礼拝説教から 2020年10月4日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙6章1-11節
  • 説教題:キリスト・イエスにつくバプテスマ

 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ人への手紙6章1-4節)

 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。(ローマ人への手紙6章11節)

 パウロは、罪が増し加わる所に、恵みも満ち溢れたと言っていました。しかし、その言葉をひっくり返して、揚げ足を取るような問いかけをしています。「罪が増し加わる所に、恵みが満ち溢れるなら、恵みが増し加わるために、罪に留まるべきじゃないのか」ということです。

 どういうことなのでしょうか。

 パウロは、神様の一方的な恵みによる救いの素晴らしさを訴えていました。パウロは、私たちが、神様の言葉である律法を一生懸命に守ってではなくて、何か善い行いを積み上げてではなくて、神様の一方的な恵みによって、罪が赦されて、義と認められるのだと、訴えてきました。私たちを愛するが故に、私たちの罪が赦されるために、私たちの代わりに、十字架にかかって、私たちの罪の罰を受けてくださったイエス・キリストを、ただ自分の救い主として信じ受け入れることによって、神様から義と認められるのだと、訴えてきました。パウロは、罪人の私たちに注がれている神様の救いの恵みの素晴らしさを、一生懸命に語ってきたわけです。しかし、そのパウロに対して、「だったら」と言って、文句を言っている人々がいたということです。そして、パウロは、その人々の批判と誠実に向き合っているということです。

 パウロは、「恵みが増し加わるために、罪に留まるべきなのか」という批判に対して、強く否定をしています。決して罪に留まるべきではないということです。そして、その理由として、自分たちが罪に対して死んだからだということを言っています。自分たちは、罪に対して死んだのであり、だからこそ、これ以上は罪の中に生きていることができないということです。

 罪に対して死んだというのは、何だか、分かったような、分からないような言葉ですが、どういうことなのでしょうか。それは、罪との関係が断ち切られたということではないでしょうか。罪に対して死んだというのは、罪と関係のない者になったということです。あるいは、罪の支配から解放されたと言ってもいいのかも知れません。だからこそ、もはや、罪との関係の中に生きることはできないということです。すでに罪との関係が断ち切られている以上、罪との関係の中に留まることはできないということです。

 神様の恵みは、罪の増し加わる所に満ちあふれます。神様の恵みは、罪人である私たちの上に、豊かに注がれています。しかし、だからと言って、それは、私たちが神様の恵みを受け取るために、罪を犯してもいいということを意味しているのではありません。パウロの語る福音は、罪を肯定するものではないわけです。その反対に、パウロが言っているのは、罪に対して死んだ者であるなら、罪との関係の中に留まっていることができないということです。

 私たちはどうでしょうか。罪に対して死んだでしょうか。罪との関係を断ち切ったでしょうか。罪との関係を絶ち切ったどころか、罪にまみれているということはないでしょうか。あるいは、もしかしたら、「なかなか罪との関係が切れない、罪にしつこく付きまとわれている」というのが、私たちの実感に近いということになるのかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、私たちが罪に対して死んだと言っているということです。私たちは、罪との関係が断ち切られた、罪の支配から解放されたということです。

 どうしてでしょうか。それは、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」からだということです。私たちは、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」ことによって、罪に対して死んだということです。

 バプテスマというのは、洗礼ということです。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは、その死に与るバプテスマを受けたのではないかということです。

 パウロは、バプテスマについて、「キリスト・イエスにつく」という説明をしています。これも、何だか、分かったような、分からないような表現ですが、それは、「キリスト・イエスに結びつけられる」ということです。「キリスト・イエスと一つになる」ということです。洗礼が意味することの一つは、私たちがキリスト・イエスと結びつけられるということです。私たちは、洗礼を受けることによって、キリスト・イエスに結びつけられるということです。そして、だからこそ、私たちは、洗礼によって、キリスト・イエスの死と復活の恵みに与ることができるということです。キリスト・イエスと共に葬られて、罪に対して死ぬのであり、復活されたキリスト・イエスと共に、新しい命に歩むということです。

 繰り返しになりますが、パウロは、私たちが罪に対して死んだと言いました。それは、私たちが、自分の強い意志や努力によって、罪との関係を断ち切ったということではありません。私たちには罪との関係を断ち切る力がないわけです。そして、それが、罪の支配の下にある私たちの現実です。罪の支配の下にある私たちには、罪との関係を断ち切る力がないということです。

 しかし、その私たちの代わりに、私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださったのが、キリスト・イエスだということです。キリスト・イエスが私たちの罪の罰を受けてくださって、私たちと罪との関係を断ち切ってくださったということです。そして、洗礼によって、私たちは、キリスト・イエスと一つにされて、キリスト・イエスと共に、罪に対して死んだ者とされるのです。洗礼を受けて、キリスト・イエスと一つにされているなら、私たちは罪に対して死んでいるということです。

 そして、だからこそということになるでしょうか。洗礼を受けた私たちの新しい歩みというのは、自分の力によって進むものではありません。私たちが、自分の強い意志や努力によって、まとわりついてくる罪との関係を断ち切っていくことではありません。そうではなくて、私たちと罪との関係を断ち切ってくださったキリスト・イエスを信じて生きるということです。自分は罪を克服することができる者ではないけれども、その自分を罪から解放するために、死んで復活してくださったイエス様が、ずっと支えていてくださることを、信じて生きるということです。そして、その私たちを、神様は、実際に、罪に対して死んだ者として認めていてくださるということです。神様の恵みによって始まった私たちの信仰生活は、最後まで、神様の恵みによるのだということです。

 ちなみに、パウロは、洗礼について説明する時に、「あなたがたは知らないのですか」と問いかけました。「知らないのですか」と問いかけながら、洗礼によってもたらされた恵みについて説明しました。

 どうでしょうか。パウロが「あなたがた」と呼ぶローマの教会の人々は、パウロが説明する洗礼の意味をまったく知らなかったのでしょうか。ローマの教会の人々は、洗礼に対するパウロの説明を、初めて聞いたのでしょうか。そうではないのではないでしょうか。パウロは、ローマの教会の人々が、洗礼について何も知らなくて、「知らないのですか」と問いかけているのではないということです。パウロは、ローマの教会の人々が、洗礼の意味を知っているにもかかわらず、「知らないのですか」と問いかけているということです。

 どういうことなのでしょうか。それは、ローマの教会の人々が、実際の信仰生活の中で、洗礼の恵みを実感していなかったということではないでしょうか。罪に対して死んだと言われても、なおも罪にまみれている自分の信仰生活を振り返りながら、自分が罪に対して死んだことを実感できないでいたということではないでしょうか。そして、だからこそということになるでしょうか。洗礼を受けて、キリスト・イエスに結ばれた者が、罪に対して死んだという説明は、「認めなさい」という言葉で締めくくられることになるのではないでしょうか。

 パウロは、ローマの教会の人々に対して、自分が罪に対して死んだ者であり、神様に対して生きている者であることを、認めなさいと言っています。パウロは、ただ単に、「あなたがたは、罪に対して死んだ者であり、神様に対して生きている者だよ」と教えているのではありません。そうではなくて、罪に対して死んだ者であり、神様に対して生きている者であることを認めなさいと言っているということです。あるいは、諭していると言えばいいでしょうか。そして、それは、ローマの教会の人々が、自分は罪に対して死んだ者であり、神様に対して生きている者であることを認められないでいるということを意味しています。洗礼によって、死んで復活されたキリスト・イエスに結ばれているにもかかわらず、自分が、罪に対して死に、神様に対して生きていることを、実感できないでいるということを意味しています。あるいは、信じることができないでいると言った方がいいのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。先ほどの質問を繰り返すようなことになりますが、もしかしたら、私たちもまた、自分の信仰生活を振り返りながら、自分が罪に対して死んだ者であることを、なかなか実感できないでいるということは、ないでしょうか。洗礼を受けたにもかかわらず、罪にまみれている自分の弱さを思い知らされているということは、ないでしょうか。そして、もしかしたら、そんな罪深い自分を駄目なクリスチャンだと思っていることはないでしょうか。あるいは、その反対に、「どうせ罪人なんだから」と言って、開き直っていることはないでしょうか。

 洗礼を受けた私たちが、罪に対して死んだ者であり、神様に対して生きている者であるというのは、私たちが、自分の意思や努力によって成し遂げていくものではありません。自分の信仰生活を通して実感するようなものでもありません。そうではなくて、認めることです。自分の信仰生活が、どれほど罪に対して死んだと言えるようなものではないとしても、神様に対して生きているようなものではないとしても、自分は罪に対して死んだ者であり、神様に対して生きているのだと認め続けることです。あるいは、信じることだと言った方がいいのかも知れません。洗礼の中で、自分が罪に対して死んだ者となり、神様に対して生きる者となったことを宣言してくださった神様の御声を、信じて受け入れ続けることです。そして、それは、「どうせ罪人なんだから」と言って、開き直ることとは違います。あるいは、罪に対して死に、神様に対して生きる恵みの道へと招いてくださったキリスト・イエスから目を離すなら、私たちは、本当に、ただ自分の罪を正当化するだけの者になってしまうかも知れません。しかし、洗礼を受けた者であることを思い起こしながら、自分が罪に対して死ぬために、神様に対して生きるために、十字架にかかってくださったキリスト・イエスを見上げるなら、私たちは、そのキリスト・イエスに支えられて歩むことになります。私たちの意思や努力によってではなくて、キリスト・イエスに支えられて、罪に対して死んだ者として、神様に対して生きている者として歩むことになります。  私たちの礼拝に招かれている一人一人が、洗礼の恵みに与ることができることを、心から願います。そして、キリスト・イエスと一つとされて、キリスト・イエスと共に、罪に対して死んだ者として、神様に対して生きる者にされたいと思います。

コメントを残す