礼拝説教から 2020年9月27日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙5章12-21節
  • 説教題:恵みの支配

 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。(ローマ人への手紙5章13節)

 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(ローマ人への手紙5章20-21節)

1.

 先週の礼拝の中で、パウロは、二つの支配を比較しているということを言いました。二つというのは、死と恵みです。パウロは、死の支配と恵みの支配とを比較しているということです。そして、その死の支配と恵みの支配について、直接的に記しているのが、21節です。

 パウロは、少し前の15節や17節では、死が支配すると言っています。しかし、21節では、その死をもたらした罪が支配するのだと言っています。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。パウロが言っていた死の支配というのは、結局の所は、罪の支配と言ってもいいのかも知れません。そして、それは、問題の根本が罪にあるということを意味しています。根本的な問題は、死にあるのではなくて、罪にあるということです。つまり、どれだけ死の問題と向き合ったとしても、罪の問題が解決されなければ、死の問題には解決がないということです。罪の問題が解決されて、初めて、死の問題も解決されるということです。死の支配の終わりは、罪の問題が解決される所にあるということです。

 私たちの人生において、最大の問題は何でしょうか。多くの人の場合、あるいは、すべての人と言ってもいいのだと思いますが、それは、死の問題ではないでしょうか。罪の問題ではなくて、死の問題なのではないでしょうか。なぜなら、死は誰もが経験することだからです。私たちは、一人も例外もなく、最後には死を迎えるということです。だからこそ、死は、私たちの人生において、最大の問題だということです。しかし、パウロの言葉によると、より根本的な問題は、罪だということです。死ではなくて、罪だということです。

 死というのは、とても分かりやすい形のものです。見れば分かるものです。それに対して、罪は、ちょっと分かりにくい部分があるのではないでしょうか。死が分かりやすい形のものであるのに対して、罪は分かりにくいものだということです。私たちは、自分の罪にしろ、他人の罪にしろ、罪を罪として認めることが簡単ではないこともあるということです。あるいは、だからこそ、多くの人が、死の問題にはピンと来ても、罪の問題にはピンと来ないということになるのかも知れません。

 パウロは、律法が与えられる前から罪が世にあったと言っています。パウロがここで律法と言っているのは、モーセの律法のことです。罪は、モーセを通して、律法が与えられる前から、アダム以来、ずっとあったということです。ただ、律法が与えられていなかったために、罪は罪として認められなかったということです。罪は、モーセの律法を通して、罪として認められるようになったということです。

 律法というのは神様の言葉です。神様からの語りかけです。そして、その神様の言葉、神様からの語りかけを聞いて、私たちは初めて自分の罪に気づくことができるということです。神様との関係を拒み、神様から顔を背けてきた自分の罪に気づくということです。神様ご自身が私たちの罪を教えてくださるということです。

 しかし、そうすると、どういうことになるでしょうか。律法というのは、神様の言葉というのは、私たちに自分の罪を自覚させるためのものということになるのでしょうか。そうだとすれば、それは、モーセやユダヤ人たちにとっても、現在の私たちにとっても、あまり有難くないものということになるのかも知れません。

 パウロは、律法が入ってきた理由を、違反が増し加わるためだったと言っています。それは、罪が罪としてあぶり出されるということです。神様から律法を受け取ったモーセ以降の人々は、律法に照らされて、罪に定められてきたということです。律法は、結果として、私たちに自分の罪を教える役割を果たすことになっているのかも知れません。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが最終的に言っていることは、何でしょうか。それは、罪の増し加わる所に、恵みも満ち溢れたということです。神様は、罪の増し加わる所に、恵みを満ち溢れさせてくださったということです。そして、それは、神様の願いが、最初から、罪人を裁くことではなく、罪人を救い出すことにあったということを意味しています。律法には、根本的に、その神様の救いの御心が証しされているのであり、神様は具体的に御子イエス・キリストによって、救いの道を開いてくださったということです。

 死というのは、私たちの人生において、最大の問題です。しかし、本当に根本的な問題は、罪です。あるいは、罪の解決なしに、肉体の死を迎えることこそが、問題だと言ってもいいのかも知れません。逆に言うと、罪の問題が解決されているなら、私たちは死ぬことを必要以上に恐れなくてもいいということです。なぜなら、イエス・キリストによって、罪の解決をいただいたなら、それは神様の恵みの支配の中にあるということだからです。私たちは、罪の解決をいただいたなら、生と死を越えた、永遠なる神様との関係の中に生かされているからです。

 私たちの礼拝に集まる一人一人が、私たちの関わる一人一人が、イエス様によって、罪の解決をいただくことができることを、心から願います。そして、その救いの恵みの中で、死の問題とも、しっかりと向き合っていくことができればと思います。

2.

 パウロは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配すると言っています。パウロが、罪の支配と比較している恵みの支配というのは、私たちが救われているということです。神様の救いというのは、私たちが罪の支配の中から解放されて、恵みの支配の中に招き入れられることだと言えるでしょう。

 どうでしょうか。救いは罪の支配からの解放だと言っておいて、その罪の支配から解放されたと思ったら、また支配なわけです。解放であるにも支配であるわけです。「結局、どこまでいっても、支配されるんかいな」と言いたくなるかも知れません。

 ちなみに、支配という言葉を『広辞苑』で調べてみると、「ある者が自分の意思・命令で他の人の思考・行為に規定・束縛を加えること」という説明がありました。簡単に言うと、支配というのは、束縛することです。自由を奪うことです。

 そうすると、どういうことになるのでしょうか。神様の恵みの支配というのは、神様によって束縛されるということになるのでしょうか。神様によって自由を奪われるということになるのでしょうか。

 決してそういうことではないでしょう。神様との関係の中に生きる、神様の恵みの支配を受け入れるというのは、神様によって束縛される、神様によって自由を奪われるということではありません。むしろ、神様の恵みの支配は、私たちに自由を与えるものです。

 神様との平和な関係の中に置かれていた時、アダムには自由がありました。神様は、たった一つだけ、善悪の知識の木の実を取って食べてはならないと、アダムに命じられましたが、その命令すらも拒む自由を保障しておられました。神様が願っておられたのは、アダムの自由を奪い取ることではなくて、アダムの命と自由を守ることでした。アダムが、自由な意志によって、ご自分との関係を大切にすることでした。アダムは、神様の命令すらも拒むことのできる自由を与えられていたということです。そして、自分の自由な意志によって、神様との関係を大切にする中で、神様ご自身によって完全に満たされていました。

 しかし、その神様との関係の中にあることを、神様によって束縛されていることと考えて、神様との関係を拒んだことが、アダムの罪だったということです。アダムは、自由であるはずの神様との関係を、束縛と考えて、その束縛から解放されて自由を得るために、神様の命令に背いて、善悪の知識の木から、その実を取って食べたということです。しかし、その結果として、アダムとその子孫は、逆に自由を失ってしまったということです。

 自由を求めて神様の言葉に背いたアダムは、その自由に伴う責任を、自分で取ることができませんでした。アダムは、神様の言葉に背いた罪の責任を、愛する妻に押しつけてしまいました。また、アダムの息子のカインは、コントロールすることのできない自分の感情に振り回されてしまいました。神様に対する不満でしょうか、弟に対する妬みでしょうか、カインは、自分の感情に支配されて、弟を殺してしまいました。もちろん、それでカインが満足したわけではありませんでした。そして、その子孫たちの間では、具体的に強い者が弱い者を支配するようなことも起こってきました。

 アダムとその子孫たちは、神様に背いて手に入れたはずの自由を喜ぶことができませんでした。逆に、持て余しただけでした。コントロールすることのできない自分の感情や、満たされることのない欲望に振り回されることになりました。至る所に、様々な束縛が生まれることになりました。そして、それは、アダムとその子孫たちが、私たちが、罪の支配の下に置かれることになったということを意味しています。罪の支配の下で、自由を奪われてしまったということを意味しています。

 神様の言葉に従うかどうかの自由さえ与えられていました。そして、神様の言葉に従う中で、アダムは自由を手にしていました。アダムは、束縛されていたのではなくて、自由だったわけです。自由は神様との関係の中にこそあるものでした。あるいは、自由というのは、神様との関係に生きるためのものと言ってもいいのかも知れません。自由というのは、私たちが神様を愛するために与えられているものだと言ってもいいのかも知れません。私たちが互いに愛し合うために、自由は与えられているのだと言ってもいいのかも知れません。

 私たちにとって、自由というのは、とても大切なものです。私たちは誰もが自由を願います。そして、神様ご自身も私たちが自由であることを望んでいてくださいます。だからこそ、神様は、かけがえのない御子イエス様の命を、私たちに与えてくださいました。御子イエス様の命によって、私たちが罪と死の支配から解放される道を開いてくださいました。神様は私たちを愛するが故に、私たちと共に生きることを願って、私たちが罪と死の支配から解放される道を開いてくださいました。ご自分との関係に生きる自由の道を開いてくださいました。

 私たちはどうでしょうか。自由に生きているでしょうか。自由に生きているようでいて、至る所で目に見えない束縛を受けていることはないでしょうか。果てしない欲望に支配されていることはないでしょうか。他人との比較の中で、優越感や劣等感に囚われていることはないでしょうか。

 神様は私たちが自由であることを願っておられます。罪と死の支配から、あらゆる束縛から自由になることを願っていてくださいます。そして、その自由は、神様との関係の中にあります。神様との関係を離れた所にではなくて、神様との関係の中にあります。神様の恵みの支配を受け取り続けていく所にあります。罪人の私たちをそのままに愛していてくださる神様ご自身によって満たされる所にあります。

 毎週日曜日の礼拝の中で、罪人の私たちを愛して十字架にかかってくださったイエス様を見上げたいと思います。そのイエス様の愛に気づかされて、イエス様の愛に応えて、イエス様を心の王座にお迎えしたいと思います。イエス様の恵みの支配を受け取りたいと思います。イエス様に従う自由の中に生かされたいと思います。イエス様に従う自由を喜び味わいたいと思います。

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