礼拝説教から 2020年9月6日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙5章1-11節
  • 説教題:希望

 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5章2-5節)

 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章8節)

1.喜んでいます

 パウロは、神様との間に平和を持っている私たちが、神様の栄光にあずかる望みを喜んでいると言っています。

 ここで「喜んでいます」と訳されている言葉を辞書で調べると、本来の意味は「誇る」ということになるようです。実際に、聖書協会共同訳などでは、「誇りにしています」と訳されています。

 喜ぶにしろ、誇るにしろ、それはとても大切なことです。喜ぶことができる、誇ることができるというのは、とても素晴らしいことです。

 しかし、私が、聖書を読みながら、いつも大切だなぁと思わされるのは、何を喜ぶのか、何を誇るのかということです。

 私たちは、何を喜びとしているでしょうか。何を誇りとしているでしょうか。お金があることでしょうか。健康であることでしょうか。周りから認められるような何かをすることでしょうか。誰にも迷惑をかけないで生きていることでしょうか。良い友だちがいることでしょうか。

 何か喜びとするものがある、誇りとするものがあるというのは、とても素晴らしいことです。自分の中に、喜びや誇りがあるなら、それは自分の支えになります。

 しかし、その喜びとするもの、誇りとするものを、自分の中に見つけることができなくなれば、どうでしょうか。「健康を失ってしまった」、「誰にも認めてもらえない」、「大きな事故を起こして迷惑をかけることになってしまった」、「信頼していた家族や親友に裏切られてしまった」、これまで自分を支えていた喜びや誇りを失ってしまったら、どうでしょうか。私たちは、支えを失って、ガタガタと音を立てて崩れ落ちてしまうしかないのではないでしょうか。

 自分の中に、喜びとするもの、誇りとするものがあるというのは、とても大切なことです。それは、決して否定されてはいけないでしょう。しかし、その喜びとするものや誇りとするものを、自分の知恵や力で、ずっと生み出し続けていくことは、決して簡単なことではありません。なぜなら、様々な事情の中で、自分を支える喜びや誇りを失うことは、いくらでも起こってくるからです。あるいは、「そんなもんは最初からない」という人もいるかも知れません。

 何週か前になりますが、神様を信じる、信仰によって義と認められるというのは、自分の誇りが取り除かれていくことだということを分かち合いました。神様から義と認められる信仰を持つというのは、自分を支える喜びや誇りが取り除かれていくことであり、その代わりに、神様ご自身に支えられて生きることだということです。神様は、私たちのお金や顔や、持っているものや、素晴らしい行いを見て、愛してくださっているのではなくて、私たちをありのままに愛していてくださるのであり、その神様ご自身に支えられて生き続けるのが、義と認められる信仰だということです。成功した時も、失敗した時も、いい時も悪い時も、私たちを愛していてくださる神様ご自身に支えられて生き続けるということです。

 大切なことは、自分自身の中に、喜びとするものや誇りとするものを見つけることではありません。自分の知恵と力で、喜びとするものや誇りとするものを生み出すことではありません。そうではなくて、神様ご自身を喜びとする、誇りとすることです。私たちをありのままに愛していてくださる神様ご自身を、喜び誇りとすることです。そして、その神様を喜び誇りとする時、私たちは、自分の状態と関係なく、神様から愛されている自分の価値をそのままに認めることができるでしょう。神様から愛されている自分を喜び誇ることができるでしょう。たとえ、何もすることができなくなったとしても、大きな間違いや失敗を犯してしまったとしても、他人に迷惑をかけてばかりであるとしても、神様ご自身によって愛され支えられている自分を喜び誇ることができるでしょう。

 私たちはどうでしょうか。何を喜びとしているでしょうか。何を誇りとしているでしょうか。神様でしょうか。あるいは、自分自身の中にある何かでしょうか。自分の成し遂げた何かでしょうか。

 私たちをありのままに愛していてくださる神様を喜び誇りたいと思います。私たちを愛するが故に、御子イエス様の命まで与えてくださった神様ご自身を喜び誇りたいと思います。そして、その神様から愛されている自分自身を喜び誇りたいと思います。神様から愛されているお互いを喜び誇りたいと思います。

2.神の愛が私たちの心に注がれている

 パウロは、神様の栄光に与る望みを喜んでいるのだと言っています。神様ご自身を喜んでいるわけですが、特別に神様の栄光に与る望みを喜んでいるのだと言っています。

 神様の栄光に与る望みというのは、何でしょうか。「望み」と言うからには、それはまだ実現していないものです。後に実現するものです。天に昇られたイエス様が、もう一度私たちの所に戻って来てくださる時に実現するものです。そして、その望みは、私たちが栄光を受けることではありません。神様が栄光をお受けになることです。しかし、その神様の栄光に、私たちも与ることのできる望みがあるということです。

 繰り返しになりますが、望みというのは、まだ現実になっていないものです。だからこそ、望みは、私たちの目を将来へと向けさせます。いつか望みが実現する将来へと目を向けさせます。しかし、それは、現在の現実から目を背けるということではありません。将来から現在を見つめ直すということです。私たちが神様の栄光に与る時から、現在を見つめ直すということです。そして、だからこそということになるでしょうか。パウロは苦難さえも喜んでいると言っています。

 パウロは「苦難さえも」という言い方をしています。どういうことでしょうか。それは、普通であれば、苦難なんか喜ぶことができないということではないでしょうか。「苦難が大好きだ」などという人は、普通はいないということです。私もそうです。苦難なんて大嫌いです。苦難なんて、ないに越したことはないと思っています。しかし、その苦難さえも喜ぶことのできるのが、私たちクリスチャンだということです。

 それでは、クリスチャンが苦難さえも喜ぶのは、どうしてなのでしょうか。クリスチャンはマゾヒストなのでしょうか。もちろん、そんなことはないでしょう。そうではなくて、パウロは、苦難が希望へとつながっていくことを知っていたからではないでしょうか。苦難が希望へとつながっていることを知っていたからこそ、苦難を喜ぶと言っているのではないでしょうか。苦難が忍耐を生み出し、忍耐が寝られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すということです。

 苦難というのは、耐えられる範囲のものであれば、私たちの成長につながるものであるかも知れません。適度の苦難というのは、私たちの成長に必要なものだと言えるのかも知れません。

 しかし、パウロが言っているのは、自分の成長のために苦難を喜びなさいということではありません。そうではなくて、希望があるが故に、苦難を喜ぶのだということです。神様の栄光に与る希望につながるものだからこそ、苦難さえも喜ぶのだということです。

 どうでしょうか。希望があると言えば、聞こえはいいですが、希望はいつもかなうというわけではありません。希望はあくまでも希望です。希望通りにいかないことは、いくらでもあるわけです。私の人生なんて、失望や絶望の連続でした。

 しかし、パウロが言っていることは、何でしょうか。それは、希望が失望に終わらないということです。

 パウロは、希望が失望に終わらないと断言します。なぜなら、私たちには神様の愛が注がれているからです。私たちには、洗礼を受けた時に与えられた聖霊によって、神様の愛が心に注がれているからです。そして、その神様の愛に満たされ、支えられているからこそ、希望は失望に終わらないということです。

 さきほど、適度の苦難は私たちの成長に必要なものであるかも知れないということを言いました。しかし、残念ながら、苦難は、私たちのことを考慮して、力を調節してくれるわけではありません。苦難は容赦なく襲ってくるわけです。私たちの力を越えるような苦難が、次から次に襲ってきたりもするわけです。そして、そのような苦難の中で、自分自身を見つめるなら、私たちは、希望を持つことなんて、できなくなるかも知れません。苦難に押し潰される弱い自分を見ながら、苦難の中で浮かび上がった醜い自分を見つめながら、自分自身に失望し絶望することがあるかも知れません。

 しかし、聖霊によって注がれている神様の愛は、決して変わりません。罪人であった私たちのために死んでくださった神様の愛は、決して変わりません。そして、その愛によって確かなものとされている希望は、決して失望に終わることがないということです。

 神様は私たちから苦難を取り除いてくださるわけではありません。しかし、苦難の中にある私たちと共にいてくださいます。苦難の中にある私たちの手を取って、助け起こして、背負って、共に歩いてくださいます。私たちが、自分自身を諦めても、自分自身について失望したり絶望したりしても、神様は私たちを諦めることなく、最後まで共に歩いてくださいます。私たちが神様の栄光に与るその所まで、私たちを導いてくださいます。

 私たちの希望は、とても頼りないものであるかも知れません。様々な苦難の中で、失望に変わってしまうようなものであるかも知れません。

 しかし、神様の愛によって、確かなものとされている希望は、決して失望に終わることがありません。そして、その失望に終わることのない希望を持たせていただくなら、私たちは、後に希望が実現する所から、現在の苦難を見つめ直すことができるのではないでしょうか。後に神様の栄光に与るその所から、現在の苦難を喜ぶ道が開かれてくるのではないでしょうか。

 大切なことは、ただひたすらに、苦難を我慢することではありません。忍耐力を養うことではありません。そうではなくて、罪人であった私たちのために死んでくださったイエス様の愛を、信じて受け取り続けることです。聖霊によって注がれているイエス様の愛に満たされることです。

 私たちはどのような苦難を経験しているでしょうか。自分の力を越えた苦難の中にあるでしょうか。  罪人である私たちのために死んでくださったイエス様を見つめさせていただきたいと思います。そのイエス様の愛が、聖霊によって、いつも私たちの心に注がれていることを確信したいと思います。そして、その愛によって確かなものとされている希望を持って、イエス様がもう一度来られるその日を待ち望みながら、新しい一週間へと遣わされていきたいと思います。

コメントを残す