礼拝説教から 2020年9月13日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙5章1-11節
  • 説教題:愛

 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章6-8節)

1.キリストが私たちのために死なれたことによって

 いつも、説教の後に、一曲の賛美を歌っています。最近は心の中で歌っていますが、今日は「ここに真の愛あり」というタイトルの賛美を選びました。

 どうでしょうか。「ここに真の愛あり」、「ここに」と言うからには、しかも、「真の」と言うからには、どこか他の所にも、何か「愛」と呼べそうなものがあることを感じさせます。いろいろな所に、「愛」と呼べそうなものがあることを感じさせます。しかし、その中で、「ここに」「真の愛」があるということを訴えているようです。

 クリスチャンにしろ、ノンクリスチャンにしろ、私たちは、基本的に、愛というものが大切であると考えているのではないかと思います。もちろん、「愛よりもお金だ」と考える人はいるでしょう。「愛があれば、すべては上手くいく」というようなものでもないでしょう。

 しかし、例えば、世界中で、古くから、愛が詩の題材になっていて、現在も、たくさんの流行歌の中で、愛が歌われているのを見る時、それは、私たちが愛を大切なものと考えていることを示していると言えるでしょう。私たちの人生において、愛は、必要なものであり、大切なものであるわけです。

 しかし、どうでしょうか。愛の大切さを感じながらも、愛だの、恋だのと言っていながら、「じゃあ、愛って何?」と尋ねられたら、どれだけの人が、ちゃんと愛について答えることができるでしょうか。NHKのチコちゃんに尋ねられて、「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と言われなくても済む人が、どれだけいるでしょうか。

 愛というのは、何でしょうか。後に歌う賛美においては、「ここに真の愛がある」と言っています。「ここ」というのは、どこでしょうか。それが、今日の本文の8節に示されていると言えるでしょう。

 「ここ」というのは、イエス・キリストが死なれた所です。イエス様が私たちのために死なれた所です。私たちの罪が赦されて、私たちが神様との関係の中で新しく生きるために、イエス様が十字架にかかって死んでくださった所です。そのイエス様が死なれた所に、私たちとの関係を大切にしていてくださる神様の愛が明らかにされているのであり、それが真の愛に他ならないということです。イエス様の十字架を見れば、私たちに対する神様の愛、真の愛を見ることができるということです。

 パウロは、私たちがまだ罪人だった時に、イエス様が私たちのために死んでくださったのだと言っています。

 私たちがまだ罪人だった時というのは、私たちが神様に対して顔を背けていた時ということです。私たちが「神様なんていらない」と思っていた時ということです。イエス様は、私たちが、自分の間違いに気づいて戻って来たから、神様の教えをちゃんと聞くようになったから、「よし、よし」と思って、私たちの罪が赦されるために、私たちの代わりに、十字架にかかってくださったわけではありません。そうではなくて、私たちが神様を拒んでいた時、神様ご自身の方から赦しの道を開いてくださったのであり、和解の手を差し伸べてくださったということです。そして、それは、神様が、何の条件も求めずに、どのような理由を必要とすることもなしに、私たちを受け入れてくださっていることを意味しています。私たちをありのままに愛して受け入れてくださっていることを意味しています。

 どうでしょうか。私たちの愛には、いつも、何か、理由や条件があるのではないかということを思います。「かわいいから」、「お金持ちだから」、「安定した仕事をしているから」、「親切だから」、「自分に関心を持ってくれているから」、実に様々な理由や条件を必要とするのが、私たちの愛ではないでしょうか。そして、その理由がなくなれば、条件が満たされなければ、すぐに愛することを止めてしまうのが、私たちの姿ではないでしょうか。人々が「愛」と呼んでいるものの正体ではないでしょうか。

 イエス様の十字架において明らかにされた神様の愛、真の愛というのは、どのようなものでしょうか。それは、どのような理由も必要としない愛です。どのような条件も求めない愛です。だからこそ、相手をありのままに受け入れる愛です。どんな時にも、決して変わることのない愛です。

 社会の中では、私たちは、格好いいことが、かわいいことが、求められているのかも知れません。勉強のできる、仕事のできることが、求められているのかも知れません。いつも親切で愛想よくしていることが求められているのかも知れません。そして、その求められていることができて、初めて、社会から快く受け入れられるのかも知れません。しかし、それは、簡単なことのようでありながら、誰もが簡単にできることではありません。私たちは、様々な関係の中で、受け入れてもらう条件を満たすために、受け入れて愛してもらう理由を作るために、いつも必死になっていると言ってもいいのかも知れません。

 真の神でありながら、真の人としてお生まれになってくださったイエス様は、ご自分を拒む私たちのために、十字架にかかってくださいました。何の理由もなく、何の条件を求めることもなく、罪人の私たちを赦して、ありのままに受け入れて、ご自分の命を与えてくださいました。そして、私たちに必要なのは、そのイエス様の愛です。そのイエス様の愛に満たされて生きることです。

 私たちの生きる世界には、様々な愛の形があるかも知れません。それは、必ずしも意味のないものばかりではないでしょう。私たちは様々な場面で素晴らしい愛の形を見て感動するわけです。しかし、私たちの人生に本当に必要な愛がなければ、私たちは決して満たされることができません。どこかに欠けがあることを感じながら生きているわけです。

 私たちはどうでしょうか。真の愛に満たされているでしょうか。様々な所で、愛を実感し、愛に感動しながらも、どこかで満たされていないことを感じていることはないでしょうか。あるいは、真の愛に満たされていたはずなのに、いつのまにか、その真の愛が分からなくなってしまっているということはないでしょうか。

 真の愛、私たちを完全に満たすことのできる愛は、イエス様が私たちのために死なれた所にあります。イエス様の十字架にあります。

 私たちの礼拝に集まる一人一人が、イエス様の十字架によって明らかにされた真の愛を見つめることができることを、心から願います。そして、その愛の中に飛び込んで、満たされたいと思います。

2.私たちがまだ弱かったころ

 先ほど、イエス様が私たちのために死なれたのは、「私たちがまだ罪人であったとき」のことだったと言いましたが、パウロは、同じことを、「私たちがまだ弱かったころ」と表現しています。イエス様は、私たちがまだ弱かった頃に死んでくださったのだということです。

 ここで「弱かった」と訳されている言葉には、「病に陥っている」というニュアンスが含まれているそうです。病気で弱くなっているということです。

 パウロは、「私たち」と言っていますが、誰のことでしょうか。それは、イエス様を信じて義と認められた人々のことでしょう。具体的には、パウロの手紙を読むローマの教会の人々であり、現在の私たちということになるでしょうか。もちろん、手紙を書いているパウロ自身も含まれていることでしょう。パウロは、自分たちがイエス様を信じて義と認められる前のことを、「私たちがまだ弱かったころ」と表現しているということです。

 私は、パウロが、イエス様を信じて義と認められる前のことを、「弱かった」と表現しているのを見て、ちょっと怖いなぁということを思いました。

 イエス様と出会う前のパウロ、イエス様を信じて義と認められる前のパウロは、どのような人だったでしょうか。パウロはとても強い人だったのではないでしょうか。弱いどころか、とても強い人だったのではないでしょうか。別の手紙では、パウロは、自分のことを、「律法による義については非難されるところがない者でした」とまで語っています。パウロは、律法の行いにおいて、誰からも非難されることがない、まさに自分の力で自分の義を主張することのできる、とても正しい人だったということです。パウロは、弱い人であるどころか、とても頭が良くて、力があって、ものすごい熱意もある、とても強い人だったわけです。そうであるにもかかわらず、そのパウロが、自分も含めて、イエス様を信じて義と認められる前の人々のことを、弱かったと表現しているわけです。あるいは、パウロは、イエス様を信じて義と認められて、初めて、自分の弱さに気づかされたということになるのかも知れません。自分もまた、罪の病に侵されている弱い者であったことに、初めて、気づかされたということになるのかも知れません。

 パウロに必要だったことは、何でしょうか。そして、私たちに必要なことは何でしょうか。それは、人々の前で、自分の強さ、自分の正しさ、自分の熱心さを示すことではありません。自分の強さ、正しさや熱心さを、人々に認めてもらうことではありません。神様に認めてもらうことでもありません。そうではなくて、むしろ、その反対に、自分の弱さと向き合うことです。罪の病に侵された自分の弱さとしっかりと向き合うことです。そして、その自分の弱さと向き合うことができるのは、真の愛の下においてしかありません。罪人のままの私たちを受け入れてくださるイエス様の愛の下にあって、初めて、私たちは自分の弱さと向き合う強さが与えられるということです。パウロは、自分の強さ、正しさ、熱心さに目を奪われて、見逃してきた自分の弱さを、イエス様の十字架の愛の下で、初めて見つめることができたということです。神様や周りの人々に見せつける強さではなくて、自分の弱さと向き合う強さが与えられたということです。

 イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」と言われました。そして、ご自分が来たのは、「罪人を招くため」だと言われました。イエス様は、罪人という病人を招くために、救い出すために、この世界にお生まれになられたということです。

 病人であるというのは、喜ばしいことではないかも知れません。しかし、決して恥ずかしいことではありません。同じように、罪人であるということも、喜ばしいことではないとしても、決して恥ずかしいことではありません。イエス様は、その病人のために、罪人のために、私たちの世界にお生まれになったわけです。罪の病に侵されている私たちを愛してくださったために、私たちの世界にお生まれになってくださったわけです。大切なことは、そのイエス様の前で、自分の弱さと向き合う強さをいただくことです。そして、イエス様の前で、自分の弱さをさらけだして、イエス様によって癒やしていただくことです。

 私たちはどうでしょうか。自分の弱さと向き合っているでしょうか。自分の弱さをほったらかしにしていることはないでしょうか。あるいは、自分の弱さと向き合いたくないために、神様と人々の前で、強い自分、正しい自分、熱心な自分を必死に演じているということはないでしょうか。

 イエス様の十字架の愛に満たされたいと思います。ありのままに愛されていることを覚えたいと思います。その愛の中で、自分の弱さと向き合う強さをいただきたいと思います。神様や周りの人々に示す強さではなくて、自分の弱さを隠すための強さではなくて、自分の弱さと向き合う強さをいただきたいと思います。そして、自分の知恵や力によってではなくて、神様に取り扱われながら、聖霊の実を結んでいく者となることができればと思います。

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