礼拝説教から 2020年9月20日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙5章12-21節
  • 説教題:アダムとキリスト

 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に――実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。(ローマ人への手紙5章12-14節)

1.

 パウロは、5章の前半までの所で、罪人の私たちを愛する神様の救いの恵みを語ってきました。私たちは、神様の教えである律法を完璧に行ったり、何か善い行いを積み上げたりして、神様を満足させなければならないのではありません。神様はご自分を拒む罪人の私たちを愛してくださっているということです。罪人の私たちを愛し、私たちとの関係の回復を願って、真の神様である主イエス・キリストが、真の人となって、私たちの代わりに、私たちの罪の罰を受けて、罪の赦しの道を開いてくださったということです。私たちはその神様の愛を受け取りさえすればいいということです。神様を拒んできた自分の罪を認め、その罪が赦されるために十字架にかかってくださったイエス様を、自分の救い主として信じ受け入れることによって、神様から義と認められることができるということです。神様との間に平和を持ち、神様ご自身に守られて、神様の栄光に与ることができるということです。そして、そのような神様の救いの恵みを前提として、パウロは話を進めようとしています。

 パウロは、「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」と言っています。パウロは、神様による救いの恵みを語った後で、改めて、罪に目を向けようとしています。罪と、その罪によってもたらされた死に、目を向けようとしています。せっかくここまで素晴らしい救いの恵みを語ってきたのに、また、暗い罪と死の話に逆戻りしています。

 パウロは「一人の人」と言っています。「一人の人」というのは、誰のことでしょうか。今日の本文を見ていくと、それはアダムのことであることが分かります。創世記の冒頭部分に描かれた最初の人、アダムです。

 創世記に描かれているように、パウロが確認しているように、罪と死はアダムによって、私たちの世界に入ってきました。そして、そのアダム以来の人類について、パウロは、「すべての人が罪の下にある」と、すでに語っていました。このことは、一般的に「原罪」と呼ばれます。私たちは、生まれた時から罪人だということです。成長過程のどこかで、何かの罪を犯して罪人になるのではなくて、生まれながらの罪人だということです。

 どうでしょうか。何だか納得がいくような、いかないような気がしないではないでしょうか。神話と言ってもいいような物語の中で、実在したかどうかも分からないような人物が罪を犯したことで、現在の自分までもが生まれながらの罪人呼ばわりされるのは、納得がいかないのではないでしょうか。アダムはアダム、自分は自分であり、何の関係もないじゃないかということにはならないでしょうか。確かにそうなのではないかと思います。

 アダムが罪を犯したことによって、すべての人が生まれながらに罪人であるというのは、決して納得のいく話ではありません。そして、それは、もしかしたら、ノンクリスチャンの人々にとってだけではなくて、クリスチャンにとっても、似たような部分があるのかも知れないということを思います。もちろん、クリスチャンであるなら、自分が罪人であることを認めているでしょう。しかし、「確かに、自分が罪人であることは認めるけれども、それはアダムのせいだ」というようなことを、どこかで思っていることはないでしょうか。

 確かに、「罪が世界に入った」という言い方からは、私たちが、自分の意志とは関係なく、勝手に罪人にされてしまったことを感じさせられるかも知れません。責任は、私たちにあるのではなくて、あくまでも、アダムにあると言わんばかりです。しかし、パウロは、そのすぐ後に、「すべての人が罪を犯した」と続けています。パウロは、すべての人が罪を犯したのだと言っているわけです。

 どういうことでしょうか。それは、私たちが自分の責任において罪を犯しているということではないでしょうか。パウロが言っているのは、私たちの罪がアダムのせいだということではなくて、私たち一人一人が自分の責任において罪を犯すのだということです。自分の罪の責任をアダムのせいにすることではなく、自分の罪を自分の罪として見つめることが必要だということです。そして、その自分の罪を自分の罪として見つめることができるのは、イエス様の十字架の前に立った時です。

 私たちは、アダムの罪がどのようにして現在の私たちにつながっているのか、納得のできる説明を聞いて、自分の罪を認めるのではありません。そうではなくて、イエス様の十字架の前に立って、イエス様と出会って、イエス様の愛に気づかされた時に、私たちは初めて自分の罪を見つめることができるということです。自分の罪を、アダムのせいにするのではなくて、アダムを誘惑したサタンのせいにするのでもなくて、自分の罪として見つめることができるということです。そして、だからこそ、パウロは、救いの恵みを語った後で、改めて、罪と死の問題を見つめているということです。パウロは、「すでに救いの恵みを語ったにもかかわらず」ではなくて、「救いの恵みを語ったからこそ」、私たちの目を改めて罪の深みへと向けさせているということです。

 どうでしょうか。自分の罪というのは、嫌なものです。できれば向き合いたくないものです。それは、自分が罪人であることを認めて悔い改めたはずのクリスチャンにとっても、何ら変わりはありません。自分の罪というのは、すでに自分が罪人であることを認めて悔い改めたはずのクリスチャンにとっても、向き合いたくないものだということです。実際に、罪を指摘されたら、認めることができなくて腹を立てたり、他の人や他の何かのせいにしたりするようなことが、しばしばあったりするのではないでしょうか。自分の罪と向き合うというのは、実に苦しいことです。できれば避けたいことです。しかし、その罪と向き合い続けていくのが、私たちの信仰生活だということです。

 アダムのせいにすることは簡単です。誰か他の人のせいにすることは簡単です。環境のせいにすることは簡単です。しかし、誰かのせい、何かのせいにするというのは、私たちが、自分の罪と向き合っていないことを意味しています。そして、それは、神様から罪を指摘されたアダムが、その自分の罪を妻であるエバのせいにしたことと、何ら変わりはありません。パウロは、私たちの目をアダムの罪へと向けさせながら、私たちが自分自身の罪と向き合うことを願っているということです。

 私たちはどうでしょうか。自分の罪をしっかりと見つめているでしょうか。

 イエス様の救いの恵みの中で、しっかりと自分の罪を見つめさせていただきたいと思います。そして、いつも、その救いの恵みの中で、罪の解決をいただいて、新しく出発していきたいと思います。

2.

 パウロは、14節の最後の所で、「アダムは来たるべき方のひな型です」と言っています。「ひな型」というのは、何だかよく分からない言葉ですが、その意味する所は、「前もって表すもの」ということです。アダムは「来たるべき方」を「前もって表す者」だということです。そして、その「来たるべき方」というのが、イエス・キリストに他なりません。

 アダムはイエス・キリストを前もって表しています。それは、イエス様がアダムと同じように罪を犯されたということではありません。イエス様が、アダムと同じように罪を犯されて、死の問題がさらに深刻になったということではありません。そうではなくて、その反対に、イエス様は、アダムによってもたらされた罪と死の支配の真っただ中に、救いの道を開いてくださったということです。そして、その救いをもたらすイエス様が、罪と死をもたらしたアダムによって前もって表されているということです。

 どういうことでしょうか。

 アダムの罪は、世界の中に死をもたらしました。すべての人がその死の支配を受けることになりました。しかし、その罪と死の支配が始まった所に、救いの道はすでに前もって表されているということです。罪と支配をもたらすきっかけとなったアダムその人に、救い主イエス・キリストが前もって表されているということです。そして、それは、アダムによって罪が入り、死がすべての人を支配するようになった出来事さえも、すべては神様の御手の中にあったということを意味しています。

 次の15節以降の部分を見ると、二つの支配が比較されています。一つは死の支配であり、もう一つは恵みの支配です。しかし、その二つの支配は、決して同じ土俵の上で比較されているのではありません。二つの支配が、私たちを巡って、がっぷりよつの攻防を繰り広げているということではありません。そうではなくて、死の支配と恵みの支配は比較にならないということです。比較にならないほどに、恵みの支配が圧倒的に優れているということです。そして、それは、アダムが最初に罪を犯した時にも変わらないということです。アダムの前も後も、すべてが神様の恵みの支配の中にあるということです。死の支配がどれだけ強い力を発揮しているように見えるとしても、神様の恵みの支配はびくともしないということです。そして、その恵みの支配を、神様は御子イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事において、はっきりと示してくださったのであり、イエス様を信じる私たちは、その恵みの支配の中に置かれているということです。決して揺るがされることのない恵みの支配の中に置かれているということです。

 パウロが言っている死というのは、ただ単に、肉体的なレベルのことを意味しているのではないでしょう。すべての人がいつかは必ず死ぬということだけを言っているのではありません。そうではなくて、それは、私たちが神様から引き離されることです。神様の愛から引き離されることです。神様との関係を失うことが、アダムの罪によってもたらされた死だということです。そして、その死の支配は、時に、強い力で私たちに迫ってくることがあるかも知れません。私たちが自分の人生の終わりを迎える時だけではなくて、私たちには、「神様はこんな自分を愛してはおられない」と思わされることが、しばしば起こってくるわけです。

 しかし、どのような力も、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。後に見ることになりますが、パウロは8章で、どのような苦難によっても、たとえ肉体的な死によってでさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできないということを断言しています。

 罪によってもたらされた死の支配というのは、とても深刻なものです。私たちは、その死の支配の力を、決して侮ることができません。しかし、だからと言って、必要以上に恐がることもないわけです。なぜなら、私たちは、死の支配とは比較にならない恵みの支配の中で生かされているからです。そして、大切なことは、私たちが、神様の揺るぎない恵みの支配の中に置かれているのであり、どのような力も、私たちを神様から引き離すことができないことを信じて生きることです。

 私たちの人生にはいろいろな課題や問題があります。そして、その課題や問題の中で、信仰が揺さぶられることがあるかも知れません。今まさに、そのような中にあるという方もおられるでしょうか。  毎週日曜日の礼拝の中で、イエス様の十字架の死と復活を見上げたいと思います。イエス様の十字架の死と復活を見上げながら、すべてが神様の恵みの支配の中に置かれていることを覚えたいと思います。どのような課題や問題も、私たちを神様の下から引き離すことができないことを確信させていただきたいと思います。そして、平安をいただいて、落ち着いて、死に支配されない人生を歩んでいきたいと思います。

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