礼拝説教から 2020年8月23日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙4章13-25節
  • 説教題:事が恵みによるように

 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。(ローマ人への手紙4章16-18節)

1.

 パウロは、アブラハムとその子孫に「世界の相続人となるという約束」が与えられたと語っています。「世界の相続人となる」約束というのは、アブラハムとその子孫が、祝福の源になるということです。アブラハムとその子孫によって、世界中の人々に神様の祝福がもたらされるということです。神様から義と認められ、神様の民として新しく生きる救いの道が、アブラハムとその子孫によって、世界中の人々に開かれるということです。そして、その約束がアブラハムとその子孫に与えられたのは、律法によってではなくて、信仰による義によってであったということです。神様の約束は、律法を行う人々ではなくて、信仰によって義と認められる人々に対して与えられているということです。そして、それは、律法の行いによっては、義と認めてもらうことのできない私たち罪人の現実を、神様が踏まえていてくださるということでもあるでしょう。

 パウロは、結論として、「すべては信仰による」ということを言っています。そして、その「すべては信仰による」という結論に、「事が恵みによるようになるため」だという説明を付け加えています。「『すべては信仰による』のだけれども、それは、『事が恵みによるようになるため』」だということです。

 どういうことでしょうか。それは、「信仰による」ことが、結局の所は、「恵みによる」ことにつながらなければならないということではないでしょうか。「信仰による」というのは、「恵みによる」ということに他ならないということではないでしょうか。そして、その「恵みによる」というのは、神様ご自身の御心によって、神様ご自身の力によって、神様ご自身の愛によって、事が進められるということです。私たちの意志や力によってではなくて、神様ご自身の御心や力や一方的な愛によって、事が進められるということです。何の働きもない私たちのために、自分で自分の義を主張することのできない私たちのために、神様が、ご自分の御心によって、ご自分の力によって、ご自分の愛によって、約束を実現させてくださるということです。そして、その神様の恵みによる約束を受け取るのが、私たちの信仰です。自分が受け取る資格のない者であることを弁えながら、その自分に与えられている神様の恵みの約束を受け取り続けていくのが、私たちの信仰です。そして、だからこそ、「信仰による」というのは、「恵みによる」ということに他ならないということです。逆に言うと、「信仰による」と言いながら、神様の恵みを見つめていないなら、それは、信仰が何であるかを分かっていないということです。信仰もまた、行いになっているということです。神様の恵みを、信仰という行いの報酬として、受け取ろうとしているということです。

 先週は割礼について分かち合いました。割礼というのは、神様がご自分の民と結ばれた契約のしるしです。そして、旧約聖書の時代において、神様はアブラハムと契約を結び、アブラハムに割礼を命じられました。それは、アブラハムが特別に素晴らしい人だったからということではありません。アブラハムもまた、神様の前では、罪人の一人に過ぎませんでした。しかし、アブラハムは、神様がその罪人の自分を義と認めてくださる方であることを信じたのであり、その信仰が神様から義と認められたということです。アブラハムの信仰の前には、神様の恵みがあったということです。そして、アブラハムが、信仰によって義と認められた後に受けた割礼は、その神様の恵みを指し示しているということです。受け取る資格のない自分に与えられている神様の恵みを指し示しているということです。アブラハムは、「信仰によって義と認められたことの証印として」受けた割礼によって指し示されている神様の恵みを見つめていたということです。

 しかし、その割礼について、神様は、アブラハム以後の人々に対しては、「生まれて八日目」に受けなければならないと命じられました。実際に、その神様の命令に従って、アブラハムは、やっとのことで与えられた赤ちゃんのイサクに割礼を施しました。

 アブラハムは、「信仰によって義と認められたことの証印として」、割礼を受けました。割礼は、アブラハムが信仰によって義と認められたことの証しであるわけです。アブラハムに求められたのは信仰でした。そして、パウロも、その信仰が、アブラハムとその子孫を結びつけるのだと言っています。

 しかし、そうであるにもかかわらず、神様は生まれて八日目の赤ちゃんに割礼を施すことを命じられたということです。もちろん、生まれて八日目の赤ちゃんに、信仰を告白することなどできません。

 そうすると、どういうことになるのでしょうか。神様は、アブラハム以降の人々については、信仰なんてどうでもいいと思っておられたのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 割礼というのは、契約のしるしです。神様がご自分の民と結ばれた契約のしるしです。そして、神様がアブラハムやその子孫であるユダヤ人たちと契約を結ばれたのは、神様ご自身の一方的な恵みによるものです。罪人を愛する神様の一方的な恵みによるものです。そして、神様との契約のしるしである割礼は、その神様の恵みを指し示しているということです。神様が愛してくださっているが故に、何の資格もないにもかかわらず、神様の民とされている恵みを、割礼は指し示しているということです。その割礼を、生まれて八日目に受けてきたユダヤ人たちに求められていたのは、その恵みを見つめることだったと言えるでしょう。受け取る資格のない罪人の自分たちに与えられている神様の恵みを、体に刻まれた割礼によって見つめることに他なりませんでした。神様の民とされる資格がないにもかかわらず、神様の民とされている恵みを見つめながら、神様の方を向いて、神様との関係の中で、神様と共に生きることでした。それが、悔い改めるということであり、神様を信じるということであり、神様から求められていたことでした。割礼の父であるアブラハムの信仰の足跡に従って歩むことでした。

 ユダヤ人たちは、割礼というしるしによって、罪人の自分たちに与えられている神様の恵みを見つめるのではなくて、自分たち自身を誇りました。割礼という信仰の行いによって、自分たちを誇りました。そして、恵みとして受け取る神様の約束の実現を、行いに対して受け取る報酬に変えてしまいました。そして、このユダヤ人たちの問題は、行いから自由にされているはずのクリスチャンである私たちにも、そのまま当てはまることです。

 神様を信じるというのは、神様の恵みを見つめるということです。自分が神様から義と認められているのは、良い行いによってでもなく、素晴らしい信仰によってでもなく、ただ神様の恵みによることを、受け取り続けていくことです。

 私たちの信仰は、どうでしょうか。受け取る資格のない罪人の自分に与えられている神様の恵みを見つめるものとなっているでしょうか。その神様の恵みから目をそらして、自分自身を誇るための行いになってしまっていることは、ないでしょうか。

 イエス様の十字架を通して、いつも神様の恵みを見つめさせていただきたいと思います。

2.

 パウロは、アブラハムが、「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」たと言っています。

 アブラハムは、「多くの国民の父となる」ことを、神様から約束されていました。しかし、アブラハムには子どもが与えられませんでした。多くの国民の父となるどころか、一人の子どもも与えられませんでした。そして、アブラハム本人も、妻のサラも年を取っていきます。アブラハムは99歳、サラはその十歳年下です。そして、それは、アブラハムが子どもを望み得ない年齢になっていたことを意味しています。約束の実現を望み得ない年齢になっていたことを意味しています。アブラハムとサラの夫婦は、決して子どもを産むことのできない年齢になっていたのであり、その点で、二人の体は死んだも同然だったということです。

 しかし、その二人の間に約束の子どもであるイサクが与えられたわけです。それは、神様が「無いものを有るものとして」召されたということです。命が生み出されない所から、命を呼び出されたということです。そして、それは、人間的な力が完全になくなった所で、人間的な望みや可能性が完全になくなった所で、神様の約束が実現に向かって動き出したことを意味しています。それは、事が恵みによってなされたということに他なりません。神様の約束は、ただ、アブラハムを選ばれた神様の御心によってのみ、神様の力によってのみ、実現へと動き出したということです。アブラハムやサラの、どのような知恵や力も用いられることなく、ただ、アブラハムを選ばれた神様の一方的な恵みによって、実現へと動き出したということです。逆に言うと、アブラハムは、自分たち夫婦のどのような知恵や力も、完全に意味をなさなくなる所で、神様の約束が神様ご自身の恵みによってのみ実現へと動きだすことを、ただ信じることしかできなくなる時まで待たなければならなかったということになるのかも知れません。

 繰り返しになりますが、神様を信じるというのは、神様の恵みを見つめるということです。その神様の恵みを受け取り続けるということです。そして、その神様の恵みを、アブラハムは、約束の子どもであるイサクの誕生という出来事において、見つめたのであり、受け取ったのであり、その信仰が神様から義と認められたのだということです。

 そして、パウロは、アブラハムが義と認められたのは、ただアブラハム本人のためだけではなくて、パウロの手紙を読んでいるローマの教会の人々のためでもあり、現在の私たちのためでもあることを語っています。それは、アブラハムが、「無いものを有るものとして召される」神様を信じて義と認められたように、主イエス様を「死者の中からよみがえらせた方を信じる」私たちも義と認められるということです。

 パウロは、すべての人が罪の下にあると語っていました。そして、誰もその罪の問題を自分で解決することはできません。私たちは、自分のどのような行いによっても、罪を償うことができないということです。私たちには罪の赦される可能性や望みがまったくないということです。そして、だからこそ、主イエス様は、その私たちが罪を赦されて義と認められるために、私たちの代わりに十字架の罰を受けてくださったのであり、よみがえってくださったということです。人間のどのような知恵や力によっても、どのような行いによっても、獲得することのできない救いを、恵みとして受け取る道を、私たちのために開いてくださったということです。そして、大切なことは、その救いの恵みを、見つめて受け取るということに他なりません。

 毎週の礼拝の中で、イエス様の十字架の死と復活を見つめ続けていきたいと思います。その十字架の前で、自分の罪の深刻さと、与えられている救いの恵みの深さに気づかされたいと思います。そして、私たちのどのような知恵や力によってもでもなく、働きによってでもなく、ただイエス様の恵みによって支えられていることを覚えながら、イエス様に従っていきたいと思います。

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