礼拝説教から 2020年8月30日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙5章1-11節
  • 説教題:平和

 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ人への手紙5章1節)

 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ人への手紙5章9-10節)

1.神との平和を持っています

 パウロは、これまでの所で、信仰によって義と認められるということを力説してきました。

 義と認められるというのは、神様から正しいと認められることです。それは、神様との正しい関係が回復することであり、救われることを意味しています。そして、私たちが義と認められるのは、信仰によってだということです。信仰によってというのは、行いによってではないということです。神様の言葉である律法を完璧に行うことによってでもなく、立派な行いをすることによってでもなく、神様ご自身の恵みによって、義と認められる道が開かれたということです。真の神であり、真の人である主イエス・キリストが、罪人である私たちの代わりに、十字架の罰を受けて、死んでよみがえってくださったことによって、神様から義と認められる道が開かれたということです。そのイエス様によって与えられている恵みを感謝して受け取るのが、私たちの信仰です。イエス様が、十字架にかかって、死んで復活されたのは、自分の罪が赦されるためであり、自分が義とされるためだったということを、信じ受け入れることによって、私たちは神様から義と認められるということです。

 そして、パウロは、この信仰によって義と認められた私たちが、「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と言っています。信仰によって義と認められた私たちは、神様との間に平和を持っているということです。

 平和という言葉が出てきました。今日は8月最後の日曜日です。8月は、私たちが戦争や平和について、最も考えさせられる時期です。テレビや新聞では、先の戦争に関わる特集が組まれたり、ドラマや映画が放送されたりします。それは、戦争がいかに愚かなものであるかを学び、その愚かな戦争を二度と繰り返さないための取り組みであり、努力と言えるのではないかと思います。

 今年は戦後75年ということですが、どうでしょうか。日本は新しく立てられた憲法の下で、平和に歩んできたと言えるでしょうか。テレビのニュースなどで、今も内戦が続いていたり、テロが繰り返されていたりする国や地域の映像を見ていると、日本は平和だなぁということを感じさせられます。しかし、その一方で、先日も、原爆の後遺症に苦しむ人々の裁判がニュースになっていましたが、様々な戦争の後遺症に悩み苦しむ人々にとっては、「戦争はまだ終わっていない」と表現されたりします。そして、「戦争はまだ終わっていない」と感じる人々がいるとすれば、それは、真の平和も、まだ実現していないということを意味しているのかもしれません。

 いずれにしろ、私たちにとって、平和というのは大切なものです。誰もが願い求めるものでしょう。そして、パウロは、その平和を、信仰によって義と認められた人々が持っていると言っています。それは、神様との間に実現した平和です。

 パウロは、どうして改めて、神様との関係における平和について語っているのでしょうか。それは、通常であれば、私たちが神様との関係において、平和を持っていないということを意味しているのではないでしょうか。罪人である私たちは、神様との間に平和がないということを意味しているのではないでしょうか。神様ご自身から義と認められて、初めて、私たちは神様との間に平和を持つことができるということではないでしょうか。

 どうでしょうか。ノンクリスチャンの人々であるならば、もしかしたら、「何のこっちゃ」ということになるかも知れません。「自分は別に神様とケンカなんかしていない」ということになるかも知れません。

 それでは、パウロが神様との間に平和を持っていると言っているのは、どういうことなのでしょうか。

 ここで「平和」と訳されている言葉は、「平安」と訳されたりもします。平和と平安はよく似た言葉ですが、どちらかと言えば、平和は関係に焦点が当てられていて、平安は個人の内面に焦点が当てられています。平和が、人と人との関係や国と国との関係の中に実現するものであるなら、平安は、個人の心の中で実現するものです。そして、平安というのは、穏やかな状態を意味しています。穏やかで安心していることができるということです。警戒心を解いて、肩の力を抜いて、リラックスしていることができるということです。

 戦後75年、確かに日本は戦争をしてこなかったと言えるかも知れません。そして、戦争をしていないのならば、日本は平和だと言えるのかも知れません。しかし、だからと言って、完全に安心しきっていることができるかと言えば、決してそういうことではないでしょう。日本にはアメリカ軍が駐留していて、自衛隊も組織されていて、何かがあったら、すぐに対応をすることができるようになっています。どこかの国でミサイルの発射がどうのこうのというニュースが流れれば、国民は大騒ぎになります。そして、それは、常に身構えているということを意味しています。前に武器を持った敵がいることを意識していて、いつも何らかの事態に対応することができるように身構えているということです。安心して、武器を捨ててということではなくて、武器を持って、身構えているということです。そして、そのように身構えていなければならないとすれば、そこには平安があるとは言えないのかも知れません。そのような関係は平和だとは言えないのかも知れません。

 私たちが神様との間に平和を持っているというのは、私たちが神様から完全な平安をいただいているということです。私たちは、神様の前で、安心しきっていることができるということです。肩の力を抜いて、リラックスしていることができるということです。私たちは、神様がいつも自分の味方であることを確信して、安心しきっていることができるということです。どのような失敗や間違いを犯したとしても、何もすることができなくなったとしても、神様の愛は決して変わらないことを確信して、安心しきっていることができるということです。すべてを神様に任せて、人生の細々とした問題から死の問題に至るまで、すべてを神様に任せて、安心しきっていることができるということです。

 どうでしょうか。私たちはこのような平安を持っているでしょうか。誰かとの関係の中に、このような平和があるでしょうか。表立ってケンカをしているということではないかも知れません。しかし、本当に安心していることのできる関係、完全にリラックスしていることのできる関係が、私たちにはあるでしょうか。神社に祀られている神様との間に、仏様との間に、すべてを安心して委ねることのできるような関係が成り立つでしょうか。

 神様は、その平和な関係を、信仰によって義と認められた私たちとの間に、実現してくださっています。ご自分の前で、完全に身構えを解いて、リラックスすることのできる平安を与えてくださっています。

 私たちはどうでしょうか。神様との間に平和を持っているでしょうか。神様との平和な関係の中で、神様ご自身から平安をいただいているでしょうか。

 私たちの礼拝に集められた一人一人が、信仰によって義と認められて、神様との間に平和な関係を持つことができることを願います。神様ご自身から、この世界のどこにおいても見つけることのできない平安をいただきたいと思います。

2.御子の死によって神と和解させていただいたのなら

 信仰によって義と認められた私たちが、神様との間に平和を持っているのは、イエス・キリストによってだということを、パウロは言っています。

 どういうことなのでしょうか。

 パウロは、私たちが、信仰によって義と認められる前には、神様の怒りを買っていたということを言っています。さらに、私たちが神様の「敵であった」とも言っています。神様と私たちの間には、ただ単に、より積極的な意味の平和が実現していないというだけのことではなくて、私たちは神様の敵であったのであり、神様の怒りを買っていたのだということです。そして、それは、私たちが、神様から愛されて生きる関係を拒み、神様から顔を背けて、自分中心に生きることに他なりません。そして、その結果として、私たちが、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満たされていることであり、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれているということです。それは、神様が私たちに願っておられることではありません。私たちは、神様を愛し、また互いに愛し合うことを願っておられる神様の御心とは反対に、神様に敵対して、神様の願いと正反対のことをしているということです。

 しかし、今日の本文の中で、パウロが言っていることは何でしょうか。それは、神様の方から、私たちに和解の手を差し伸べてくださっているということです。ケンカを売った私たちの方で、悔い改めて、神様に和解を願ったのではありません。逆に、ケンカを売られた神様の方から、私たちとの和解を申し出てくださったということです。

 私たちは、和解を願うようなことがあるでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、兄弟姉妹の間で、友だちとの間で、和解を願うことはあるでしょうか。ケンカをしてしまって、あるいは、何となく気まずい関係になってしまって、和解を願うことはあるでしょうか。

 そして、和解を願うとすれば、それはどうしてでしょうか。それは、その関係が大切だからではないでしょうか。大切な関係だからこそ、おかしくなった関係の回復を願って、和解を求めるのではないでしょうか。

 神様は、私たちからケンカを売られたにもかかわらず、ご自分の方から私たちとの和解を申し出てくださいました。しかも、それは、上から目線でということではありません。和解の見返りに、私たちに何かを要求されたのではありません。むしろ、その反対に、神様の方から、切に和解を願ってくださいました。かけがえのないご自分の御子イエス・キリストの血によって、私たちの罪が赦される道を開いて、私たちに和解の手を差し伸べてくださいました。かげがえのないご自分の御子イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、私たちとの和解を願ってくださいました。そして、それは、神様が、それほどまでに、私たちを愛していてくださるのであり、私たちとの関係を大切にしていてくださる証しです。実際に、その神様の愛に気づかされて、神様の愛を受け入れた私たちとの間に平和を実現してくださいました。

 平和というのは、黙っていれば、勝手に実現するというものではありません。互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合っていく中で、実現されていくものです。そして、その土台となるのが、神様との関係です。神様から、ありのままに愛されている、完全に赦されている、その神様との関係が土台となって、私たちは互いに愛し合い、赦し合う者となることができるということです。

 神様は私たちをご自分との平和な関係の中に招いていてくださいます。御子イエス・キリストによって実現した、ご自分との平和な関係の中で、新しく生きることを願っておられます。平和を愛する者として、平和を作り出す者として生きることを願っておられます。

 私たちの歩みはどうでしょうか。

 毎週日曜日の礼拝の中で、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を見つめながら、罪人の私たちが、神様からありのままに愛されていること、完全に赦されていることを覚えたいと思います。神様からありのままに愛されている者として、完全に赦されている者として、互いに愛し合い、赦し合う者となることができればと思います。そして、そこに、真の平和の実現を見ることができることを、心から願います。

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