礼拝説教から 2020年10月11日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙6章12-14節
  • 説教題:献身

 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。(ローマ人への手紙6章12-14節)

 パウロは「死ぬべきからだ」という言い方をしています。「死ぬべきからだ」というのは、他でもなく、私たちの持っている体のことです。やがては死んで滅びることになる私たちの体です。そして、それは、逆に言うと、まだ死んでいない体ということを意味しています。生きている体です。具体的な日々の生活をしている体です。だからこそ、その体は、欲望から自由ではないということになるのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。何か欲望があるでしょうか。

 『広辞苑』で欲望を調べてみると、「不足を感じてこれを満たそうと望む心」と説明されています。何か不足があって、これを満たそうと望むことが欲望だということです。

 不足を満たすというのは、そのこと自体は大きな問題がないと言ってもいいのかも知れません。しかし、残念なことにと言ってもいいでしょうか。欲望にはきりがありません。私たちは自分の欲望を決して満たすことができないということです。満たしたと思った尻から、何か不足を感じるというのが、私たちの現実です。そして、その不足をずっと満たそうと必死になれば、それは、すでに欲望の虜になっているということになるでしょう。私たちは、自分の自由に生きているようでいて、実は、欲望の虜になっているに過ぎないことが、いくらでもあるということです。

 パウロは、その私たちの現実をよく踏まえているということになるでしょうか。ローマの教会の人々に対して、自分の死ぬべき体について、罪に支配させてはならない、体の欲望に従ってはならないと戒めています。

 死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従ってはいけないというのは、どのような感じがするでしょうか。もしかしたら、罪を犯さないように、欲望に負けないように、必死のパッチで努力をしなければならないという感じがするかも知れません。片時も気を緩めないで、自分を見張っていないといけないという感じがするかも知れません。そして、そうであるならば、それは、私たちの努力ということになるのかも知れません。私たちが、強い意志と努力によって、罪に勝利をしなければならないということになります。

 しかし、どうなのでしょうか。私たちは自分の決意や努力で罪の支配に打ち勝つことができるのでしょうか。欲望に負けないでいることができるのでしょうか。これまでに何度も分かち合ってきましたが、それはできないわけです。むしろ、できないというのが、私たちが罪人であることの意味なのではないでしょうか。私たちは、罪人だからこそ、罪の支配から逃れることができないのであり、だからこそ、イエス様が私たちを罪の支配から解放するために、十字架の上で私たちの罪を背負ってくださったということです。

 パウロは、私たちの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従ってはならないと言いました。しかし、それは、私たちが、自分の決意や努力で罪の支配に打ち勝たなければならない、欲望に負けてはならないということを意味しているのではありません。

 パウロは死ぬべき体に続いて、「手足」という言い方をしています。欄外注の説明によれば、手足というのは、肢体や五体と訳すこともできるようですが、いずれにしろ、パウロが見つめているのは、手足を使った、体全体を使った、私たちの具体的な日々の生活ということになるでしょう。そして、その具体的な日々の生活の中で、私たちの体を、不義の道具として罪に献げてはならないということです。

 パウロは、今日の本文の中で、「してはならない」ということを繰り返していましたが、最後に「しなさい」ということを言っています。それは、自分自身を神様に献げなさいということです。自分の体を、義の道具として、神様に献げなさいということです。

 献げるというのは、どういうことでしょうか。その大きな意味の一つは、献げたものが自分のものではなくなるということではないでしょうか。献げたものが、献げた相手のものになるということではないでしょうか。そして、自分自身を神様に献げるというのは、自分が自分のものではなくなるということです。自分が神様のものになるということです。自分はもはや自分のものではない、神様のものだということです。そして、それは、自分を神様に委ねるということに他ならないでしょう。自分を神様に明け渡すということです。神様に自分を支配していただくということです。古い自分が粉々に砕かれて、神様によって、支えられ導かれて生きるということです。

 今日は、説教のタイトルを、「献身」とさせていただきました。

 教会では、献身という言葉がよく使われます。献身というのは、まさに、自分自身を神様に献げるということです。自分の体、自分の生活、自分の生涯を、神様に献げるということです。自分の体、自分の生活、自分の生涯は、私たち自身のものではなくて、神様のものであることを告白して生きることです。

 もしかしたら、日本の教会では、献身と言えば、フルタイムの働き人になることを意味しているような所があるかも知れません。献身というのは、仕事を止めて、神学校に行って、フルタイムの牧師や宣教師になることだと考えられているような所があるかも知れません。

 しかし、今日の本文の中で、パウロ言っていることは何でしょうか。それは、献身が、フルタイムの牧師や宣教師だけのものではないということではないでしょうか。むしろ、献身というのは、イエス様を信じて洗礼を受けたすべてのクリスチャンに求められていることだということです。あるいは、イエス様を信じて洗礼を受けることそのものが、神様に自分を献げることであり、献身だと言った方がいいのかも知れません。私たちは、イエス様を信じて洗礼を受けたクリスチャンであるなら、一人の例外もなく、献身者であるということです。献身というのは、少数の特別な人々だけに関わることではなくて、すべてのクリスチャンに関わることだということです。洗礼を受けた私たち一人一人に関わることだということです。

 そして、だからこそと言えるでしょうか。パウロは、自分を神様に献げることについて、「死者の中から生かされた者として」という説明を加えています。パウロは、死者の中から生かされた者として、自分を神様に献げなさいと教えているということです。神様を自分に献げるのは、死者の中から生かされたからこそだということです。そして、死者の中から生かされたのは、洗礼によって、キリスト・イエスに結びつけられたことによってだということです。私たちは、洗礼を受けて、キリスト・イエスに結びつけられたことによって、罪に対して死んで、新しく生きる者となったからこそ、自分を神様に献げるのだということです。

 どうでしょうか。もしかしたら、献身と言えば、とても大変なことだというイメージがあるかも知れません。苦難の連続する人生をイメージするかも知れません。誰もができることではないと考えるかも知れません。

 しかし、そうすると、どうなるでしょうか。パウロは、ローマの教会の人々に対して、現在の私たちに対して、とても難しいことを求めているということになるのでしょうか。ものすごい苦難の道へと招いているのでしょうか。

 私たちが、献身するというのは、神様に自分を献げるというのは、私たちが神様のものになるということです。自分を神様に委ねるということです。そして、それは、逆に言うと、神様が私たちの人生に責任を持ってくださるということです。私たちが、自分の人生に責任を持つのではなくて、神様が、私たちの人生に責任を持ってくださるということです。神様が、責任を持って、私たちの人生を支え導いてくださるということです。

 自分の決意や努力で罪を克服しなければならない、欲望に打ち勝たなければならないとすれば、それこそ、とても大変なことです。苦難の連続です。誰にでもできることではないどころか、誰にもできないことです。

 しかし、その反対に、神様に自分を献げることは、献身することは、誰にでもできることです。イエス様を自分の救い主として信じ受け入れて、洗礼によって、そのイエス様と結び付けられたクリスチャンであるなら、誰にでもできることです。神様に自分を献げることは、献身することは、洗礼を受けて、罪に対して死んで、神様に対して新しく生きるすべてのクリスチャンに開かれている道です。そして、それは、自分の力で罪と戦い続けなければならない苦難の道であるというよりは、神様によって勝利が約束されている恵みの道だと言えるでしょう。

 パウロは、最後に、すでに洗礼を受けたローマの教会の人々に対して、パウロは罪に支配されることがないと言っています。そして、その理由のようなこととして、パウロは、洗礼を受けたローマの教会の人々が、「律法の下にではなく、恵みの下にある」と言っています。

 律法の下にではなく、恵みの下にあるというのは、どういうことでしょうか。

 律法の下にあるというのは、律法を行うことによって、救いを獲得しなければならないということです。律法の行いが、合格と認められれば救われる、不合格であれば救われないということです。

 パウロは、すでに、誰一人として、律法の行いによっては、神様から義と認められないと言っていました。私たちは、誰一人として、律法の行いによっては、神様から合格と認められないということです。つまり、私たちは、律法の下にあるなら、律法の行いによって義と認められなければならないのなら、罪人として裁かれるしかないということです。だからこそ、律法の下にあるというのは、罪に支配されていることを意味しています。

 しかし、パウロが言っているのは、イエス様を信じて洗礼を受けているのなら、律法の下にはいないのだということです。その反対に、恵みの下にいるのだということです。イエス様を信じて洗礼を受けた私たちは、律法を行うことによって、救いを獲得しなければならないような戦いの中にあるのではなくて、私たちの罪を一方的に赦してくださった神様の恵みの下にあるのだということです。だからこそ、もはや罪に支配されることはないのであり、大切なことは、自分自身を神様の献げることだということです。自分の罪を赦してくださった神様を信頼して、その神様に自分を委ねることです。自分が砕かれて、神様ご自身に支えられて導かれることです。そして、神様はその私たちを用いてくださいます。義の道具として用いてくださいます。

 私たちは、どうでしょうか。罪に悩まされていることがあるでしょうか。どうすることもできない欲望があるでしょうか。必死に戦っているでしょうか。逆に、諦めているでしょうか。

 神様は、私たちがイエス様を信じて洗礼を受けているなら、罪が私たちを支配することはないと約束してくださっています。私たちが、律法の下にではなく、恵みの下にあると約束してくださっています。そして、だからこそ、自分自身を神様に献げて委ねなさいと教えてくださっています。

 私たちの礼拝に集まる一人一人が、イエス様を信じて、洗礼を受けて、神様の恵みの下で、自分を神様に献げて生きることができることを、心から願います。自分の力で戦うのではなく、その力がなくて諦めるのでもなく、神様ご自身の恵みによって、最後まで勝利の道を歩ませていただくことができればと思います。

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