清」という漢字を使います。その「清潔」の意味は、「よごれがなくきれいなこと」ということになります。「清潔」というのは、基本的には、汚れがなくてきれいなことだということです。

 そして、その「清潔」のイメージがあるからでしょうか。私たちは「せいけつ」という言葉を聞くと、衛生的な意味においても、倫理的な意味においても、「よごれている」、「けがれている」と考えられるものから離れることを考えるのではないでしょうか。逆に言うと、「よごれている」、「けがれている」と考えられるものから離れてさえいれば、「自分は清潔」だということになるのかも知れません。

 しかし、パウロの言っている「せいけつ」という言葉には、「聖書」の「聖」という漢字が使われています。そして、「聖」というのは、何よりも神様ご自身の性質です。誰よりも神様ご自身が聖なる方だということです。そして、聖潔に進むというのは、その聖なる神様のものとされて生きるということです。神様に自分を委ねて、神様の言葉に従って生きるということです。だからこそ、パウロは、「その手足を義の奴隷として献げて」、聖潔に進むのだと言っています。

 パウロは、ローマの教会の人々について、「聖潔に至る実を得ています」と言っています。

 聖潔に至る実を得ているというのは、どういうことでしょうか。それは、すでに聖潔に至っているということではありません。しかし、だからと言って、まったく聖潔ではないということでもありません。なぜなら、すでに聖潔に至る実を得ているからです。まだ完全なわけではないけれども、すでに聖潔に向かって進んでいるのであり、実際にその実を得ているということです。そして、それは、イエス様を信じて、洗礼を受けて、罪から解放されて、神様の奴隷となったすべてのクリスチャンの姿だと言えるでしょう。私たちは、イエス様を信じて洗礼を受けたクリスチャンであるなら、すでに罪から解放されているのであり、神様の奴隷とされているのであり、だからこそ、聖潔に向かって進みなさいと命じられているということです。そして、その行き着く所が永遠の命だということです。

 パウロは、最後に、罪の報酬は死だと言っています。報酬というのは、働きに対して与えられるものということです。私たちが、罪の奴隷として生きるならば、その罪の奴隷として生きた働きに対して、死が与えられるということです。しかし、パウロは、永遠の命に対しては、報酬とは言っていません。神様の賜物だと言っています。

 賜物というのは、プレゼントだということです。それは、働きに対して与えられるものではなくて、恵みとして与えられるものです。あるいは、働きのない者に与えられる恵みのプレゼントと言ってもいいかも知れません。

 永遠の命が神様の賜物であるというのは、私たちが、がんばって聖潔の道を進んだら、その報酬として、永遠の命が与えられるということではありません。逆に、聖潔の道を進む者として不合格になったら、もらえないというようなものではありません。そうではなくて、永遠の命というのは、イエス様を信じて、洗礼を受けて、神様の奴隷として、聖潔の道を進みはじめたすべてのクリスチャンに約束されている神様の賜物だということです。聖潔の道に進む私たちは、神様からの賜物として、永遠の命が約束されているということです。そして、神様は、私たちが最後までその聖潔の道を進むことができるように、責任を持って導いてくださいます。だからこそ、毎週のように、私たちを礼拝に招いていてくださると言ってもいいのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。聖潔に進んでいるでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、イエス様の十字架を見上げながら、神様から愛されていることを覚えたいと思います。そして、イエス様を信じて洗礼を受けているなら、すでに罪から解放されている者として、神様の奴隷として、自分を神様に献げて委ねたいと思います。神様に従いたいと思います。そして、一歩一歩、神様ご自身に支えられながら、聖潔に至る実を結ぶ者とならせていただきたいと思います。

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